第7話 プロ、奇跡を起こす


 俺が行くより早く、見た目、全くもって冴えないおじさんが、ふわっとそいつの前に立っていた。

 そう、すれ違って三十秒で、すれ違ったことすら忘れてしまうような冴えのなさだ。


 「先ほどから話は聞いていましたが、『仕打ち』ってのは、いつ起きたことなんですか?」

 落ち着いた声で、それを今聞くのかってことを、極めて穏やかに聞く。


 そのタイミングに飲まれたのか、隣のクラスの奴は素で答えた。

 「二年前です」

 案外、単純な奴だな。

 恨みつらみと中二病が入っているだけで、もしかしたら、案外、お人好しな奴なのかもしれない。


 模擬店の中で、一旦は集中した視線が外れていく。穏やかな口調と素直な返答で、別に大したことではないと思ってもらえたようだ。

 「その仕打ちが暴力的なものでない限り、傷害罪も暴行罪も、構成要件が足りませんね。殴られたとか、あったんですか?」

 「なんだよ、おっさん?

 黙っとけや」

 とんがっているだけの奴が、下から睨め回すように言う。

 チープだけど、それなりに様になっている。

 素人さんが相手ならば、恐怖を与えられたかもしれない。


 「こういう者です」

 ちらっと見せたのは警察手帳。美岬の後ろにいた俺にも見えた。

 とんがっているだけの奴、一気に大人しくなって、そわそわし始める。


 「繰り返しますが、殴られたとか、あったんですか?」

 一回り、小さくなった声で聞く。

 「ありません」

 回答の声もつられて小さくなる。

 上手いもんだ。

 他の客の関心がさらに離れ、ざわめきが戻って行く。


 とんがっているだけの奴は、そわそわと逃げる算段を始めているようだ。だが、冴えないおじさんの、やっぱり冴えない連れが、その背後を塞ぐ。

 「では、せっかくの文化祭です。因縁つけるのはやめにして、コーヒーでもご馳走になったらいかがですか?」

 「でも……」

 食い下がったのは、隣のクラスの奴。

 「はい?」

 穏やかな声で聞き返す。


 「精神的に壊すほどの、それほどの精神への暴行の罪ってのはあるんじゃないですか?」  

 「君の叔父さんの年齢がいくつか知りませんが、二年前のことなんですよね?

 ということは、単発的に女子中学生に何か言われて、成年男性が入院するほどの精神への暴行を受けたというのは、そうあり得ることではないんじゃないですか?

 セクハラにせよ、パワハラにせよ、女子中学生側からというのは、状況としてあり得ないでしょう?」

 「この女が、普通と違う魔女だから……」

 それでも、食い下がる。

 もしかして、こいつも、こいつなりに必死なのか?


 「精神的ストレスがいくら重篤なものであっても、その傷害行為との因果関係が『魔女だから』という理由ではお話になりません。刑事告訴するのは自由ですが、所轄は受理しないでしょう。最低でも、その『魔女だから』と言われるほどの行為の詳細と、その結果、現在の症状が生じたという因果関係を明示できる医師の所見なり意見書が必要でしょうが、そういったものはありますか?」

 「ありません……」

 隣のクラスの奴、うつむく。

 とんがっているだけの奴、視線を天井あたりに彷徨わせる。


 「治療過程で、本人は医師に事情を話しているんでしょう?」

 「本人は、医師に何も話してません。ただ、魔女にやられたと」

 「判りました。

 『これだけは言わせてもらいたい』とあなたは言いました。こんな場でも、それを言いたいというのは、おそらく、あなたはその叔父さんに可愛がってもらった経験があって、仇を取りたい一心なのでしょう。

 ですが、冷静になって考えてください。

 まずは、法律以前の問題です。

 あなたが相手を非難する根拠は、社会通念上、賛同を得られるものだと思いますか?

 例えば、『高校生になった今のあなたは、中学生の女子に何か言われたことで入院しますか?』ということです。

 また、第三者から見たら、薄弱極まりない根拠を元に他人を非難しているように見えますが、そうすることで発生するリスクをどう考えていますか?

 それこそ、傷害罪になりかねませんが?」

 噛んで含めるように言う。



 隣のクラスの奴、虚を突かれた表情で、聞き返す。

 「……叔父の方が異常だと?」

 返答の声は落ち着いていた。

 「そんなことは言っていませんよ。

 私があなたに言っているのは、あなたの行いとその根拠は、社会通念上、誰もが納得できる価値観、論理、心情に沿っていますか? ということです。

 『高校生になったあなたは、中学生の女子に何か言われたことで入院しますか?』という喩えは、あなたがあなた自身に問いかけることで、叔父さんが異常かということは関係ありません。

 ただ、自身にその問いかけをすることで、周りの人の理解を得られるか判りますし、周りの理解が得られない行いは、違法かもしれないという可能性に思い至るでしょう。

 魔女だから、という理由も、少なくとも現代では意味を持ちませんよね?

 周りの人の理解を得られない行為ならば、あなたは相応のリスクを背負う可能性がありますよ、と。

 それを言っているのです」

 「済みません……」

 「本官に謝る必要はありません。これは事件でもないし、たまたま遊びに来て、騒ぎを聞きつけて、意見を述べただけです。人格者でも教育者でもありませんし、恨むな、仲直りしろとなどと言うつもりもありません。ただ、エスカレートすれば、生じるであろうリスクを指摘しただけです。

 最初は、いじめの現場に出くわしてしまったかと思いましたが、違うようですね。お互い、冷静になれば、このような問題はもう起きないと考えていいですね?」

 「はい」

 「はい」

 なんとなく可笑しいけど、内堀さんまでが答える。怒らせようと思って怒らせたらしいので、なんとなく反省しているのだろう。


 「済みません、お忙しくなかったら、是非、バウムクーヘンとコーヒーを召し上がって行ってください。お店からお礼をさせてください」

 これは当店のメートル・ドテル、近藤さんだ。

 さすがにそつがない。

 「いや、そんなつもりで言ったわけではないですし、そういうことは困ります」

 「いえ、たまたま遊びに来て、騒ぎを聞きつけて、意見を述べただけの方なのですから、業務ではないのでしょう?

 ですから、こちらも気持ちだけのことですし、是非」

 近藤さん、大人だなぁ。こういう上手い切り返しは言えないぜ、俺。

 冴えないおじさんの顔に一瞬、「してやられた感」が横切ったのが、俺としてはますます可笑しい。


 「参ったな、完全に一本取られた。ではご馳走になりますが、どうだ、一緒に?」

 声をかけたのは、なぜか、とんがっているだけの奴に、だ。

 「えっ、俺っすか……?」

 「いいじゃないか。こちらも、是非だ。

 セットを四つで、こちらの二人の分の勘定は本官が持ちます」


 ああ、奇跡が起きたわ。

 起きるときはあっけなく起きるんだよな、奇跡ってのはよ。

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