第37話 誘い込み
コーヒーやクリームの匂いに、不意に混じった異物臭。
鉄と油のにおい。かすかな酸っぱさが混じっている。夏休みを通して嗅ぎ続けた覚えがある臭い。
この店の調理器具の鉄と油のにおいならば、すでに知り尽くしている。それとは明らかに違う。
これは、そう、銃器のにおいだ。
俺の体は、即座に反応し緊張した。そして、外見上は何もしなかった。
全身の感覚を研ぎすまし、情報収集をし、でも、それを表情には現さない。鬼遠藤の特訓が、具体的な戦闘訓練に入る前のものであっても、俺自身を制御させた。
極限までの訓練を繰り返す意味を、俺は初めて理解した。
美岬さんは近藤さんと話しながら、ちらっと俺を見て、体温の上昇を見て取ったらしい。
一瞬、そう本当に一瞬だけ眼を青く底光りさせると、そのまま近藤さんと話し続けている。
敵襲。
仲間内での、サインの出し方は教わっていた。
美岬さんから、学校に忘れ物をした、取りに戻らなきゃなどと、いきなりの話題転換。
美岬さんの狙いは解った。
ここから出る話をして、俺が探知した敵を牽制しているのだ。こちらが、ここをすぐ出るとなれば、人混みの外で襲うことができる。したがって、俺たちからすれば、巻き込まれる人数を減らすことが可能で、かつ、人混みから出るまでの時間を稼ぐことができる。
あわよくば学校まで相手を誘導し、うまく引き込めれば地の利を得ることもできる。まあ、相手がそこまで間抜けとも思えないけれど。
なにより今は、連中に対してこの場で武器使用させないことが一番重要。
それが一番怖い。
武器が怖いのは、使用より威嚇だ。
この場で乱射することは想定しないけれど、ここでポケット越しに銃口を突きつけられることは想定しなければならない。
で、繰り返すけど、それが一番怖いんだ。
無条件にそのまま相手の制御下に入らされて、指の一本も自由に動かせなくなる。小細工はおろか助けも呼べなくなる。そもそも、こちらもおおっぴらに「助けてっ!!」などと叫べない立場だしね。
それに、硝煙の臭いをさせているということは、どこかで訓練で撃っているということだ。使用に
「さっきの話の結論は、明日聞くよ。美岬さんが忘れ物しちゃったみたいだから、俺も一緒に一旦学校に戻る」
わざとらしくない程度に、心持ち声を大きくして言う。
サトシと近藤さんをおいて、そのまま店を出る。サトシが何も言わずに俺たちを見送ったのは、近藤さんと帰りたかった一心なのか、俺たちの何かに気がついたのか、そこまでは判らなかった。
駅ビルを出た。
自転車には乗らず、押しながら学校へ向かって歩き出す。時間稼ぎの一環だ。
武器の次に怖いのは、車を横付けされて連れ込まれること。したがって、目撃者となる人数が一人でも多い道を選び、車の進行方向に沿った側の歩道は歩かない。
また、美岬さんと俺が並び、両サイドを自転車という配置。歩道一杯に広がって、他の人の迷惑になるけど仕方ない。自転車を防御壁にして、道側だけでなく、建物側から襲われることも考慮。
鉄と油のにおいは強くもならず、弱くもならなかった。そして、そのにおいを発している人間のにおいも嗅ぎ分けられた。二人いる。鬼の遠藤のにおいではない。鬼は煙草を吸わない。そして、もう片方は煙草じゃない、葉巻だ。紙の焦げる臭いがしない。
「方向は六時、銃を持っている男が、二人。その他のバックアップの有無は不明。アドレナリン臭はまだ薄い。冷や汗、皮膚の緊張あり。強襲の機会を窺っている。昼飯はステーキ、にんにく食っているな」
「えーっ、うっそー!!」
返答は、かなり大きめの声だった。
普段出さないような声と口調で、でも、年相応の女子高生らしい無邪気な仕草で、美岬さんは俺を軽く叩いた。外目からはじゃれ合っているように見えるだろう。でも、叩く時に俺に向かって身体をまわし、後ろを一瞬うかがったのを俺は見逃さなかった。
美岬さんは軽く背伸びをして、俺にささやく。
「『とねり』じゃない。黄色人種。プロ。
緊急即応の要請から十一分経過。熱パターンが監視じゃない。拉致か、処分。人混みが切れたら、いや、切れなくても隙を見せたら来るよ」
初めて俺に見せる、彼氏の前の女の子の表情。少し媚びるようなその表情と裏腹に、最後の「来る」の口調は確信に満ちていた。
俺も、顔はへらへらと笑いながら、対応を必死で考える。
鬼遠藤が、身体訓練の時に、体を動かしながら知識を叫ぶと云う方法でいろいろを教えてくれたのはこのためだったのかと思う。
顔は笑っていても、頭はフル回転が可能だ。夏休み前だったら、良くて顔が引き攣っていただろうし、悪くて腰が抜けていただろう。
あの訓練の意味が、心底納得できた。マルチタスクってのが、俺の中で、できあがっているのを発見したよ。
美岬さんの確信は、俺たちに対する作戦目的によって、そう、単なる尾行と拉致などの直接行動では心理的なプレッシャーが異なるからだろう。それが、体表に現れる熱パターンの違いとして美岬さんには見えるのだ。俺には、その違いが大きいものか小さいものかすら分からない。
凄い。
これが、美岬さんの能力の非常時での解放なのか。
美岬さんは、スマホに組み込まれた非常時の応援要請システムを持っていた。俺は、まだ渡されていない。スマホだから、当然GPSも内蔵している。的確に応援が来てくれるはずだ。
でも、なんでこんな色気のない会話なんだろ、俺たち。まだ、美岬さんとただの一度も甘い言葉を交わし合っていない。外見は甘い関係に見えるだろうにさ、などとあえて軽く考える。
さもないと、足が震え出しそうだからだ。
自分から薄く、アドレナリンのにおいが漂っている。
銃が怖い。
狩られる獣の気持ちがよく解る。
悔しいことに、美岬さんからはまだ、ほとんどにおってこない。美岬さんの方が怯えていないのだ。情けないけど、どうしようもない。
とにかく、嗅覚と視覚から、人混み内での行動はないのは確実と判断できる。そして、「つはものとねり」のチーム力は、身をもって解っている。二十五分はかかるけど、三十分はかからない。自分に言い聞かせる。
「その間だけでいい、凌げ」と。
学校に近い、橋を渡りきった辺りが危険だ。人混みや自動車の流れが切れるからだ。
堤防下は見通しも悪く、でも隠れる場所もない。また、そこから十分も歩いて学校に入ってしまえば、部活の生徒もまだまだいるし、こちらに地の利を与えすぎることになる。橋の手前まで、あと二分程。トータルの時間としてあと十五分間程を、二人だけで耐え抜く必要がある。
なにか手を考えないと、マジで終わってしまう。
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