第10話 夏の帰り道


 サトシが日経トレンディを抱えて「俺も出てくのかな?」とか言うので、その頭を軽く張り飛ばしておいて、武藤さんの方に近寄る。

 女子の何人かは既に彼女に走り寄り、武藤さんの肩を抱えていた。


 「大丈夫か?」

 声をかける。相当追い詰められていたはずなのに、なぜかアドレナリンのにおいはしない。

 うつむいた武藤さんが、小さく頷いたのが判る。

 「双海くん、いいタイミングだったね。私、椅子を投げつけちゃうところだったよ」

 などと、女子の一人、内堀さやかさんがかなり物騒なことを言う。

 「やめれ、それ。中国の学校じゃないんだからさ」

 などと笑ってみせて、その場と自分自身の緊張感をほぐすように務める。YouTubeに、そんな凄まじい中国のいじめ動画がアップされていたのだ。


 そのまま少し腰を落として、武藤さんの顔を覗き込んで……。


 !?

 俺は、一瞬混乱して少し後じさった。眼が蒼く光っているように見えるのは、気のせいだったのだろうか。そして、その眼の表情に見えるのは、ひたすらにひたむきな、あまりのひたむきさに鉄の冷たささえ感じさせる意志。

 「武藤さん……」

 彼女と眼が合う。

 すでに、いつもの表情だ。涙の跡がある訳でもない。

 「大丈夫。いつものことだから」

 案外、冷静に聞こえる声で言う。

 「『いつものこと』で、済むことじゃないだろ? なんでそんなこと言われなきゃならないんだ!?」

 俺の口調が、強すぎたかもしれない。武藤さんの顔が、軽くこわばるのを感じた。


 その場を救ったのは、サトシだった。

 最初の場所から動かず、日経トレンディを丸めて、自分の肩を叩いている。そんな、なんか爺いっぽい状態のまま、声をかけて来た。

 「なぁ、隣のクラスの俺が言っちゃおせっかいが過ぎるけど、ありゃないよな。今日は武藤さん、独りで帰らない方がいいよ。このクラスで帰宅方向が同じ奴いないの?」

 女子達も頷く。

 「そうだね、一人で帰ったら危ないよ」

 などと口々に言うが、同方向なのは誰もいないようだ。それに……、いたとしても武藤さんと同じ中学の出身者は、未だ、彼女との距離をこわごわと測っている感じがある。まぁ、無理もない。


 「双海、送ってやれよ」

 バカサトシ、そうくるか、お前はよ。

 「そうだな、俺はかまわない。

 けど、お前も来い。元と言えばお前のクラスの奴が起こした騒ぎだ。なんかあった時に、説明とか、仲介とかしろよ。それに、武藤さんと二人きりで帰るってのは、その、なんだ……」

 「あれ、双海くん、赤くなってない?」

 女子ども、なに黄色い声出してやがる!?

 「きゃー!! 可愛い!」

 きゃー、じゃねぇ。そんな場合でもねぇ。ふざくんな。

 だいたい、男子に対して可愛いとは何事だ?

 武藤さん、薄く笑みを浮かべて言った。

 「ありがとう」


 すまん、状況とかいろいろ頭からすっ飛んで、その言葉が俺には嬉しかった。心ん中、半分以上迷惑だと思われていたとしても。

 サトシは余裕ぶっこいた態度でいたけど、腹の中ではいろいろ考えている、そんな顔だった。すまねー、いつもなら俺も考えるって役目は放棄しないんだが、この一瞬だけでいい、喜ばさせてくれ。



 ― ― ―


 「しかし、ひどい言い方だったなぁ」

 三人で、自転車を押して歩きながら話している。俺は、どのタイミングで彼女に過去のことを聞こうかと悩んでいた。サトシの仕入れてきた情報の事件、彼女の視点ではどのようなものだったのだろうか。

 もっとも、今日、聞けなくても構いはしないけれども。というか、そもそも、今日この場で聞いて、それがどういうことかの結論が出せる程、簡単な問題でもないだろうし。


 いつもと全然違う方向に向かうのは新鮮だった。俺とサトシが帰る方向と違って、学校周りの住宅街を抜けると田んぼばっかだ。コーヒーは、コンビニでしか買えないな。まぁ、これだけ暑いと麦茶の方が嬉しいけれど。


 先にプライベートに切り込んできたのは、彼女の方だった。

 「双海くん、双海くんの嗅覚って、小さい時から鋭かったの?」

 「ああ、産まれた時からだよー」

 「大変じゃなかった?」

 「聞くも涙、語るも涙だな」

 こらサトシ、なぜお前が答えるんだ?

 サトシは続けた。

 「小学校に上がる前のガキの集まりで、駄菓子が食えないってのは、やっぱり他のガキから見りゃ異質だよな。その上、『たっくんがお漏らししましたー』なんてのを、年小ちゅーりっぷ組で一番最初に気がつくんだもん。そりゃ嫌われらぁな」

 武藤さんは、くすくす笑っている。サトシの口調が軽いからだろう。


 俺は、「お前との付き合いは中学からだ。何を見てきたかのように保育園時代の話をしてやがる」と、突っ込もうとして気がついた。

 彼女が笑っているのは、何かをごまかすためだというのが判る。「暑い」の汗じゃない。冷や汗に近い。アドレナリンのにおいもする。


 なぜ、ここまで緊張しているんだ、この人は?


