第5話 同道の合議
「それでは、美緒が再び加藤様の宅まで同行いたしまする。道々に、美緒が身の振り方を含め、いろいろとお話をさせていただきます。私は、故あって、今はこの屋敷から出られぬ身ゆえ……」
美羽が言う。
改めて見ると、顔色が良くない。何かの病でも抱えているのかもしれぬ。
「かたじけない」
そう答え、加藤は立ち上がった。
なぜ美羽が屋敷から出られないかは判らぬが、人数が増えぬのはありがたい。屋敷から出たら、美緒の背に脇差を突き入れ、そのまま走る。
明日の今頃は、箱根を超えていよう。
屋敷内の来た経路を戻り、屋敷外に出る。すでに猪牙はいない。
提灯を持つ美緒の先導に従って歩く。
屋敷からの死角に入り、提灯が落ちたのがわからないところまで行ったら、一気に行く。
あえて、謡の一節を口ずさみ、上機嫌を装う。通常、浪人ならば、どのような口であれ仕官が叶えばこのように浮れるものであろう。
ひとつ目の角を曲がる。
美緒が振り返らぬまま、声を掛けてきた。
「加藤様、鯉口をお切りになられましたね」
……なぜ見破られた?
「急ぎ、申し上げます。
引き延しと取られたら、私が話す前に刀を振るう方とお見受けいたしておりますゆえ。
先ほど、加藤様を襲ったのは、水戸家の手の者にございます。守っていただきたいのは、母と私でございます」
「先ほどの話より、よほど辻褄があう。だが、そなたを信用できぬ。このまま走り、逐電致す方が後腐れなき仕儀としか思えぬ」
「二言、お許しを」
美緒が振り返る。
覚悟を湛えた眼差しが、超然と
刀の柄に伸びた右手が止まる。
「加藤様、南の帝にお会いいただき、加藤様自ら真意を聞く機会を設けることを私にお許しください。
二つめ、私が水戸様の手の者であれば、先ほどに、敵との距離、方角を明らかにする必要はまったくございませんでした」
「問答無用!」
大気さえ断つ斬撃を、目の前の姿に抜き打つ。
それなりの心得のあるはずだが、美緒は動かなかった。
竹光が、美緒の体の寸前で負荷に耐えきれずに折れた。加藤ほどの腕の者が、竹光との手心を加えず、殺気を伴った真剣同様の打ち込みを行えば当然そうなる。
薄い竹光は、空気の抵抗に刃筋を立て続けることができず、フラッターを起こしへらへらとブレる。そのブレが、さらなる抵抗を生み、根元からへし折れるのだ。加藤の腕を持ってすれば、真剣ですらナマクラなものは、水面に向かって
いわゆる
視線が絡み合う。
死の恐怖を味わったはずの美緒の視線は、先ほどと変わらず、強い眼で加藤を見ている。
「怖くはないのか?」
「怖いと思いまする。思いまするが、覚悟はできております。
加藤様のご助力がなければ、どちらにせよ保てぬ命ゆえ。鯉口を切られた時から、ここまでの命と思い定めておりました」
「む……」
握っている柄を鞘に戻し、手を離す。
十六、七の娘の覚悟に気圧されたとは認めたくないが、それでも、その覚悟を反故にするのことが忍びないのも、また真実だった。
「詳しい話を聞こう。ただし、提灯を消し、このまま歩きながらだ」
「ありがとうございます」
美緒に先導させ、先ほどより一歩の距離を縮めて加藤は後ろにつく。内密の話をしやすくするためと、美緒を脇差の間合いに留めるためだ。
尾行を捲くためにも、提灯は消させるしかない。
江戸の町の夜は、四ツ時(午後10時頃)に町ごとに木戸が閉まる。まだ、それまでには間はあるが、竿と魚籠を預けた船宿まで、最短の距離を歩いても半刻(1時間)は掛かる。加藤の
美緒の話が信用できるものと決まったわけでもなく、急ぐに越したことはなかった。
「事の始めは、七年前にございます。
浦賀に、二隻のアメリカの
その調査を、水戸様は、母に命じました。
その時、水戸様は謹慎中ということもあり、他に表立たずに命を下せる者もおりませんでした。母は、その父が御庭番の間宮林蔵であった事から、同じく御庭番であった村垣範正様のご助力を得て、共に調査に当たりました。
母の見た目が老いているのは、その調査の時に、年齢を偽るために歯を抜いたためにございます。
とにかく、その結果として、アメリカの戦船の経歴が明らかになりました。
