第8話 釣りの翌日の日
国宝の城の北側、歴史のある小学校に面した一画に、「キッチン 当たり屋」はある。
落語好きの店主で、当たり屋の屋号は柳家喬太郎の時蕎麦のネタから取った。もっとも、これは初期のネタで、今では「外れ屋」ということが多い。
ウッディな店の中には、観葉植物の大鉢が一つ、四人掛けテーブルが二つ、二人掛けが三つ、小さなカウンターに五つの椅子が置いてある。
決して大きくはない店だ。
メニューは日替わり、定食一種類のみ。
その代わり、料理は本格的で手を抜かず、美味いコーヒーか紅茶などの飲み物が付く。
店主は脱サラした四十代の男。
もうすぐ梅雨が明ける。夕立が激しく、夏の予兆を感じる。空気も、蒸さなくなってきた。
今日のランチメニューは、鯵丼。
この店は客を選ぶ。
「一見様お断り」ということではない。
店主が好みのものを作る。そこに妥協がない。客が好みに合えば良い店になり、合わなければその逆だろう。
青魚が苦手な客のために鮪も用意、などという選択はない。ただ、ぶっきらぼうな字で「鯵丼定食、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板が、店の前に置かれるだけだ。
今日の客は、作業服、スーツ、商店街の店員が同率。やはり、新鮮な魚は誰もが好むということだ。その一方で、内陸のこの土地に来てまで、魚を食べようという観光客もいないのだろう。
「キッチン 当たり屋」は、昨日は定休日だった。
店主は、脱サラする前から釣りにはよく行っていて、経験を積んでいる。
今回は、東京湾で船に乗り、良い思いをしてきた。釣った数は四十を超える。東京湾の居着きの鰺は、体高が高く、緑がかった金色の体色をしている。外海の黒い鯵とは、ひと目で簡単に見分けがつく。魚屋や板前のプロの目利きのレベルではない。大きさも、程よく揃っていたし、脂も白くぎっちりとのっていた。
これを釣りあげると同時に血抜きをし、海水氷できっちり冷やす。これで鯵の身の色は白く透き通るような色となり、血腥さがなくなる。
この鯵に勝る鯵は、世界のどこにもない。
青磁の丼には、酢飯。これは、塩と生姜のみじん切りを加えることで、ほんのりピンクに色づいた京都の酢を寿司酢としている。これには、砂糖を入れない。塩の量を見切ることで、米の自然な甘さを引き出すのだ。
そこに、茗荷、ネギ、紫蘇を刻んだものに、大根を千切りよりも更に細く切ったものを混ぜ合わせて載せる。その上に、金鯵の刺身。そして、その脇には、少々の醤油で染めた生姜のすりおろし。
中骨は、潮汁にする。昆布だしを沸騰寸前まで温め、中骨を入れる。出汁が出たら濾す。酒をふり、塩を入れ、最後に醤油を数滴。さいの目に切った豆腐、白髪ねぎと細く切った生姜を散らす。目立たないよう、少量の黒胡椒を一振りして完成となる。これは店主流の隠し味だ。もっとも、最近来るようになった、あの客にはお見通しとなるだろうが。
胸ビレがついたままのカマの部分は唐揚げにし、タマネギ、ニンジン、セロリを糸に切ったもの、小口に切った唐辛子と一緒に南蛮漬けにする。京都の酢と生姜で、小鉢として最高の口直しになるだろう。
鰺一匹を、客一人に余さず食べ切ってもらうためのメニューである。
青磁の丼、粉引の小鉢、黒漆の椀に吸い物。これで税込600円。
俺は、街の一画にある、組織の重要な施設に、任務を果たすために三ヶ月ちょっと前から赴任して来た。
ターゲットの観察の結果、事態の進行に合わせて監視人数が一人増えている。加えて即応体制も整えた。連絡一本で、一時間で半分が、もう三十分で残りの半分の部隊が駆けつける。
