第49話 父親帰国


 成田空港。

 午前十時すぎ。

 なんだが全員がそわそわしている。つか、美岬の母親が一番そわそわしているって、そういうこともあるんだね。


 入国のゲートが開いて……。

 なんだ、あの先頭にいる熊は!? 二メートル近い身長に、グローブのような手、そこいら中毛むくじゃら。かろうじて、鼻と眼の周りだけ毛がないように見える。

 高さだけではない。幅も厚みもある。

 絶対、服とか特注だし、飛行機も二座席占領したんじゃないか?


 って、美岬の母親、走り出しちゃったけど、まさか、あれがマジで美岬の父親?

 なんかショックなんですけど。見た目だけで判断するなら、この人に護衛とか絶対要らないわ。

 そもそもさ、そのグローブのような手で碁石を持てるのか? 重機で、碁石を碁盤の目に置くようなもんじゃないのか?


 美岬の母親が、飛びつくように抱きつく。

 バリトンの声が、深く響く。

 「美桜、美岬、ただいま」

 あー、美岬の母親を、名前で呼ぶ人を初めて見たよ。


 そのまま美岬の母親の太腿の後ろに、自分の左の前腕を当てて、ひょいって感じで掬い上げる。美岬の母親が、熊の前腕を椅子代わりに腰掛ける形になる。

 マジかよ? そんな豪快な抱き上げ方って初めて見たわ。相手は三歳児じゃないんだぞ。


 あ、どうしよう、その光景だけでとんでもないってのに、人前だっていうのに、熊の肩に顔を埋めてそのまま泣き出すか、あんたは。

 「どうした、どうした」

 バリトンの声が、あやすように響く。

 再開を喜び合う人達もあちこちにいるので、それなりに目立つ光景ではあっても、違和感はそれほどない。


 今気がついたけど、この人、一番先に入国して来たな。この人も、家族に会いたかったんだろーなあ。

 「仕事でね、失敗しちゃったのー。

 もう辞めて、あなたのいるトルコに行くー」

 くらくらしてきた。

 これがあの、美岬の母親? 「つはものとねり」の実戦部隊の長とされてる人? あれほど、抜け目なく、黒い人と同じ人?

 人って判らない、判らなさすぎる……。


 「真、私、もうダメ、目眩がしそう」

 美岬がつぶやいた。

 えっ、美岬、君も自分の母親のこういう姿、見たことなかったのか?

 「毎回見させられる、私の身にもなってよ」

 あ、そうですか。そっちですか。


 「行っちゃダメですっ! しっかりしなさい! まだ、仕事あるんですっ!」

 美岬が叫んだ。

 あ、だめだ、もっと激しく泣き出しちゃったじゃんかよ。

 今回のことで、情報漏洩元になって、事情はやむを得なさ過ぎたから、それはそれでしかたないし、処分とかも全くないんだけど、本人の心情としては納得できないものはあったんだろうな。

 そか、この人が武藤佐の旦那で、美岬の父親だということに、なんか心のマントル層に至るまで、深〜く納得した。


 そして、もう一つ、分かったかもしれないことがある。

 美岬の母親も、美岬と同じく任務中心に育てられたんだろうな、ということ。そして、任務が自分を追い込むことからの、唯一の避難所がこの熊なんだ。坪内佐じゃ、逃げ道にならない。なれない。


 俺は、美岬にとっての、避難所になれるのだろうか。

 俺に、全てを任せ切った眼差しを向ける美岬を、敵からも任務からも守り抜けるのだろうか。同じ組織にいる分だけ、熊よりずっと難しいよな。



 後ろから、どさどさって音がした。

 振り返ると「空港グッズを買う」とか言っていた慧思が、あまりの光景に土産袋を落として呆然としていた。



 − − − − − −


 「なに、あれ?」

 美岬、怒っている。文字どおりで、強烈な意志があるとか義憤にかられたとかでなく、単純に怒っている。表情とか、ぶんすかぷんぷんって感じ。怖さより可愛さを感じる表情だなー。なんか、見入ってしまう。


 空港ロビーのカフェ。

 美岬の両親は、予想外にあった荷物を自宅向けに送る手続きをしている。もちろん、慧思の空港土産も共犯。一緒に送ってくれるって好意に甘えるにせよ、誰に渡すんだ、そんなにたくさん。

 そして、久しぶりに三人でコーヒー。もっとも、美岬はアイスコーヒーだけどな。

 奥の壁側に美岬、手前側に俺と慧思が並んで座っている。

 空調の吹出口ってのは、天井の壁沿いに並んでいるから、ひそかに美岬の香りが楽しめる。これは誰にも内緒だ。うん、これだけ言うと、我ながらドン引きな変態の所業だ。

 かといって、女子を通路側には座らせられないだろ?

