第4話 逐電の算段
ただ、一介の浪人に過ぎぬ自分が、大藩の藩主に異を唱えることは流石に憚られた。また、まだ話も最後まで聞いている訳でもない。
「真気水鋩流、あまり表沙汰にはできぬが、そちの父には、水戸藩として働いてもらったことがある。藩として、藩士に任せられぬ仕事もあったのだ。そなたの父は凄まじき手練れであった。その
加藤は、父が水戸藩のために働いたことがあるとは、今の今まで知らなかった。
だが、その一方で大きく頷けることもあった。
家伝の剣は相伝ゆえに道場を開くことも叶わず、それなのに、その父がある程度の蓄えを持ち、自分もそれを取り崩しながら生きられていることである。
美羽が再び話す。
「水戸様が藩政に復帰されてから、この屋敷を含め、水戸藩は公儀から目を付けられておりまする。攘夷を唱える者に対しては例外ありませぬ。
そこで、督のご下命により、我らで加藤様の日々の
加藤は納得がいかない。
自分自身で言うのも口幅ったいが、剣についてはそれなりの腕を持っていると自負している。その自分が、他者から監視され、後を尾けられ、気がつかないという事があるのであろうか。もしも、そうだとしたら油断にも程があり、由々しき事である。
「どのような手立てで、拙者の事をお調べになられたのかな?」
平静を装って聞くが、聞くこと自体に内心歯噛みしたい思いがある。
「流石に苦労いたしました。遠眼鏡によって二町(およそ218m)の距離からは決して近づかないように致しました。遠弓、鉄砲も届かぬ場所からであれば、お気づきになられる事もないかと思いましたので。
さらに、ここにいる美緒は、闇夜でも昼間のごとく目が利きますので、夜間も確認をする事ができました」
「それでは、今宵の事は?」
美緒が答える。
「はい、増上寺前の広小路にて遠くより加藤様の後を追う者を見、その者が先行したため待ち伏せと判断し、
なるほどと思う。同時に、総毛立つような恐怖も覚えた。
そのような遠距離から付きまとわれると全く対処のしようがない。それなのに、ここにいる美緒は距離に加えて闇夜の中、敵を視認したという。この女が、本気で自分を付け狙う事があったとしたら、為す術なく死と直面するのではないかという深刻な疑問が湧いたのだ。
なにしろ、その言葉が嘘ではないという実例を、自分はつい先ほど見せられている。
思い切りよく逐電しても、気が付かぬまま尾行者を引き連れての行脚になりかねなかった。
「今までのお話から、おそらくは、公儀の手の者に拙者は狙われたということでござろうか?」
「そうなりまする」
美羽が答える。
「公儀では、アメリカからの軍船に対し、オランダからの事前の情報を以って対応を進めておりますが、その力、なかなかに侮ることはできませぬ。したがって、公儀内でも意見が割れ、先ほどお話ししたように攘夷論の尖峰である殿を狙う者も現れております。
水戸様の意思は、南帝の意思、そして、公儀にとっては目の上のなんとやら、なのでございます。なので、南帝をお守りするやもしれない加藤様を襲うは当然のこと」
加藤は頷く。
だが、内心では、深く考え込んでいた。
美羽の説明は、つじつまが合わない。
一見、もっともらしいことを言っているようだが、加藤としては納得がいかない。
一つ目。
いかな手練れでも、水戸屋敷の奥深くにいる斉昭を暗殺できるものだろうかということだ。加藤を夜道で待ち伏せするのとはわけが違う。ましてや、水戸藩ほどの大藩、手練れはいよう。いくらそのような組織の長官だからといっても、やはり表向きは水戸藩主であり、それなりの護衛に囲まれているのだ。
あえて加藤など
人は疲れるものだ。また、背中に目があるわけでもない。
おまけにだ。斉昭に関しては、暗殺するより、再度の隠居を命じる方がはるかに話が早い。南帝の意思といえど、公儀としては、その絶大な権力をもって黙殺すればことは足りる。
二つ目。
加藤を襲ったのは、正統の剣術使いだった。片手間に学んだものではない。
人生のかなりの部分を道場で過ごし、自宅でも毎日の千の単位の素振りを欠かさない、そういう者だった。一つの藩の指南役としておかしくない者だったのだ。加えて、相当の数の人を斬った経験を持っている。公儀にいくら人材が豊富だとしても、今の立場もはっきりしていない加藤に対し、駆り出すには過分な人材ではないかと思う。
自分が複数回の暗殺を防ぎ、どうにも邪魔ということになって出てくるのであれば納得できる相手だが、まだ
加えて、残念ながら真気水鋩流、江戸で知られた流派ではない。そこまで念を入れた手を執る根拠がないのだ。
三つ目。
美羽、美緒の母娘についても納得がいかぬ。
間宮林蔵の血を引き、その関係で隠密の人材を統べているとしても、その権原は水戸藩のなのか、公儀のなのか。水戸藩の中で抱えている隠密として考えても、藩主のお墨付きがあるにせよ、藩外の者に士たる藩士が恒久的に使われることはありえまい。
また、公儀隠密であれば、今度は公儀隠密が二派に分かれていることになってしまう。
斉昭を暗殺する派と、守る派である。
公儀の御庭番は若年寄支配であり、武鑑に名の記された武士である。加藤のような浪人にも名を知られている武士であり、消耗品のように、駒として同士討ちの愚をさせるべき人材ではない。
細かい矛盾は
問題は、それをここで聞いてしまってよいかどうかだ。
藪に蛇がいるとして、藪の中に入り込んでまで蛇を叩く愚は冒せぬ。
となると、とりあえず、考えねばならないことは、無事に藪、すなわちこの屋敷から離れることだ。蛇を叩くにも、父から譲り受けた蓄えを持って逐電してしまうにしても、まずはこの屋敷から無事に逃げねばならない。
それも、徹底して逃げ切る算段が必要になろう。折を観て、美緒というこの娘も斬らねばなるまい。
「解り申した。微力を持って尽くしましょうぞ。
ついては、碌の多寡をお聞かせ願いたいのと、身の振り方についてご指示をいただきたい。お話の通りであれば、水戸藩士でもないこの身が、ここに住み込むわけにもいきますまい。
また、その前に我が
あえて禄を聞いたのは、慾の張った奴と思われたいがためだ。
慾の深い男は、慾が満たされている間は裏切らない。そういう錯覚を与えるのだ。
「うむ、重畳である。
美羽、任す。良きにはからえ」
斉昭の満足そうな声が漏れ、加藤は平伏した。
本当ならば、伏せた顔で舌でも出したい気分である。
二年ほど逐電し、日本の津々浦々で釣竿を出すのも悪くはない。だが、江戸の気楽な生活を奪われるのは腹立たしい。
斉昭が立ち上がる気配がした。
ゆっくりと頭を上げる加藤をおいて、斉昭は部屋から出て行った。
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