第9話 アメリカに行く理由って……
慧思が聞く。
「一橋派によって、その後の井伊家は減封されましたよね?」
「ああ、だが、開国の流れは、もはや変わらなかった。
そして、井伊直弼以降、督の地位は大名、華族のものではなくなったということだ。督については君たちが成人し、『つはものとねり』の一員と正式になったときに聞かされるだろう」
美岬が、落ち着いた声で石田佐に聞く。両親の話の動揺から、立ち直ったらしい。
「今日、ここにお伺いをした主目的は、アメリカに行くことについてでしたが、もしかしたら、初代の明眼がラナルド・マクドナルドと作った人脈が、現在まで受け継がれているのですか?」
「そういうことだよ。
初代と二代目の明眼は、ラナルド・マクドナルドによって、不十分ながらネイティブな英語を話したんだよ。
当時の国内の英語はすべてオランダ訛りだったから、彼女たちも最初はそうだったことだろう。でも、ラナルド・マクドナルドによって、その癖は矯正されたと見るべきだろうね。
とにかく、その流れのもとで、君たちのところの遠藤、小田の両大尉もアメリカとのパイプを太くし続けている。
……アメリカは恐ろしい国だよ。
だから、付き合い方を間違えないためにも、パイプは太くないとな。
また、アメリカとの関係があるので、我々の組織は潜りきれないという事情が生じている。血筋を守るという目的からは外れてしまっているが、この国を守るという意味においては、有効なバックアップシステムとなっていることは知ってのとおりだ。
アメリカが我々に持っている認識は、日本古来からある諜報組織というものに止まっている。血筋を守るという主目的については、未だに知られていない。
いや、正確に言おう。
多分、知っていて知らないふりをしている。我々のことを
ただ、主目的を知らないふりをしているからこそ、こちらを日本の一諜報機関としてこき使ってくるのだし、こちらも主目的を隠すためにできるだけの対応をしている。また、その事情があるので、日本国政府からも可能な限りの便宜を図られている。
さすがに、人件費はともかく、活動期には毎月二千万近くもののを支出がある。私も、かなりの部分は確保しているとはいえ、全額は賄えないよ」
おそらく、俺たちの今の生活を保証してくれているのも石田佐だ。予算確保にはいろいろなノウハウもあるのだろうけれど、ありがたいこととしか言いようがない。
石田佐は続ける。
「付け加えるならば、アメリカに、諜報の歴史はほとんどない。公式には、だけど。
CIAにしても、その前身のOSSにしても1940年代からの歴史しかない。アメリカの諜報および諜報機関設立において、我々はかなりのノウハウの提供を行っている。
ビドルやマクドナルドの時代は、諜報はフェアではない戦い方ということで日陰に置かれがちだった。しかし、二次大戦後には、国家的危機意識と予算規模において大きく見直された。
そうなると、彼らは合理的で過去からの後腐れがない。
我々が追い抜かれるのは一瞬だったよ。今は、むしろ我々の方がアメリカから様々な手法を導入し、組織の陳腐化を防いでいる。
とりあえず、三人とも、今回はそれらの人脈と可能な範囲で顔合わせをすると同時に、あの国の底力と怖さをよく見てくるんだ。自分たちの判断力を養うためにもね」
「はい」
図らずも、俺たちは、声を揃えて返事をしてしまった。
「質問はあるかね」
石田佐が、確認を取るように言う。
「一つだけ、よろしいでしょうか?」
石田佐が頷く。
俺には、解らないまではいかないが腑に落ちない点があった。
「南の『つはものとねり』は、一般にはまったく知られていない組織です。それでも、水戸斉昭と井伊直弼にとって、督の地位は死活の問題となるような名誉職となり得たんでしょうか?」
「なかなかに現実的な疑問だね。いいことだ。
下世話な表現になるが、世の中が荒れているとき、この国では帝を味方に付けて、相手を朝敵にしてしまうという手段が常に有効だ。錦の御旗には、誰も敵わない。
結局、日本の中では、帝の権威は絶対的な意味を持つのさ。そうなると、隠されているとはいえ、南朝の血統は、日本の既存の政治システムの全てを打ち壊す大義名分になり得るんだよ。
その大義名分を、使う使わないは別として、手中に置いておきたいと思わない権力者がいるかな?