 ちっとくらい、許して欲しい。


 「そういうもんだと思って、許してやりなよ」

 慧思が言う。

 もちろん、俺のことではない。

 「なんですってぇ! 許せるわけないでしょ、なによ、あの態度。

 娘に対するときは、やったらと厳しいくせに、自分のときは……」

 「美岬ちゃんも、甘えたらいいじゃん」

 えっ、慧思、お前……。

 「今回、俺も、じーさまから聞いた親の姿にショックを受けた。親も人間だっていうことに気がついた。

 これからも一緒に暮らす気はないし、許すつもりもない。でも、どうしてこうなったかが解ったら、納得はできたんだよね。納得できたら、なんか、どうでもよくなってさ。

 一年前、自分の親への依存ってのを断ち切れたら、いろいろ自由になった気がしたけど、親側の事情ってのが解ったら、さらにふっきれたような気がしているんだ。

 いいじゃん、美岬ちゃんのかーちゃんも人間だった、それも、強いところもあれば弱いところもある、普通の人間だった。

 あ、訂正、強いところが弱いところより過剰にある、普通の人間だった、かな?

 でもって、それを許すも許さないもないじゃん」

 慧思、お前さんは、お前の祖父と話してからずっと考えていたんだな。そか。それがお前の結論か。それで、なんか、また雰囲気が変わったんだな。


 って、甘えたり遊んだりも、躊躇いなく、し放題にする自由って方向かよ。鼻クソ取ってやるって、俺の鼻の穴に耳かき突っ込んだのもその延長か?

 まぁ、な、いいよ、前よか楽しいからな。遊ぶだけ遊んで、甘えるだけ甘えたら、それを乗り越えた上での渋さってのがまたお前に戻って来るんだろうからな。


 「菊池くん、ずるい」

 美岬がぶすっと言う。

 「なにが?」

 「自分だけ悟ったようなこと言って。私は納得できませんし、しませんからね」

 俺が横から口を出す。

 「大丈夫、近藤さんとの関係には応用できないから、こいつ」


 あ、憮然としたな、慧思。

 「休みの一週間で、なんとでもしてみせるさ。

 お前こそ、最低だな。今回こそ休みを活かして、美岬ちゃんの気持ちに、きちんと応えてあげるような何かを考えるときじゃないか? せめて、海に行くとかさ」

 「なんだと? 自分のことを、棚に上げるんじゃねぇ」

 美岬が、余計な口を挟む。

 「きちんと考えてくれないの?」

 あー、もうっ。

 考えてなくはないだろー? 嬉しそうな顔して、なに問い詰めてるんじゃいっ!?


 逆襲しちゃる。美岬と慧思、両方に、だ。

 そもそも、あれだけ痛い目に遭わされたんだ。一つ二つ仕返ししたって、きっとバチは当たらねー。

 「俺だって、いろいろと考えているさ。

 美岬、やっと無事にカタがついたよね。

 状況に迫られたからではなく、もっと自然に一つになれる時が、この夏に来るのかな」

 我ながら、ちょっと甘い口調で言う。

 ふん、慧思の居場所、なくしてやる。

 ふふん、どうだ美岬、真っ赤になりやがれ。


 ん、なんだ? 美岬、その妙に取り澄ました顔は。


 不意に、後ろからブリザードが吹き寄せてきた。

 「覚悟しときなさいって言ったの、忘れたようね? 両親の目の前で娘を口説くってのは、本当に度胸があるわ。つくづく感心する」

 ぐがっ!

 か、風下から近づくんじゃねーよ!

 横の慧思が、椅子に座ったそのままの姿勢で、5センチくらいは跳ね上がったのが見えた。


 ご母堂、荷物を送る手続き、馬っ鹿に早くお済みでしたね?

 いきなり氷に戻られていて、額の怒筋がめちゃくちゃ怖いんですけれど。

 「ど、どどどどこから聞いてました?」

 唇が震えて、言葉にならねぇ。

 

 「いやいや、質問しているのはこちらです。武藤家の家長として、聞かねばならないことがたくさんありそうですね。

 日本に帰ってきて、空港すら出る前に、こんなのを聞かされるとは思ってもみませんでした。

 『一つになれる』でしたか?

 当然、納得のいく説明をしてくれますよね?」

 首をすくめた遥か頭上から、温和なバリトンの声。

 で、その温和さ、絶対作ってるだろ!?

 慧思、お前、なんでそっぽ向いて、コーヒーカップに逃避しているんだ? いきなり他人になっていないで助けてくれ。

 美岬、君の視線が、虚ろにさまようってのを初めて見たぜ。ああ、打つ手がないってことかな。


 あーあ、銃口なんて、これに比べたら、単なる鉄の穴じゃん。

 「お答えします!

 忘れてない! 忘れていませんっ!」

 それはもう、必死で言う。

 覚悟って単語が頭の中をよぎる。

 覚悟じゃ、済まないんだろうな、きっと。

 神も仏もないような毎日なのに、バチってのだけはあたるんだなぁ。

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