第22話 ゲノム・インプリンティング


 「15番目の染色体には、ゲノム・インプリンティングで制御されている部分がありますよね」

 うん?

 初めて聞く単語だ。

 インプリンティングならば、「刷り込み」だよね。確か、雛鳥が生まれて始めて見た動くものを親と思っていて歩く、そういうのだった。

 遺伝子に、そういったなにかが刷り込まれているというのだろうか?


 「私もさきほどネットで学んだ知識ですから、誤りもあるかもしれませんが……。

 両親から一セットずつ受け取った染色体のうち、15番目の染色体中の遺伝子の一部分は、選択的に父親からの遺伝子しか発現しないそうですね」

 美岬、無機的に話そうと努力している。それでも、わずかに動揺が漏れてしまっている。


 「母親由来の15番目のその部分は、存在していても何もしていないの?」

 思わず、俺、横から口を出して聞いてしまう。

 だって、そんなのあったら、メンデルの法則が成り立たないじゃんか。


 「うん、ゲノム・インプリンティングは、哺乳類だけにしかないんだって。

 父親由来の遺伝子に異常があると、母親由来の正常な遺伝子があっても意味がなくて、プラダー・ウィリー症候群とかの病気になってしまう」

 「それって、今回の減数分裂が起きていない卵が排卵されるという仮説のとおりだったとしたら、46本のセットがそのまま母娘の世代間を移動したということで、逆に矛盾はないんじゃないのかな?」

 美岬は坪内佐に話しているんだけど、俺、わけが解らなくて聞いてしまう。


 「それが、この父親由来の遺伝子しか働かない機能がある理由は、哺乳類において、雌性単為発生を防ぐためという仮説が有力なの。鳥類までは雌性単為発生の例があるけれど、哺乳類ではその例がまったくないって。

 観察数を増やして実験しても、哺乳類の単為発生卵は、発生から十日以内にことごとく死ぬと。

 だから、ゲノム・インプリンティングによって、減数分裂が起きていない卵から雌性単為発生は起きないようになっているということで、私が雌性単為発生だというその仮説はそもそも成り立たないんだよ。

 父母それぞれの由来で働く遺伝子が最初から決まっているから、『刷り込み』なんだって」

 言われたことの意味、どう考えていいかまったく判らなくて困惑する。


 「グレッグ、そんなことはなにも言っていなかったぞ。

 向こうの国の発生学の泰斗に、意見を求めたって言っていたけれど」

 苦し紛れに言う。

 それを受けて、美岬はさらに続ける。


 「私たちに気がついていないことがあるのか、グレッグが知っていて、なにかの意図があって隠しているのかも。

 それにね、それだけじゃないの。

 青い瞳って、変異したeycl3という遺伝子を、両親からそれぞれに貰っていないと発現しないって。

 父も含めて、代々の明眼の夫になった人が、皆んなそんな青い瞳の遺伝子を持っていたとはさらに思えない。

 本当にもう、どう考えたらいいか、解らないの。

 瞳の色は雌性単為発生という可能性を示しているのに、その色を決定する遺伝子のある染色体自体は雌性単為発生を防ぐ機能を持っているんです。

 こんな矛盾を解消するには、なんらかの遺伝子に対する人為的操作が必要かもしれない。

 でも、私たち『明眼』は、幕末から続いているんです」


 坪内佐は答えなかった。

 さすがにここまでの生物学的なことを聞いて、即答はできないだろうと俺は思っていたけれど……。


 坪内佐は、「ひたっ」っていう感じの眼差しで美岬を見た。

 そして、別のことを聞いてきた。

 「武藤佐は健在かな?」

 えっ?

 俺たち、いろいろ話すのに、武藤佐の状態だけは伏せていた。

 それも、体調ならばまだいいけれど、精神的なものだから余計に言えなかった。


 無機的に話していた坪内佐から、初めて人間らしい感情のにおいがした。

 苦悩のにおいだ。

 「美岬さんが、なぜ、それを私に聞いたかということだ。

 武藤佐であれば、それなりの仮説を立てただろう。だが、それができない状況なのだろう?

 私は、武藤氏と朝倉さんの再会を知っている。

 そして、再会後の二人のリハビリも、互いが信頼までを取り戻すまでに掛かった時間も知っている。

 そして、美岬さんの誕生によって、二人が失われた時間をようやく取り戻せた気になれたのを知っている。

 その根底が崩れれば、武藤佐は優秀とは言えど、どこか不安定さを隠し持っていた独身時代に戻ってしまいかねない。

 それを私は危惧する

 いや、さらに踏み込もう。

 武藤氏がいるだけに甘えを生じ、独身時代以前に退行してしまうかもしれない。

 君たちが持ってきた考察は、武藤佐のものなのか?」


 ぐっ、と詰まった。

 俺、ちっとも成長しない。

 慧思ならば、さらっと嘘をつけるんだろうけれど。

 もう一つ、武藤さんが、辛そうな武藤佐にいろいろな考察を強いていた理由も、今の坪内佐の言葉で理解できた。

 武藤佐が退行してしまわないよう、現在の自分を認識させ続けていたんだ……。


 詰まった俺以上に動揺したのが美岬だ。

 親のことだし無理もない。

 「大丈夫ですっ」

 あ、美岬、君も相変わらず嘘が下手だなぁ。

 そこは、「そうです」でないと、会話として破綻しているだろうがよ。しかも、語調が強すぎだよ。


 「なるほど、やはり武藤氏の考察か。

 ったく、あの人は……」

 「すみません」

 墓穴の中で即死している美岬の代わりに、俺が謝る。


 「さっきのリハビリの話なんだがね。

 武藤氏は、あの図体でウサギみたいに過敏かつ怯えに支配されていたから、カウンセリングが必要になった。ところが、ことごとくカウンセラーの思考の先回りをしてしまってな。