あえて不敬な言い方をすれば、南帝の由来と政治的立位置がこのように維持されるものでなかったら、時の権力者のパワーゲームのバランスによっては、逆に消される危険すらあるぐらい有効な駒なんだ。
二つ目が、その権威に頼られているということが、どれほどその時点で自らの権力維持に有効かということだ。
隠されているとはいえ、その時々の政治中枢にはその存在が知られている。血筋のみの存在で政治的な活動も行っていないが、世が世ならば武士の棟梁たる征夷大将軍の任命権を持つ権威を持ちうる。
そうなると、督の任を解かれるということは、すなわちあてにならない、力がないと見なされたということであり、督を解任されて征夷大将軍になれるはずもない。さらに、これが表の権力に陰りをもたらす。
これが、権力の魅力を知っている武士の考え方だよ」
「解りました」
「ここの倉庫にはね、督たちを納得させた文物があるのだよ」
不意に、いたずらっ子といっても良いような表情と目の輝きで、石田佐が言う。
「南朝の存在を証明し、それに価値を見出せるだけの『もの』ってことですよね?」
慧思が聞く。
「ああ、『玄象』があるんだ」
石田佐はあっさりと答えた。
俺たちは、誰もすぐには反応できなかった。できるはずがない。
「三種の神器は北の帝とともに、でも『玄象』は南に受け継がれたんだ」
石田佐は続ける。
「玄象」は「絃上」ともいい、今昔物語で羅生門の鬼が爪弾き、源博雅が取り返したという琵琶の銘器である。
三種の神器と並ぶほどの宝物とされていたのだ。
横を見ると美岬も慧思も目の焦点が合っていない。
そんな爆弾、いきなりぶつけられても消化しきれない。
「以後、このことについて話すことは禁じる。今すぐ、忘れてしまうこと。いいね?」
それしかできない。
「話を変えよう。
聞いていると思うが、双海君と武藤さんは夏だというのに暑い思いをしてもらうことになる。十分体組織の落屑に気をつけるように。こちらでダミーの体組織を用意するので、カムフラージュして欲しい。
また、菊池君については、私と一緒に御物の目利きの場に立ち会って欲しい。一人、同行を認められている。双海君をと考えていたのだが、菊池君の方が歴史の造詣に深そうなのでお願いしたい」
「わかりました」
ようやく、我に返った慧思が答えた。
「その他には、具体的に何をすればよいでしょうか?
私たちはまだ、母からワシントン、ニューヨーク、ボストンと移動することしか聞いていません」
美岬が聞く。
「ワシントンでは二泊し、旧友に会う。アメリカ政府に絡んでだ。その後、鉄道で移動し、ニューヨークでも二泊する。主目的の御物の回収に関してだが、実際のところは、現物を肉眼で見てから決めたいと思っている。
ボストンには飛行機の国内線で移動するが、たぶん、今回の旅の唯一の息抜きができる場所となるだろう。いわば、君たちに修学旅行をプレゼントするようなものだ。三泊あるから、ゆっくりと街を見て歩き、博物館などにも行くといい。
君たちは、ワシントンで向こうの人たちと顔合わせを行い、ニューヨークでは御物の鑑定への同行、待機。ボストンでの予定は特にない。
ホテルはすべて予約してある。もっとも、私の馴染みの場所だがね。
食事は、ニューヨークまでは何回か確保してあるが、ボストンでは君たち自身でなんとかしなさい。私もボストンへは一緒に行くが、行動は別だ」
内心のガッツポーズを、できるだけ表に出さないようにする。自由行動があるとは、素晴らしい。
一瞬、横顔に美岬の視線を感じたが、敢えて反応しない。
「組織として、なかなか報いてやれないし、疑問にも応えてやれないが、せめて設けた勉強の機会だ。得るつもりならば、街角の風景からでさえ学べるものは多いはずだ。行かなければ、空気の匂い、実際の食べ物の味、生活している人の姿などは見られない。
……いや、歳をとると、話がくどくなるな」
そう言うと、石田佐は立ち上がった。
「少し早いが、飯を食いに行こう。田楽と鯉の美味い店がある。それから電車に乗っても、そんなに遅くならないうちに帰れるはずだ」
「ありがとうございます」
俺たちは答えた。
県が隣り合っているだけで、食文化って随分異なるよね。どっちも食べたことがないよ。
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