俺達は骨董店を出て、観察対象建物を横目に通り過ぎ、ちょうど五十歩めで「鯵丼定食、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板にぶつかった。
今日の双海は、元気がない。
疲れているのだ。カバーの方の仕事、すなわち骨董品整理で、雑多な品物の、それぞれの過去を訴えるにおいの量に酔ったのだ。こういう時、俺はつくづくと、通常の人間の感覚でよかったと思う。
店の戸を開けて中に入る。他の客の会計中の店主に会釈して、カウンターに並んで腰を据えた。
店主が、水とペーパーおしぼりを目の前に置く。
注文は選ぶことができないので、聞かれない。
ただ、その一方で、聞かれたのは次のこと。
「コーヒーにしますか、紅茶にしますか。今日は和食なので、冷茶もあります」
「コーヒー、いつもので」
双海が答える。
「冷茶で」
俺も答える。双海のコーヒー好きは筋金入りだ。午前に疲れ切ったので、自分に活を入れたいのだろう。で、こいつはモカが好き。店主もそれを知っている。
「かしこまりました」
そう言って、店主は厨房に戻っていく。
ほとんど間を置かず、鯵丼定食が置かれた。
「ごゆっくり」
低い声で言って、店主は別のテーブルを片付けだした。
なんと言えば良いのだろうか。今日の鯵丼は、見た目の彩度の高い料理という表現が良いのかも。
鯵の刺身が、なにかの金属のようにぴかぴか輝くように光っている。銀色の皮の輝き、血合いの鮮やかな赤の色、身の白さ、全ての色の彩度が高く、コントラスト比が高い。
鯵というのはもっとこう、落ち着いた色彩ではなかったかと思う。控えめな皮目の銀色、うっすらと茶色がかった血合い、ピンク色の身。特に、身自体のコントラスト比はそれほど高くなかったはずだ。身近な魚なのに、その見た目に裏切られて、なんか、納得が行くような、行かないような気持ちになる。
お椀の汁はあくまで透明だ。底まで見通せ、具のそれぞれがくっきりと見える。白湯に豆腐が浮かんでいるのではないかという感じすらする。
小鉢は、揚げた鯵の胸ビレがピンと立っていて、口内に刺さりそうなほど固く見える。
予想していたものとのあまりの違いに、積極的に美味そうだとあまり感じず、ふーん、と思いながら箸をつける。
双海も箸を手に取るのが、視界の片隅に見えた。
丼を持ち、鯵の刺身を口に運んで、最初に感じたのは違和感だった。
率直に言う。
鯵の味がしない。
思わず横の双海を見る。双海もこちらを見ていた。
記憶にある鯵より、はるかに美味いのだ。脂が乗っていて、しこっとした歯触りといい、申し分なく美味い。でも、これは鯵じゃないよな。何か別の白身の魚ではないのか。
その疑問を、目で双海と語り合う。
一旦、丼を置き、汁椀を持つ。
潮汁だろうという予測はしていたが、これも違う。生臭みなど毛頭無い、何かの癖のない旨味だけが凝縮されて、透明な温かい液体になっている。潮汁だと頭の中で分類はできるのだが、今まで食べてきたものと違い過ぎて、違和感を感じる。
判らない。
再度、丼を持つ。美味い。それだけで食べても美味い鰺刺しだけど、香味野菜と、さらにはその下の酢飯と同時に口に含むと、さらに旨味が膨らむ。
小鉢にも箸を伸ばす。鯵の胸ビレの付いたカマの部分が二つ、あとは野菜。
固いなどとんでもない。さくりと、ほろりの中間の歯ごたえ。香ばしさと酸味、わずかな辛味が、玉ねぎやセロリの香りと調和している。
まったく、ここの食事は食べだすと止まらない。美味い。
気がつけば、器はほぼ空となっている。
双海が、嗅覚分析結果を呆然と独白している。その鋭い感覚が、快感を伴う新しい発見を強いられたとき、こいつはこうなる。
「今まで食べていた鯵は、なんだったんだろう?