 その場でカウンセラーの言動からその方法論を演繹して、理解してしまうんだ。だから、結果としてカウンセリングが成立しなかったんだよ。

 しまいには、カウンセラーの方が自覚しないまま、病んだ人からのカウンセリングで癒やされているような状態で、お話にならなかった。

 まぁ、それでも優秀なカウンセラーだったので、自らの状態に気がついて白旗を上げてきた。

 で、私が駆り出されたんだ。

 相手が外部のカウンセラーでは、『つはものとねり』に絡むことも話せないだろうし、カウンセリングの基本は聞くことだから、お前にもできると朝倉佐におだてられて、な。

 あの体もその中身も巨人だから、十年のブランクをなにかの研究に捧げられていたら、ノーベル賞だって夢じゃなかったかもしれない。

 それに付き合わされる方は、たまったもんじゃなかったが……」

 それはそれは、さぞや大変だったでしょう。

 皮肉でなく、純粋にそう思う。


 「まあいい。

 それが最後はゲーム化して、相当に楽しかったのも事実だからな。

 とにかく、武藤氏がそう考えたのであれば、その考察は正しいだろう。

 私の考えていた可能性とも一致する。

 そういえば、双海真由さんの存在は、アメリカ国内の組織間で火種になると言っていたらしいな。だから、救出は待てと。

 武藤氏、『打手返うってがえし』を考えているのだろうな」


 ああ、それかぁ。

 「打手返し」って、囲碁の手だ。

 自分の石を窮地に置いて、あえてそれ取らせることで、相手の出方の可能性を狭め、絶体絶命に追い込む手だ。こっちの石を取った瞬間に、相手の敗北が決まる。

 覚えていてよかったな、囲碁。

 俺も、どの手か分かれば、少しは武藤さんの考える方向が解る。


 アメリカのどこかの組織が、姉を誘拐して洗脳し、俺を説得させようとした。

 でも、その姉という石を取ったから、説得以前にその意図に気がついた俺たちは敵に回っている。アメリカ国内のグレッグの組織に姉の誘拐の非道さを訴えて、こちら側の意図に誘導できれば、その組織は四面楚歌の状況に追い込まれて、形としては「打手返し」が成立する。


 「おそらくだが、武藤氏の『打手返し』から、グレッグの考えることも読めてきたよ。

 双海君、しっかり思い出して欲しい。

 グレッグは、『美岬さんは武藤佐のクローンだ』と明確に言ったのか?」

 えっ?

 クローンって言ったよな……?

 ええっ?

 M1からM3までの泳動パターンを見せられて、クローンと思った。

 あれっ?


 「正確に思い出せませんが、言ってないかも……。

 ただ、資料はクローンであることを示していますよね?

 それとも、あの資料は嘘なんですか?」

 「そうか、やはりグレッグも同じく『打手返し』を狙っていたな」

 「えっ!?」

 「あの資料は真実だろう。だがね、19番目の解析だという話だが、どっちの染色体だ?」


 愕然とした。

 そうか、染色体、19番目は2本あるんだ。

 これもきっと、グレッグの誘導だ。

 武藤佐から美岬が受け継いだ19番目と、武藤佐の19番目を比べれば、そりゃあ一致するかも。だから、本来ならば、2本とも確認せねばなにも言えないはずなのだ。


 俺、グレッグにいいように誘導されていたのか!?

 いくら、俺が未熟で、グレッグや坪内佐ほどの頭脳を持たないにしても……。改めて、打ちのめされたような気がする。


 でも、それでも、だ。

 それでも、これ、正しいのか?

 本当に、武藤佐から美岬が受け継いだ19番目と、武藤佐の19番目を比べたら、本当に一致するのか?

 美岬が通常の哺乳類のプロセスで産まれたのだとしたら、十代続けて同じ形質が発現し続けていることになる。

 その確率は低いってのも事実だよな。

 だからこそ、クローンだということを、俺以外の人も全員信じた。

 頭の中で、必死に高校の生物の教科書や資料集を思い出し、再検討する。

 で、やっぱり、一致はしないという結論に達する。


 だって、「交叉」があるじゃないか。「乗換え」というやつだ。

 減数分裂の時に一か所から二か所で、染色体は父親由来と母親由来で組み換えが起きるってあった。

 クローンでなければ、やっぱり、武藤佐と美岬の母娘といえど、染色体の泳動パターンは一致しないんじゃないか?

 マイクロサテライトだけなら一致する可能性は皆無ではないけれど、塩基配列までは一致しないはずだ。

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