第13話 山谷八百善


 簡単な食事を口にし、睡眠をとり、行水とともに着物を変える。身なりも、町娘から武家の娘のそれとした。

 明るいところで見る美緒の美しさは、文字どおり、冴え渡るようだった。

 それだけではない。美羽の、鉄漿おはぐろ、引眉姿が加藤も虚を突かれた感があるほど美しい。


 加藤の不審に、美羽が笑って種明かしをした。

 なんのことはない、抜いた歯の跡に、黒く染めた象牙を貼った、柘植の入れ歯を嵌めたのだ。だが、その出来の良さから、生来の歯と見た目は区別がつかぬ。同時に、立ち姿から、この母親も相当な武芸稽古をしたことが伺える。

 このような変装術は、将軍家剣術指南役、柳生家に古くから伝わる術であると言う。三代当主柳生宗冬も、総入れ歯であったそうな。公儀隠密には、古くからある方法らしい。



 その夜、井伊家が会合場所として指定してきたのは、山谷堀の八百善だった。

 船から駕籠と乗り継いで、美羽と美緒は八百善に向かう。加藤は駕籠には乗らなかった。いざという時の対応が遅れるからである。


 八百善は、賑わっていた。

 この賑わいの中、急遽座敷を用意させられるのは、井伊家の底力であろう。


 奥の座敷に通される際、加藤は刀を店の者に預けた。自ら武装解除して見せたのだ。とはいえ、いざとなれば、箸の一本ですら武器とするつもりでいる。

 座敷には、すでに膳が並べられていた。そして、初老の身なりの良い武士が一人、待っていた。

 「井伊家用人の、東堂藤兵衛と申す。殿は、別室にて他の方々と会食中にござる。

 殿は、貴殿らと会われたことを内密にしておきたいと、このような形を取られた。半刻ほど後にお見えになられるので、それまでおくつろぎくだされ」

 それのみ言うと、東堂は引き下がって行った。表情を変えることはないが、それでも、挙動がわずかに滑らかではない。


 多分、東堂は美羽、美緒の正体も知らされていないのであろう。

 井伊家ほどの大身の用人ともなれば、接待が仕事のようなものである。それでも、母娘と浪人という、これほどまでに接待相手の正体が不明な組み合わせは破格であろう。

 美羽を筆頭とし、美緒も膳の前には座ったが、箸を手に取る気配はない。

 加藤は遠慮なく箸を持った。


 美緒が言う。

 「加藤様、危険では?」

 「噂に聞く八百善の膳ですからな、と言うのは冗談として、毒の盛られている気遣いはない。

 今ここで我らを害しても、なんの得もござらん。おまけに、天下の八百善が、井伊家の依頼とはいえ、その料理に毒を盛って暖簾を傷つけるなどありえぬ。

 ならば、食べられる時に食べておくのが肝要。

 井伊殿と話した後、次に食べられるのは何時か、想像もつかぬ。包んで持ち帰るなど、明日の身の安全が保障されている者がすること。

 そして何より考えねばならぬのが、ここで食べぬことが井伊殿の目にどう映るか、ということ。たとえ毒が盛られていてさえも、食べてみせることが必要な場面とそれがしは思う」


 美羽が言う。

 「加藤様は、窮鳥が懐に入った証を、窮鳥の側から立てよと、申される……」

 「そのとおり。

 井伊殿に対し、その真意を疑っていることを見せて、なんの得もござらぬ。もはや井伊殿に頼るしかないのであれば、その信を見える形で問うてはならぬ。

 懐の中から疑いの眼差しを向けるは、窮鳥にあらじ。

 そもそも、ここで井伊殿に毒を盛られるならば、それまでのこと。

 水戸様と袂を別ち後に、他の幕閣、大身の助けを得られなければ、南帝の血すら、乱世に紛れてしまわれよう。だが、井伊殿は、我らのふみを黙殺せず会う決断をされた。

 その一点を持って、南帝のみならず、我々まで窮鳥を懐に匿われるお心計つもりがあることが判る。ならば、ここは、そのお心計を察し、窮鳥らしくするべきであろう」

 「美緒、いただきましょう」

 言いながら、美羽が箸を手に取った。

 それを見て、美緒も箸を手に取る。


 「はい。

 考えてみれば、例え毒が入っていたとしても、良い死に方かもしれませぬ。他にも毒の盛りようはあれど、八百善の膳に盛られたのであれば、この上なき仕儀かと」

 加藤は笑いながら釘を刺した。口調が伝法なものとなる。

 「ははは、お美緒ちゃん、諦念で飯を食うのはやめようや。生きて明日につなげるために食らえ。そのために話の順番を変え、窮鳥うんぬんを最後にしたんだ。

 小理屈はいい、食べな。

 喰らうってのは喜びだって解る」

 「はい」

 美緒の返事は素直なものだった。この食事の、政治的意味合いに思い至らなかったことを恥じているのやもしれぬ。


 美緒が、香味野菜と大根おろしで彩られた鰹に箸を伸ばす。

 辛子を溶いた醤油をつけて、ひとくち口に入れ、眼を見張るような表情となった。続けて箸が伸びるのを抑えきれないようだ。

 「このような……」

 「ものは、食ったことなかっただろう。

 病んでもいない若い娘が、美味いもの食って、止まらないのは当たり前だ」

 視界の隅で、美羽が加藤に軽く礼をしたのを無視して、加藤は続ける。


 「焼いたカマスが沈んでいる枝豆のすり流し、これも美味い」

 「はい」

 旺盛な食欲をみせる美緒に、もはや声はかけぬ。

 生の喜びを知り、己の命は玉とも抱くのでなくて、どうして死に場所を見極められよう。命は投げ捨てるものではない。捨て所を見極め、次に繋ぐためにこそ捨てるのだ。

 美緒がそれを悟ってくれることを、加藤は祈った。

 

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八百善のお料理、Twitterで画像だけでもどうぞ。


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