 俺の不審な思いが顔に出たのだろうか。

 俺と目が合った瞬間、武藤さんは一瞬怯えに近い表情を見せた。すぐに持っていたハンカチで汗を拭くようにして、表情をごまかす。でも、俺は武藤さんの怯えを見逃さなかった。多分、サトシも。もっとも、サトシはなにがなんだか分らないとは思うけれど。

 相当に表情を隠すのが上手い。でも、さっきの教室で一瞬見せた表情、あれも見違いではなかった可能性が高い。


 「小学生になったあとは、どうだったの?」

 重ねて聞いてきた。口調に怯えの表情はない。

 今度は俺が答える。

 「悲惨さぁ。給食は残らず食え、が、まず第一歩。あの頃は、嫌な臭いと認識しても、それが何のにおいかまでは判らないから、先生に伝えられないんだ。

 となると好き嫌いで処理されるから、食うまで許してもらえない。つか、善意で、悪臭のするものを口に入れさせられるってのはキビシいぜぇー」

 サトシが混ぜ返してくる。

 「おっかしいなぁ、俺は給食、旨かったけれどなぁ」

 「おめーな、業務用食器洗剤のニオイって、昔は今よりキツかったんだぞ」

 「解ってる、解ってるって。何回も聞いた」

 サトシは笑いながら言う。俺も笑う。彼女も笑っている。が、アドレナリンのにおいはますます濃い。


 「二人はクラスとか、ずっと一緒だったんですか?」

 「んー、中学一年生の時は一緒だったけれど、そのあとは卒業まで同じクラスにならなかったよな?」

 サトシが答える。

 「ああ。男同士なんて、気が合えばこんなもんよ。俺は、一年や二年、全く会わなくても、双海とはこのままの関係でいられるかな。俺の主観でだけど、多分、こいつも変わらないぜ。この先も、一生こんな感じだろうな。

 だって、こいつ、この先行っても、多分人格変わらないだろうし、ずっとバカだろうし」

 「人をバカバカ言うバカは、己のバカを知らぬバカって言うんだ」

 「なにを、小学校の先生みたいなこと言っちゃってるん? 俺は、バカですが、それがなにか?」

 俺も付け足す。あれ、武藤さん、涙のにおいもしてないか? うーん、でも、女子って表情作るのも隠すのも巧いなぁ。特に、ハンカチ、こいつは手品の小道具になるだけのことはある。

 こう暑くなきゃ、ハンカチの必然も減るんだろうけど。


 「武藤さんはどうなん?」

 サトシが聞く。「何だ、その抽象的な質問?」と突っ込みを入れかけて、寸前で踏みとどまった。サトシ流の罠だ、これ。


 「好き嫌いは、あまりなかったなー」

 巧い……。そこに落としたか。バカ論に便乗するのは、今の彼女と俺たちの関係では無理だろう。となれば、同性の友人論が至近の話題になる。中学生の頃が次に近い話題、食べ物の話は、さらにその前だ。

 食べ物の話以外の話題は全て、武藤さんの過去の友人関係に話題が進む可能性がある。まぁ、あまり良い思い出もないのかもしれないけれど。


 「あまりってことは、なんかあったんだ」

 サトシが、話を合わせる。こいつ、こんなに上手かったっけ?

 「うずらの卵が。もう、本当にダメだった」

 「えっ、宝物じゃん、うずらの茹で卵。釜飯に入っている奴なんか、最後まで残しておいて、大切に食べたりしたけどなぁ」

 このあたりの名物駅弁の釜飯の真ん中には、うずらの茹で卵が乗っているのだ。

 「そうなのよ、それで一度でいいから沢山食べたくて、母にたくさん茹でてもらった。あれはね、一つ二つだからいいのよ。百を超える数があるとね……」

 サトシが酸っぱい顔になった。

 「そりゃ、想像するだに恐ろしい。俺、おんなじことをやった」

 俺も口を挟む。

 「現認しています。こいつが右手にかまぼこを丸ごと、板をこう、鷲掴みに持って齧りついたのを」

 「その食材の単語名すら聞きたくない、言いたくない」

 「食べきれないのに、こいつの意地が許さなかったんだ」

 武藤さんは、普通に笑っている。アドレナリンのにおいが遠くなっている。


 「武藤さんは食べ切れたん?」

 「さすがに、二十個も食べれば堪忍してくれたけれど、無限の数に感じられた。しかもね、元が百二十個あったから、まだ大台の数がそのまま残っているのよ。あれは『恐怖』だった」

 サトシは、笑い転げている。

 「しかも、よ。

 翌日も、そのまま台所にあるのよ。食べなきゃ無くならないし、もう一回に二十個も食べられないし、ずーっと、うずらの卵攻めよ。傷む前に食べ切らなきゃと思うし、日が経つごとに、感覚的にどんどん追い込まれて行く感じになるの」

 「解る、解る。すっげー、よく解る。きちいなー、それ」

 サトシが、自転車のハンドルを叩いて笑っている。

 「あれ、そういやあのあと、お前の齧りかけのかまぼこはどうなったんだ?」

 俺の問いに、サトシは笑いながら答えた。

 「捨てた。さすがにさ、歯型だらけ、ついでによだれだらけだもん。そこがうずらの卵と違うな。武藤さんのお母さん、賢いわ」

 武藤さんも笑っている。


 田んぼの中の農道から、再び住宅街に入る。

 「私んち、ここだから」

 南側を田に接し、他の家よりも倍は区画が大きいのが一目で分かる。ここの宅地開発するときに、一番良い立地だったんじゃないだろうか。それとも、宅地開発以前からの旧家だったのか。

 「おっ、豪邸」

 サトシも口走る。

 「本当にありがとう。ちょっとだけ待っていて」

 そう言うと、彼女は家に入ったけど、すぐに冷えたペットボトルを二本持って出て来た。

 「はい、気持ちばかりということで。ありがとうね」

 「さんきゅー、です」

 俺とサトシは口々にお礼を言うと、一本ずつペットボトルを受け取った。玄関の外で手を振る武藤さんに手を振り返して、自転車に跨る。

 俺たち、とりあえずは学校方面。

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