加藤様、我々の踏み締めている大地が大きな玉であり、一方向に曲がらず進めば出発した地に戻ってくるということはご存知でしょうか。アメリカの戦船のうちの一隻は、そのようにして、すでに三周も世界を回っておりました。なんと、一周につき一万里ほども距離があるそうにございます。また別の一隻は、驚くべきことに砲を七四門も備えておりました。
母は、その戦船を直接に見、攘夷は不可能と水戸様に御報告申し上げたのです。
しかし、水戸様は、そうはお考えになりませんでした。大量の大砲の鋳造の準備をされ、攘夷は可能であると思われているのでございます。単なる攘夷に止まらず、アメリカの戦船を利用し、北の帝を廃し、南帝を正統なものと打ち立てたいとの仰せ。
そして、利用するだけ利用したら、打ち払えば良いと。
また、帝も、それを望まれてはおりませぬ。水戸様の言上を受け、帝は母に、表だたぬよう水戸様の真意をご下問なさいました。それが水戸様に知られてしまった結果、水戸様は、密かに母を亡き者にするために動き出されました」
加藤は、ここで口を挟んだ。
「いかに大砲を鋳造したとて、まことにアメリカの戦船には敵わないのか?」
「敵いませぬ。
太平の世に慣れ、今更ながらに作る大砲と、戦のために途切れず工夫を続けられた大砲が同じ土俵で戦えるわけがありませぬ。その差は二百年にも及びます。そもそも神君の大阪城攻めの時代から、日本の大砲は南蛮船のものに敵いませなんだ。
浦賀に来た二隻の戦船に対抗するだけで、数の話としただけでも最低でも百五十門の大砲が必要となりますし、相手のものとの能力の差も考えれば、五百門でも足らないかと。そもそも、相手の弾は届いても、こちらの弾は届きませぬ。
しかも、相手は船、上陸する場所を選べるのでございまする。すべての津々浦々に砲を置くなど、どう考えても無理でございますし、相手が四隻、八隻と数が増えたら、それだけでもすべての計画が瓦解いたします」
「言われてみれば、あまりに当然のことだな。その当然のことがなぜ説明できぬ?」
「水戸様にとっては、水戸学の実現こそが大事なのでございましょう。
また、若きうちから、左近衛権中将に任官され、左衛門督を兼任されております。南の兵衛督の地位も重ねてお持ちでした。南の政庁は血筋を護衛する兵衛府しかございませんから、その督の地位は、考えようによっては太政大臣にも匹敵いたします。
したがって、この国のことは、公方様のご意思を超えてまで思い通りにならないことなどないとお考えですし、この国の総力を上げれば、戦船を造り、アメリカにも対抗しうるとお思いなのでしょう。
また、ロシアにしても、アメリカにしても、今のところは無理押しをしてきておりませぬ。それを持って、水戸様は尊王攘夷が可能と仰せられますが、私どもは逆の考えでおります。この先、無理押しして来ないわけがありませぬ。ロシアは文化露寇の際に一度は襲ってきておりますし、力を持つものは、必ずやその力を使うものでございますれば……」
加藤は、内心唸った。
水軍に関する軍学を学んだわけではないが、釣りの際に船頭を雇って船を出す関係で、加藤は港に出入りする船をよく見ている。
最大の軍船である幕府の「天地丸」は、すでに作られてから二百年を超え、戦える船ではないと加藤は見ている。
高速で数の多い弁才船でなら戦えるかと考えても、それも無理としか言いようがない。
そもそも、弁才船で世界を一周できるかと考えれば、無理なのだ。広い海の真ん中で嵐に遭遇したら、弁才船では逃げ場たる港がなければ保つまい。嵐により舵が壊れた弁才船を、加藤は何回も見ている。そのような船に大砲を積んだとて、どれほどのことができるのか。
また、一隻あたり、何門の砲を積めるのか。
弁才船にはまともな甲板がない。そのままでは一門も積めなかろう。
それだけではない。
どれほどの数の武士が、船上で砲の操作ができるのか。
陸戦に持ち込めれば、もう少し有利にはなろうが、相手もそれは解っていよう。
加藤は、ここに至って、美羽、美緒の母娘の焦燥感を完全に理解した。
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