第14話 井伊の赤鬼


 橙色鮮やかな、南瓜餡の白玉の器が下げられた。

 それとほぼ同時に、井伊家用人である東堂を供にして、井伊直弼が部屋に入ってきた。この時の役職は掃部頭かもんのかみである。

 加藤は平伏するが、美羽、美緒は軽く頭を下げるのみだ。

 朝廷と幕府は別組織であり、その筋を通しているのだ。加藤は、美羽、美緒の護衛に過ぎず、役職、位があるわけでもなく、遠慮が必要な立ち位置にいた。


 「ふみは読んだ。だが、余は、外国との交易は時期尚早と考えている。三浦半島にも、彦根の兵を派遣した。

 余と水戸の中納言殿の考えは、攘夷という点では一致しておる。

 その上で問う。なぜ余なのだ?」

 前置きも何もない。いきなりの下問である。


 美羽が答える。

 「問いに対し、問いで答える無礼をお許しくださいませ。

 掃部頭様は、勝てぬいくさを自ら望まれますや?」

 「佐殿は、中納言殿は勝てぬ戦に自らの目をふさぐことしかせず、余は勝てぬ戦さは避けるであろうと言いたいのか?」

 美羽は直弼を役職類で呼び、直弼もまた、美羽を役職名で呼んだ。直弼は水戸斉昭も中納言の役職名で呼んでいる。


 「御意」

 美羽の返事は短い。

 「佐殿の出自は知っておる。その上で問う。

 勝てぬか?」

 「万に一つも勝てませぬ」

 「攘夷もならぬか?」

 「水は高きから低きに流れましょう。戦さに勝てぬ以上、なりますまい」

 「何故だ?」

 「戦さとは、ことわりであるゆえに」

 「なるほど、その言はもっともなれど、だが、その答えは、また、一つの意味を持つ。その理りに於いて、相手を超えれば勝てるということだ。超えるのに、何年かかると見る?」

 「最低、百年かと。

 二世代から三世代を経て、民の隅々まで学問が広がり、今の西洋のことわりを解明し、それを超える必要がありまする。こちらが十年進む間に、向こうも十年進みまする。それを超えるのは容易ではなく、また、小手先で出し抜いても、それは相手からの報復を呼ぶだけの結果となりましょう」

 「それほどの差があるか?」

 直弼が重ねて聞く。


 「この国の船と水夫かこのみで、一艘あたり大砲を五十門積んだ部隊を作り、一万里の航海を果たし得ましょうや? また、そのようなことができる船団は、国に複数なければ意味を持ちませぬ。その船団を作り、維持する国富を得るのに何年かかりましょうや?」

 「一万里もの航海は、間違いなく行われているのか?」

 「アメリカの戦船の航海記録の写しを、幕府天文方、渋川景佑様にご覧いただきました。行程、記録、全て筋が通っているとのこと」

 「彼等はそれを見せたのか?」

 「要点は自ら確認いたしました。

 彼等は日本で薪炭補給をしております。彼等を追い払うための最小限の補給のみ許されておりますれば、薪炭の組合の元締として今までの補給の記録を見たいと言うのは必然。

 こちらが彼等の言葉を解せず文字も読めないと思っていれば、嘘のつきようも浅く、原本を見せながら出鱈目の朗読をするのには、笑いをこらえるが必死でございました」

 直弼が声をあげて笑った。


 ようように場が和む。

 「同じことを聞いた中納言殿は、どのような策を?」

 「大砲の鋳造をする炉をお造りになり、津々浦々にそれ……」

 直弼は、話している美羽の言葉を遮った。後に赤鬼と呼ばれる性急さであった。

 「手ぬるい!

 そのようなことで、どうこうなるものではないではないか。

 戦さの理の大部分は軍資金だというのに、貧乏藩の分際で、国同士の戦さを語るなど片腹痛い。かといって、水戸藩が日本有数の大藩になることなど待っていたら、千年かかっても覚束ぬ。

 佐殿、相解った。

 余が、南帝をお守りいたす一助となろう」

 美羽は、内心はともかく、表情を変えなかった。まだ、第一関門は抜けたが、安心できる段階ではない。


 直弼は、加藤に目を向ける。

 「そこな平伏しているその方、面を上げい。

 お主、かなり使うな。何者だ?」

 流石に、居合で一派を立てただけのことはある。加藤の腕を見抜いたらしい。

 「加藤景悟郎、護衛として雇われた、一介の浪人にすぎませぬ」

 「伊豆の加藤氏の末か?」

 「御意」

 「その名、先祖にあやかったか?」

 「おそらく」

 おそらくと答えたのは、遠慮である。


 ここでいう先祖とは、平安から鎌倉にかけて戦功を挙げた加藤景廉のことである。最強の武士と謳われた、源為朝の首級をあげて名を挙げた。父からは、戦さにも、謀略にも、病からさえ生き延びた男として聞かされている。

 「一介の浪人と名乗るとは、余の目を節穴と思うてか?

