二章 鵺編

小休止、夏休み

有希の追憶 正義と悪と輪廻の先

 ―勧善懲悪。善を勧め、悪を懲らしめる。物語でも英雄譚を筆頭に多く描かれ、道徳的な意味合いでも普遍的な考え方。私はソレを否定はしない。

「ひったくりだ!誰かアイツを捕まえて!」

 悪は蔓延るべきでは無い。思考も、行動も善くあるべきだ。…なんて、同意はするけれど随分な綺麗事。この世界は悪意害意に満ちていて、卑怯卑劣が得をする。

「どけどけぇ!死んでも知らねぇぞ!」

「きゃあ!?あの男、刃物を持ってるわ!」

 ―だから、悪は滅びるべき?その為なら、何をしても『正義』の免罪符が付いて回る?何処までが善で何処までが悪になる?もし眼前の犯人がひったくった相手がとんでもない極悪人なら、その行為は善になるのではないか、なんて。

「…そんなもの、心底下らないわね」

「じょ、嬢ちゃん!?そんな所に立ってたら―」

「邪魔だ小娘!死にたいのか!」

 ナイフを構えて此方に走ってくる男。誰かが決めた善悪なんてどうでもいい、私は私の善性に従うのみ。ただ単純に、信ずる道を進むだけ。

「…煩いわよ、クズが」

 刹那、宙を舞う男の身体。顎部目掛けて蹴り上げた脚が、壮年の身体を吹き飛ばす。呆気に取られる周囲、驚愕で静まり返る夜の町。ほんの一瞬の静寂を破ったのは、人型の肉塊が落ちる音。

「ぐばぁっ!?」

 ―曰く、罪人は悪であるという。ならば、それを諌める行為は善になるのだろうか。この骨さえ穿った一撃も、落ちた男へ振るう追い打ちさえも正義に成り得るのだろうか。

「待ちなさい、私のバッグ―って」

「…貴女がひったくられた人?見ての通り、止めたけれど」

「まぁ、こんな大人しそうな女の子が?ありがとう、本当にありがとう!」

 斃した男からバッグを取り上げ、婦人に手渡す。喜びのあまり私の手を取って飛び跳ねる婦人、余程高揚しているのだろうか。少なくとも、彼女にとっては私は善い事を為したのだろう。…けれど。

「…かえ、せ…。それ、は…おれ、の」

「黙れ黙れ黙れ!ひったくった分際で口答えするなっ!このっ、このっ!」

 男の顔をヒールで幾度も踏み付ける女。暫く立って警察が到着し、その暴行を抑える頃には男の顔は血塗れで。悪を前に暴走する正義、辟易とする位に目にした光景。見るも無惨なその姿に、私は一人溜息を零す。


「…判らないわ。善悪の意味も、正しさも」

 平日昼間の喫茶店、テーブル席から呆れた声。錆鉄色の長髪を靡かせる乙女、名を羽生 有希。眼鏡の奥の焦茶の瞳は、遠くを見つめて静かに揺らぐ。

「…ねぇ、日辻。その女の行動、正しいと思う?」

「善くは無いよねぇ…。でも有希も蹴ってるじゃん…」

「相手は刃物持ってたのよ、正当防衛に決まってるでしょう。…でも、アレは流石に過剰よね。相手が悪人だからって何でもしていい訳じゃない」

 日辻と呼ばれた対面に座る青年は、私の言葉に頷きながら紅茶を啜る。彼とは幼馴染であり互いの良き理解者、時折こうして愚痴を溢したり相談を持ち掛けたり。今時こういう健全かつ良好な関係性というものは珍しい、とは知人の弁だ。

「それにしても、そんな相談されるとは思わなかったよぉ。随分前に解決したと思ってたけれどぉ」

「…嘘、もしかしてこの話二回目…?ごめんなさい、別に構って欲しい訳じゃないのだけど」

「大丈夫、大丈夫ぅ。構ってちゃんだもんねぇ、有希は」

「…縊るわよ?」

 微笑みながら向けた怒気に充てられてすぐさま頭を下げる日辻。彼自身は決して悪い奴では無い―寧ろ善性の塊のような男なのだが、如何せん私の前だと失言が多くなる。幼馴染相手だからと気が緩んでいるのか、もしくは私をからかっているだけなのか。

「…まぁいいわ。今日は愚痴りたい気分なの、付き合って貰うわよ。話長くなるかもだけど、逃げようとは思わない事ね」

「…御手柔らかにお願いするねぇ…」

「あ、随分長くなると思うから。まず何を持って正義と呼ぶのか、そこからなのだけど…」

「…コレ終わらない奴だ…」




 ―前提として、悪を仕立て上げる事そのものが真の悪だと思うのよ。自らの敵を悪として、自身を正義の象徴とするような奴とかね。神代まで遡るなら、ギリシャ神話のアテナとかいう性格最低なクソ女とか、ポセイドンとかいう全ての女の敵とか。

