第36話 事態発生


 サトシのおごりでもう一杯。といっても二杯目は半額以下だけど。

 既に表面上、サトシは落ち着いて見える。

 「ああ、今日は帰りたくないなぁ」

 「取りようによっては、男同士では恐ろしい台詞だな」

 俺が混ぜ返す。

 「馬鹿野郎」

 サトシは軽く言うと、深いため息をついた。


 「言って欲しかったんだろ? 本当はさ……」

 そーっと言葉を口から出す。

 サトシの弱々しい目。

 「他の奴と違って、俺はお前の環境を見抜ける可能性のある唯一の人間だ。

 自分から誰かに、親のことを打ち明けるのはお前さんにはできなかった。

 だから、俺にだけは他の奴と違う対応をしていたんだろう?」

 サトシは何も言わない。目は、伏せたままだ。

 本人がそれを自覚していたのか、いなかったのか。

 ただ、何も言わないことが、明確な肯定を表している気がした。


 俺は、サトシに思い切り頭を下げた。

 「すまなかった。このとおりだ。

 言い訳させてもらうならば、反抗期前に親を亡くした俺は、親に可愛がってもらった記憶しかない。お前さんの環境は、俺の想像を絶していた。どうしても、そこまで考えが及ばなかった」

 「よせよ……」

 「疑えと言われて、初めて気がついた。本当にすまない」

 「それ以上は本当にやめてくれ。さらに、自分が情けなくなる」

 二人で、無言でコーヒーを啜る。

 周囲のざわめきの中、ただ、時間が流れた。


 「妹のために、帰らなきゃな」

 そうか。

 こいつの戦場は、自分の家の中なんだ。そこで親から、自分と妹を守り続けている。


 もう一つ、こいつはケチなんじゃない。

 バイトで稼いだ金も、親に巻き上げられているに違いない。それどころか、妹の給食費用とかの分は、巻き上げられないように必死で守っているのだ。


 妹か。

 姉が俺を守ろうっていう気持ちが、また一つ理解できた気がした。

 「ごめん、気休めにしかならないことは言えないな」

 サトシは、俺の言葉を、笑って流した。


 「悪いけど、近藤さんとの仲をもう一度だけ取り持ってくれないか? それで近藤さんと話した時に、俺自身がどう対応するかで、お前と組むかを決めたいと思う。

 屈折したまま答えたくはない」

 「もう大丈夫だ」

 「なにが?」

 俺の言葉が解せないらしい。

 「お前、本当に自分で気がついていないのか? 近藤さんと会う話をしているのに、いつものように気持ち悪く身をくねらしていない」

 サトシは一瞬、はっとした顔をした。俺は、サトシに向かって笑ってみせた。



 俺を呼ぶ声がした。

 美岬さんの声だ。

 「やっぱりここにいたんだ。近藤さんと来たんだよ」

 美岬さんが近藤さんの手を引っ張って、店内に入ってくる。周囲の視線が集中する。

 そりゃあそうだ。グラビア系アイドルだって、美岬さんの足元にも及ばない。

 もっとも、そういう人種を直に見たことはないけれど。

 近藤さんだって、美人という言い方では美岬さんに及ばないけれど、可愛さや、ほんわかした人を引きつける魅力では確実に美岬さん以上のものがある。


 学校の友人の手を引いてくるという積極性を、美岬さんが見せていることに少し驚いた。でも、美岬さんは本来こういう人間だったなと思いもした。

 俺自身の人生を変えたこともあるし、そもそも母親がだしな。


 二人はそのまま、コーヒーを買う列に並んでいる。

 サトシは目に見えて挙動不審に……、ならなかった。落ち着いた、暖かい視線を近藤さんに向けている。どうしたんだ、こいつは。

 コーヒーを持って二人が席に着く。

 「来てくれたんだ」

 サトシが声をかけた。


 あ、普段のこいつだ。

 美岬さんも同じことを感じたらしく、軽く笑んだ。

 「いろいろとごめん、もう、あがらないから大丈夫」

 サトシが言う。

 雰囲気の変化を察したのだろう。近藤さんも、ちょっと困ったような顔から表情が柔らかくなった。


 俺も言う。

 「本当にごめん。こいつ、初めて意識しちゃった相手なんで、どうして良いか判らなかったみたいなんだ」

 近藤さんは、ちょっと探るような眼差しを俺たちに向けた。まぁ、無理もないな。俺だって、もう少しサトシがぐたぐだすると思っていたし。

 これが、君子豹変ってやつかぁ?

 ……サトシが君子ぃ? はぁ。

 自己完結してため息出ちゃったよ。



 サトシは、いつもの飄々とした雰囲気のまま話す。

 「近藤さん、武藤さん、双海があがる理由を取り除いてくれたから。

 近藤さんには、いろいろ謝らなくちゃならないけれど、まずは混乱を取り除かさせてください。

 近藤さん、俺は、あなたという人が好きになりました。

 ですが、それは私の一方的な思いです。今後、自分という人間を見て頂いて、いずれ機会があればお気持ちを聞かせて頂ければ嬉しいです。それが、ネガティブなものであっても、返答をいただけたこと、それ自体が嬉しいと思います」

 俺と美岬さんの方が緊張していたかもしれない。サトシはいつものサトシのまま、告白を言い切った。


 近藤さんは……、耳まで真っ赤だった。

 「ずるいです。それはないです」

 小さな声で言う。

 「ずるいって?」

 おうむ返しに美岬さんが聞いた。

 こ、こいつ、実は積極的な性格なだけでなく、やっぱり本当にSかあ? 近藤さんの心の動きを正確に見切っていて、それを聞くかよ。


 近藤さんの声は、ますます小さくなった。

 「あんな、くねくねしているだけのキモイ人と同じ人とは思えないです。なんかの作戦なんですか? ずるいです」

 さすがにサトシが憮然とした顔になった。俺は笑いをこらえるのに必死だった。


 それでも、その場を救ったのは美岬さんだった。

 「ずるくてもいいじゃない。今返事しろって言っているわけじゃないし、なんかの作戦だと思うなら、お返しに今度は近藤さんが、無期限に返事を引き延ばしてやればいいのよ」

 サトシは、ますます憮然とした表情になった。

 ああ、美岬さんはこんな顔もできるんだなぁ。無邪気なのに、ちょっと意地悪そうという表情で笑った。


 近藤さんは、美岬さんの言葉が効いたのか、自分を立て直したようだ。

 「無期限に伸ばすよりは、さっさとお断りをした方が良いとは思いますけど。

一度はお断りしていますし。

 でも、武藤さんと双海くんに免じて、少しだけ保留しましょうか」

 近藤さんらしくない、意地悪な回答。美岬さんのSが移ったに違いない。


 俺は、サトシに向かって拳を握ってみせた。サトシも拳をつくり、俺の拳に軽く合わせる。

 これでひとまずは十分だ、と……。


 サトシが聞く。

 「武藤さん、近藤さんを連れてきてくれてありがとう。でも、なんでこのタイミングだったの?」

 「えーっ、なんでって、双海くんが菊池くんに話すんでしょ? うまく行かないわけないじゃない」

 今度は俺が赤くなる番だった。

 嬉しかった。美岬さんの信頼を裏切らないようにしたい。

 切実にそう思った。



 事態ってのは、秒単位で変わるもの。

 鬼遠藤の言葉を噛み締めねばならない事態が、このタイミングで来るのか。

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