第4話 ピアノの黒と銀塩の黒
この日は、朝から雨が降っていた。
夏という季節に降る雨は非常に鬱陶しい。
ただでさえここ数年で酷くなっているという暑さで参っている身体に、湿気が暑さと共にまとわりついてくる。
夏休み最後の週。写真部の僕は、つい先日撮り終わったフィルムと、新たなフィルムを装填した黒光りする一眼レフを鞄に突っ込んで、一人、部室棟を歩いていた。
装填されているのは白黒フィルム。現像なぞ店に出してしまえば楽なのだが、写真部の意地みたいなもので、こうして学校に来て自家現像をしている。
先輩から教わった見様見真似なので、まだ自分の思うような結果を出せる程の技術は無いが、停止液の酢酸がツンと匂う暗室で、黙々と像を浮き上がらせていく作業は、不思議と好きになった。
重く湿って体にまとわりつくような制服を剥がすように、身体に空気を送り込む。
床板が抜けそうにぎしぎしと軋む黴臭い廊下を、一人歩く。
階段をひとつ上って2階。写真部の部室はその真ん中辺りの教室に居を構えている。
いちいち引っかかる扉を開けると、雨の匂いと黴臭さは、現像液の匂いにとって代わった。古びた蛇口から、ぽた、ぽた、ぽた、と水滴の落ちる音が聞こえる。
鞄を肩から降ろして、撮影済みフィルムを取り出す。
準備は慣れたものだ。現像タンクを棚から出して、ピッカーを手に取る。
ピッカーに引かれて顔を出したフィルムの端を確認すると、暗幕を引いて照明を落とした。
*
雨樋から水滴が落ちる音が、ぱた、ぱた、ぱた、とやけに耳につく。
外は、ざー、という音が世界の大半を占めているというのに、この部室棟に入った瞬間、不思議なものだ。
廊下を歩いて、階段をひとつ上がる。
2階の突き当たりの旧音楽室を目指して歩く。
途中、雨脚とも雨だれとも違う音が一瞬混じった。なんだろう?と思ったがそれ以上考えることは無かった。
旧音楽室の重厚な防音扉をゆっくりと開ける。
普段は吹奏楽部が部室として使っているのだが、今日は活動が無いのは事前に音楽の先生に聞いていた。
そして、吹奏楽部がいなければ、こんな時期の来訪者など誰も居ないことはこれまでの経験で容易に想像がついた。
そして、こんな夏休みにわざわざ学校に来ている理由も、ただピアノに触りたいというだけで、部活の練習とかそういうご立派な理由は特にない。
その昔、真面目にピアノをやっていたのと、それがきっかけで音楽の先生と仲良くなった、というそれだけ。
黒塗りの輝きが少し褪せたグランドピアノの鍵盤蓋を開ける。
好きなフレーズを少しだけ弾いて、今日のピアノと指先の調子を聴く。
鞄から楽譜を取り出して、お気に入りの曲を弾き始める。
原曲よりメゾピアノ、開け放ってある音楽室の扉から聞こえる雨音を掻き消さない様に。
すっと意識が指先と鼓膜に集中して、世界が弦と雨音だけになる。
テンポが雨垂れにリンクしていく。
*
奥の音楽室の扉が開く音がした、気がした。
こんな時期の来訪者は自分だけだと思っていたが、違ったようだ。
湿っぽい暗闇の中で、薬品を注いでは捨てる。
フィルムの感光材が溶けて、像が浮かび上がっていく様を期待して、タンクを攪拌する。
すすぎの水を捨てて、暗室の幕を開ける。
タンクから出てきた、無数の模様が浮かんだフィルムを見て、達成感と満足感に包まれる。この濃さなら仕上がりも上出来だろう。
さて、乾くまでやることも無いし、何か撮りに行こうか、と鞄から一眼レフを出した時、静まり返った部室に、微かにピアノの旋律が流れ込んできた。
重苦しいこの空気に割り込むでもなく、一緒に何処までも流れていくような、そんな旋律。
ふと、とあるモノクロの映像が頭に浮かぶ。
記憶の景色ではなく、これから遭遇できるであろう景色だ。
その景色を銀塩に閉じ込めるべく、フィルムを一コマ巻き上げた。
*
ピアノの旋律と、雨音しか存在しなかった世界に、歯車の擦れる甲高い音が混じった。
なんだろう?と弾く手を止めて顔を上げると、一人の男子が立っていた。
こちらに見つかる事までは想定してなかった様で、金縛りにあった様に音楽室の入り口に立ち尽くしていた。
よく見れば、何処かで見たことがある顔だ。
「――撮った?」
その男子は、パニクっているようで、何も言わずに口をぱくぱくさせている。
「別に、怒りはしないわよ。……撮ったの?」
「………すみません」
まさか、私の他に訪問者がいたなんて。
まあ、撮られたからって、どうという事は無い、が。
「それ、フィルムでしょ。消せっていうのは無理だろうし、他所に出さないでね」
「……すみません。でも」
すみませんしか言えないのかその口は。
ん、でも?
「――もう一枚だけ、いいですか」
*
反省してないのかこいつは、と言われて当然だと思ったが、彼女の返答は違った。
顔が写らない事、を条件に。
弾いてた曲は「愛の夢 第3番」という曲、らしい。
音楽の知識は全くないけれど、凄く感じ入るものがあった。
まるで、雨垂れのようなリズムで、音符が押し寄せ、引いていく。
雨の匂いがたち込める旧音楽室の中、僕は彼女の演奏を可能な限り妨げないように、フィルムにその景色を閉じ込める。
カシャン。
古めかしいシャッター音が、露光完了を告げた。
*
薄暗い音楽室、曇天の弱い光が差し込む窓を背に、一人雨垂れの様なリズムでピアノを奏でる彼女。
今となっては、曲名は忘れてしまったけれど。
当時の自分としては、珍しくマウントに収めたこのコマ。
彼女の言いつけ通り、誰にも見せていない。
光に透かして見ると、ネガポジ反転していても、あの時の空気感がありありと思い出せる。
あの瞬間は、僕と彼女だけの、秘密。
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