 …確認だけど、アテナはご存知かしら?工芸と戦術を司る女神でオリュンポス十二神の一柱。彼女を祀ったパルテノン神殿は有名よね。都市の守護者としても語られる事、多くの英雄に力を授けた事から高潔、正義の側としての印象が強いかもしれない。…あくまで正義の女神はアストライア、あのクソ女は正義とは程遠い畜生以下な訳なのだけど。

 ポセイドンもオリュンポス十二神の一柱で、彼は海神として有名ね。三叉槍トライデントを持ってる、と言えばイメージしやすいかも。彼は、その…何と言うか…女好きのクソオヤジと言うか…乙女的にはあまり口にしたくない奴ね。


 …前置きはここまで。古代ギリシャのとある時代に、ゴルゴンの三姉妹が住んでいたの。長女ステンノ、次女エウリュアレ。…そして三女、メドゥーサ。かの石化の魔眼を持つとされる有名な怪物、けれど当時は普通の女神だった。彼女達は姉妹三人、人知れず気ままに幸せに暮らしていたの。

 ―けれど、その幸せは永久では無かった。麗しい髪のメドゥーサに一目惚れした男神が、彼女を神殿に連れ込んで無理矢理交わったの。それがあのポセイドン、下半身だけで事を考えてる助平ジジイ!無理矢理とか酷くないかしら、無理矢理って!

 しかもクソジジイが連れ込んだ神殿というのが、あろうことか処女神であるアテナの神殿!現代風に言えば人様の家に別の女を連れ込んだ様な物よ、本当最ッ低!神話に校閲入ってくたばればいいのに!何がワシの自慢の三叉槍(笑)よ心底くっだらない下ネタだわ海底火山に頭突っ込んで死んでくれないかしら!?

 …失礼、取り乱したわ。当然ながらアテナは大激怒、当然ながら罰を下そうとします。けれど相手はポセイドン、先に述べたようにアテナと同じくオリュンポス十二神が一柱。しかもかの最高神ゼウスの兄。罰を下す訳にはいかなかったのです。…何よ立場に媚びへつらって!?相手が誰でも関係無いわ、失態には相応の処罰が必要よ!同じオリュンポスの十二神なのだから強気に出れば良かったのに、立場を気にしてるとか何てみみっちいクソ女神!

 そんなあのクソアマが下した判断は、あろうことかメドゥーサへの神罰!自慢の髪を蛇にされ、その容姿を蛇の怪物に変えてしまったの!しかもその処遇に抗議してくれた心優しい姉様達まで反抗的だと怪物に!あぁ思い出したら腹立ってきたあのクソ戦神縊って縊って縊り殺してやる!




「ゆ、有希!?神話の話が主観強くなってるよぉ!?というかこれ何の話!?」

「…ごめんなさい、少し彼女メドゥーサに肩入れしすぎね。なるべく客観的に進めるわ」

「お、お願いねぇ…」




 ゴルゴンの三姉妹は怪物の姿に成り果ててなお、平穏な暮らしを望んだ。けれど戦神アテナはそれさえ許さず、バケモノ討伐と称して多くの兵や勇士にメドゥーサ達の討伐を依頼し、彼女達の元に送り込んだ。

 当然、殺さなきゃ殺される。後方にいた姉二人を護る為、メドゥーサは大勢を殺した。五十を殺した辺りからは死体を数えるのを止め、ただ護る為に殺した。

 目の前の者は全部敵。殺して殺して殺さなきゃ。波が引くまで殺さなきゃ。惨く醜く殺さなきゃ。誰であろうと殺さなきゃ。

 殺しに来る奴等の中には、顔馴染みもいた。それに気付いてからは、敵の顔を見なくなった。手加減も猶予も容赦も不要、温情など殺戮の邪魔。それならば、相手が誰かどうかなんて知らない方がいい。

 一晩中殺して、徐々に楽しくなってきた。あんなに意気揚々と向かって来る愚者が、まるで人形のように薙ぎ倒され、果実を潰したような赤い汁を吹き出す。見慣れれば滑稽に思えてきて、段々と気分が高揚する。

 敵の波は長く押し寄せたが、三日が経って、やっと終わりが見えてきた。メドゥーサは遊戯のように敵を殺した。殺して殺して殺して、いつしか笑いながら殺していた。けれど、波が引くのは少し寂しい。現代風に言えば、ついさっきまで使っていた玩具を母親に取られてしまった子供のような、そんな心残り。けれど、一番大事なのは姉を護る事。少しばかり哀愁を感じながら、メドゥーサは敵を殺し尽くした。