 そちの縁戚にあたる、遠山左衛門尉さえもんのじょうもまんざら知らぬ仲ではないぞ」

 遠山左衛門尉、すなわち遠山の金さんである。

 去年、南町奉行職を辞し寄相席となったものの、江戸の庶民の間での知名度は群を抜いている。


 「佐殿、庭に花を四つとも揃えたいか?」

 「賢察、恐れ入ります」

 美羽が答える。

 藤橘に加え、源平の四姓が貴種名族である。

 南帝のために、擬似的ではあっても兵衛府に朝廷に相当する厚みを作りたいという美羽の望みを、直弼は見抜いたのである。

 美羽の父、間宮の家系は、源氏に行き着く。加藤の姓は、藤原氏に由来するのだ。


 「三百両、用意させた。一年は好きに動けよう。ただし、幕府に仇なすことは許さぬ」

 「ありがたき幸せ」

 直弼は続ける。

 「ここから先のことは、他言無用。

 最新の知らせでは、すでに彼らは琉球にいる」

 流石の美羽も息を飲む。

 「佐殿、もし彼らが現わるるとしたら、この監視に加わっていただきたい。異存はないな?」

 なるほど、この事態があっての三百両かと思う。幕閣内での南帝という切札の保持に加え、美羽の能力をこの非常時に独占的に使えることをも込みに考えられるのであれば、三百両は高くない。


 「一つ、確認をさせていただきたい」

 加藤の言に、全員の視線が集まる。

 そもそも、加藤が口を挟むには、その身分、事態からして越権のそしりを受ける可能性が高い。

 だが、加藤はかまわず言を進めた。

 「彼等の監視には、御庭番の方々を始め、水戸藩からの物見も参られよう。そのような只中で、佐殿が彼等の監視に加わった場合、佐殿の身の保証はどうなるのかということでござる」


 直弼の返答は短かった。

 「水戸藩からの物見は行かぬ」

 「なんと……」

 「中納言殿は、彼等の来航とともに隔日登城を命じられ、封じ込められる。

 動き回られると厄介なのでな、老中首座阿部殿と図った。

 もちろんのこと、四つ上がりの八つ下がりなどは許さぬし、物見など、たとえ出してもすべて監視下に置き、思うようにはさせぬ」

 直弼は底意地の悪い表情になった。

 四つ上がりの八つ下がり、これは、時制が違うので一概に言えないが、午前十時出勤、午後二時退勤をいう。当時、江戸城に登城した大名の一般的な勤務時間である。


 「ここの膳は美味かったか?」

 「はい、ありがたくいただきましてございまする」

 美羽の返答に、直弼は頷いて言を続ける。

 「これは、人として美食をするに、必要にして十分すぎるものよ。この上、飢饉でもないのに、牛馬まで食らうは悪鬼の所業。薬としてならばまだ仕方ないにせよ、中納言殿のように変わったものを喰いたいなどという理由があるものか。

 そのような異人どもと同じことをしておきながら、攘夷を唱えるなど矛盾も甚だしい。そのような者が天下を語り、定溜をないがしろにするのも気に喰わぬ。

 府内の水戸藩士の物見などすべて封じることができるが、中納言殿の手の内で、女である上に、武士にも町人にも、公家にすら化ける佐殿こそが、封じること厄介と思っておった。

 もしかしたら、来るやもとは思っていたが、佐殿から実際に書状が来た時は安堵したぞ」

 「そこまでのお言葉をいただけるとは、過分なる……」

 「何を言うか、佐殿。

 敢えて言う。

 余は、佐殿をまったく信用しておらぬ。

 余の頼みを聞くは方便に過ぎず、その忠誠は南帝にあるのは解っている。

 だが、だからこそ、南帝と余の利害が一致している間は、軍資金分の働きは期待できよう。のちの連絡については、東堂と話せ」

 そう言って、直弼は座敷から出て行った。座敷外にも、供の者がいたのだろう。

 東堂はそのまま残って、隠密行動の際の井伊家への報告方法について説明に入った。


 井伊直弼は、最後まで開国、攘夷に対する姿勢を明らかにせず、また、南帝に対する立場の確証も与えなかった。

 だが、それは美羽にとって、決して悪い状況ではなかった。

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