俺は、
血腥いものを好んで食べたくないし、鰺の旨味は、今まで思っていたのと全然別のところにあるし、とにかく、香りも味も全然違う。だから、潮汁も違ったんだと思う。
隠し味に黒胡椒が振ってあったけど、この違いはそんなところにあるんじゃない。別の種類の鯵なのかな、これは」
まったく同感だ。
双海の言葉に、そうか、嗅覚がどれほど鋭くても、分析できる過去の経験や知識がなければ、俺の感想と変わらないのかなどと、考えてみればあまりに当然のことを新発見したような気になる。
カウンターの中を見ていると、相変わらず、店主は盛り付けるだけ、乗せるだけの作業を素早くこなしている。考えてみれば、ランチの休憩時間をオーバーして、定時に会社に戻れなかったら、その店には怖くて再び行くことはできない。毎日、真剣勝負なのだなと思う。
店主が、コーヒーと冷茶を運んできた。
「何を食べたんでしょう、今日の我々は……」
思わず聞く。
店主が、にこりとにやりの中間の笑みを浮かべる。双海を出し抜けたのが嬉しいのかもしれない。
「江戸前の金鰺ですよ。それも、釣り上げてから生きている間に一匹一匹血抜きをして、即、氷点下で鮮度を保ったものです」
「ああ」
双海が納得したような声を上げる。
「そうか、血抜きをすれば血の臭いはしない。そして、まだ身が生きているうちに温度を下げてしまう。言われてみれば、当然ですね。
でも、そうだとすると、逆になんで今まで、こんな美味い鰺を食べたことがなかったんだかが不思議です」
店主はカウンターの内側に戻り、他の客の飲み物を用意しながら、説明を続ける。
「ある意味当然でして、昨日、私が釣って、一匹一匹処理しました。
網で獲った魚は身が揉まれますし、血抜きもできません。釣りで丁寧に処理した鰺、それも江戸前となると、買うとしても数が少なすぎて、まず手に入りませんよ」
「血腥さ以外にも、味自体が違う気がしました。江戸前ってのは、そんなに変わりますか」
「ええ、他の産地とは別の魚になりますね。
東京湾に居着きの鰺は、黒くないんですよ。金色で、身は厚く、骨は細くなります。味も、大味な感じがありません。鯵フライにしたら、ふわふわで旨味だけの天国が見えますよ。
同じように金色になった江戸前のサバは寄生虫もいませんし、刺身としてはどんな魚よりも美味いかと。
穴子なんかでも、そういう変化が起きますから、羽田や小柴のは、他の産地と全然違います。口の中で消えるような柔らかい煮物は、他の産地の穴子では無理です。
私個人としては、江戸前の魚があってこその握り寿司だと思いますね」
ああ、ちらし寿司のあの穴子はこういうことだったのかと、ようやく種明かしされた気になる。
「ありがとうございます。今日も、大変美味しく頂きました」
「ありがとうございます。次もご期待に添えるよう、努力します」
いつもの挨拶。今日は店主の完勝かな。
「一人600円になります」
二人で1200円。いいのか? この値段。
「ありがとうございます」
「今日はコストパフォーマンス、良すぎじゃないですか?」
「道楽の副産物に、値段付けられませんからねぇ。
そう考えれば、一応、一日の目標純益は上がるんですよ」
あ、そういうことか。
「今度、釣りの時は連れて行ってください」
おやおや、双海、そこまで江戸前の魚に惚れたか。
「良いですよ、是非」
店主の了承を得て、店を後にする。
トータルで二十五分。なんというか、世の中は深い。きっと、海沿いに生活している人や、釣りを趣味にしている人は普通に知り、普通に食べているのだろう。
それを、内陸に生まれ育った俺たちは、全く知らなかった。
「俺たち、
なんか、こんな幸せなステージがあって良いのか」
双海が言う。
「たまには良いんじゃないか」
と笑いながら、道を戻る。
ふと、双海の身にまとっている空気が変わった。
ターゲットの施設から、ほぼ全員が出て行く。俺と双海に言葉はいらなかった。
俺は、のんびりとスマホを取り出して、骨董店の店長に報告のメールを打つ。警察に、Nシステムからの情報提供も依頼しておく。
双海は足の確保。
連中、施設に隠した武器まで放り出して、どこに行くのか。
★ ★ ★ ★ ★
アジなぞ。
https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1306103416855306242
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