第2話 文化祭実行委員


 暦の上では夏が来た。とはいえ、梅雨はまだまだ明けていない。


 健康な男子として、視覚的には喜ばしい季節になる。でも、嗅覚的には厳しい季節だ。俺にとっては、天国と地獄が同居しているようなもの。

 夕日に染まった校舎で、放課後の甘酸っぱい記憶って、誰だって欲しいよね。それなのに、この季節の放課後ってのは、汗臭さが甘酸っぱさを通り越して獣臭に近くなる。もう、「甘酸っぱい(物理)」ってやつだ。鼻を殴られているに等しい。

 眺めは青春そのものなのに、体は拒絶する。

 おまけに、この時期の夕食に焼き肉とか喰った奴の翌日のニオイってのは、まぁ、喰いたい気持ちは解らなくはないにせよ、俺には辛いものがある。

 俺は、夏が本当に好きだが、本当に嫌いだ。



 あいかわらず、武藤美岬は一人だった。

 朝のホームルーム開始時間のギリギリにやってきて、授業が終わると同時に振り返りもせず帰って行く。

 でも、なんていうのかな、立ち姿が凛々しいんだ。無視されていることに対して、卑屈にならず、自己を律している感じ。そして、体の動きのキレの良さが感じさせるのか、異常なまでの切迫感。

 彼女は、体育の授業なんて範囲に収まらない、ハードなトレーニングを毎日欠かしていない。汗のにおいは消せても、新陳代謝のスピードを俺が、見誤る、おっと違うな、嗅ぎ誤ることはあり得ない。

 俺にはその自律の強い、強すぎる姿が、結局は自分勝手なサイコパスには見えないんだ。


 それにね。六月のある放課後のこと。

 武藤さんが、泣き出しそうな梅雨空の下、駐輪場で手を油で真っ黒にしながら自分の自転車の修理をしていた。

 俺は、どうして良いかわからなくて見ているしかなかったし、同じように迷っていた奴もいただろう。でも、現実としては、誰も手を貸さなかった。

 でも、真っ直ぐな目で修理を済ませて帰って行く姿からは、自立と自尊心が感じられた。

 最悪の故障で、その自転車を担いで帰らねばならなくなった場合でさえ、誰かに助けは求めないだろう。


 今のクラスの雰囲気って、初対面から三ヶ月経って、同級生同士の気心も知れてきて女子争奪戦が始まっている。だから、男子は女子を下にも置かないし、自転車の故障なんていったら、「直すぜ」って立候補する男子には困らない。

 いくらクラスの中で無視されていたって、武藤さんは綺麗だし、「誰かお願い♡」なんて言ったら、ほいほい直してやる奴はいくらでもいたんじゃないかな。


 でも、そういうんじゃないんだ。

 「俺が直してやる」って男子がいたとしても、多分、自力でできることは自分でやる、そういう人に見える。

 こう言っちゃなんだけど、可愛くない女だとは思うよ。

 重くならない程度であれば、頼ってくれる女子のほうが、絶対可愛いよね。


 でもね、彼女の、香りと容姿を超えた何かに惹かれ出したのは、それからなんだ。なんとなく目がいってしまうではなく、見ていたいと思う自分に気がつくようになった。


 ヤバいと思う。見ているのに気がつかれて、「キモイー!」とか言われるぐらいなら、まだましだ。

 やっぱり武藤さんがサイコパスで、なんかの折に犯罪者にでもされちまったんじゃ、あの世の親に会わせる顔がない。


 俺は、交通事故で両親を失っている。

 姉と二人暮らしだ。姉は、男に二股かけてるOLビッチだけど、弟まで変態扱いになっちまったら、たとえそれが冤罪でもがっかりだ。

 俺は、人畜無害ってのを自任しているんだからな。

 「姉よ、シャワーや香水や、果ては焼き鳥屋のにおいで誤摩化しても、弟の嗅覚はすべてお見通しなのだ」と、いつか言ってやらねばと思っている。



 − − − − −


 梅雨の晴れ間。

 昼間に気温が上がっても、久しぶりに蒸さない日になりそうだ。


 「七月初日のホームルームです。今日は紺碧祭の実行委員を決めます。夏休み前からポスター募集などの活動があるので、よろしくお願いします」

 クラス委員の、近藤君がいう。

 ちなみに女子のクラス委員も近藤さんだ。単に偶然なのだが、うちのクラスは近藤夫妻に仕切られていると冗談が出る。近藤君は彼女がいるとはいえ別の高校だからいいけど、同じ高校だったら一悶着あったかもしれない。

 ちなみに紺碧祭とは、うちの高校の文化祭のことだ。文化祭は隔年開催という高校も多い中で、うちの高校では男子高時代から毎年開催されている。


 近藤君が、淀みなく続ける。

 「で、実行委員は、立候補者がいなければ、双海くんと武藤さんにお願いするのが今の案です」

 「旦那~、なんで、俺?」

 と、武藤さんなんだ? は、さすがに飲み込んでおく。

 近藤旦那、曰く、

 「双海くんと武藤さんの二人だけは、まだなんの委員にもなっていないんだ。だから、ま、よろしく」

 と。


 ああ、微笑みが似合う夫婦ですこと。

 そうだったね。俺は、最初の委員決めの時、クラスに同じ中学出身者がいなかったもんだから、推薦とか投票とか、すべてすり抜けて無役だった。

 武藤さんが無役である理由は……、まぁ、言うまでもあるまい。


 当然のことながら……。この提案に反対する者はいなかった。

 ついでに、立候補するという殊勝な奴も。

 俺がなまじにクラスに溶け込んでいるから、「武藤さんが多少アレでも、双海がなんとかするでしょ」という、予定調和がクラス全体を支配していたのだ。


 まぁ、仕方なしに、はいはいと頷く。

 武藤さんも無言で顎を引く。まぁ、中身が黒くても白くても、ここは断れないよな。

 ちょっと嬉しい自分を叱る。心が動いたら負けだぞ、と。でも、まだ一度も見たことがないけれど、武藤さんが微笑んだらどれほど綺麗なんだろう。

 と、いけねぇ、だからさ、心を動かすなって、俺。


 「6時限終了後、視聴覚教室で委員の初会議があるからよろしくね」

 近藤さんの言葉を聞き流しながら、頭の中を整理する。


 現実的に考えれば……。実行委員の仕事は、俺が一人でやるようなもんだろうなと思う。あれっ、さっきの予定調和を自分で無意識に追認しているじゃねぇか。

 やれやれ。

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