『…ったく、つまんないの。…姉様ー?終わったわよー?』

 姉に呼び掛けながら、メドゥーサは振り返る。童心に帰っていた私は、久し振りに頭を撫でて貰おうかとか、悠長な事を考えていた。

『姉様ー?ステ姉様ー、エウ姉様ー?』

 けれど、いくら呼びかけても、どれだけ捜しても。

 ―――二人の姉は、どこにもいなかった。




「…そして、彼女メドゥーサは、私は真に怪物と成り果てた。所業は勿論、心さえも怨嗟と憤怒に飲まれ、文字通りの悪しき化物に。罪無き物さえ食い殺すような、ね」

「…有希?メドゥーサって、『私』って―」

「…そして、多くを殺し食い尽くした化物を倒したのは勇者ペルセウス。…皮肉にも、自らを善性と信じて止まないアテナの送り出した勇者によって、彼女は悪の怪物として討たれたの。…以上、『善と悪って何なのかしらね』という話でした」

「いやいやいやいやいや」

 混乱する日辻に疑問符を返す。まさか私の話し方が支離滅裂だったのだろうか。果たしてアテナは本当に善なのか、メドゥーサは本当に悪なのか。そういう喩えを呈しただけの一貫した説明だと思ったのだけど。

「…有希、君は善悪、正義についての喩えとしてギリシャ神話を持ち出したんだよね…?」

「えぇ、そうだけど…。何か問題でもあったかしら?」

「完ッ全にメドゥーサ視点の愚痴込みの神話解説になってたよぉ…?」

「あ」

 …やらかした。例えの一つとして提示するだけのつもりが、いつの間にか熱が入り過ぎて脱線してしまったらしい。冷静かつ筋の通った会話を心掛けるつもりが、まさかこんな話下手のようなミスを犯すとは。普通に落ち込むのだけど。

「…ご、ごめんなさい…。私、この手の話だと熱くなり過ぎちゃって…。えーっと、つまりね?本当の悪は誰かとか、悪とされて多くを屠ったメドゥーサは真の悪に成り果てたのかとか、そういう話をしたくて」

「…大丈夫だよぉ、ちゃんと聞いてたからぁ」

 ふと、諭すような、励ますような彼の笑顔で気が抜ける。嗚呼、だから私は彼が好きなのだ。こんな狂ったようなおかしな私でも、日辻は真摯に向き合ってくれる。全く、私は本当に良い友人を持ったものだ。…否、好きとは友人としてであって恋愛とか男女の関係とかそう意味では無い。無いのだけど。えぇ、決して。

「…確かにメドゥーサは最初は被害者だった。けれどその後の所業は決して感化出来るものでは無い。かと言ってアテナもポセイドンも非が無い訳じゃない。そういう事が言いたいんでしょ、有希は」

「…えぇ、そうね。…はぁ、本当に愚痴になっちゃったわね。こういうの、正解なんて無いのに」

 溢れる溜息、落ち込む空気。駄目だ、この話は誰も特をしない。益が無いどころか不利益しか無い会話なんて、私が一番嫌いなのに。それをよりにもよって彼にしてしまったかと思うと申し訳無さで胸が張り裂けそう。それでまた落ち込んで、以下無限ループになる予感しかしない。

 …けれど。日辻の言葉は、私が思うよりずっとずっと前向きなもので。

「僕は聞いてて楽しかったよ。感情的に話す有希とか珍しいし、有希の身の上話とか珍しいし」

「…そ、そう?それなら良かった、のだけど…」

 彼の優しい微笑みに思わず頬が綻ぶ。落ち着け、落ち着くのだ羽生 有希。日辻の優しさに甘えてはいけない、今後はちゃんと道筋を立てて話すようにしないと。まずは反省だ羽生 有希、表情をふにゃらせてはいけない。というかふにゃらせるって何だふにゃらせるって。

「………ん?みのうえ、ばなし………?」

「え?だって、メドゥーサって有希の事でしょお?だって私って言ってたし、有希の魔力だって石化の魔眼だしぃ」

「〜〜〜〜〜ッ!?」

 刹那、高潮と共に強張る頬。まさか熱が入り過ぎてそんな事を口走っていたとは。否、流石に魔眼持ちの蛇巫女と来れば予想は誰でも出来るか。しかし、いざ他人の口から言われると、何と言うか。必死に隠していた秘密が周知の事実だと知った時のような、名状し難い程の羞恥の感情が込み上げてきた。

「…あれ、もしかして隠してるつもりだった…?ずっと一緒にいたら流石に判るよぉ」

「…隠してたのにぃ…。変な詮索されたくないから黙ってたのにぃ…」

「わぁ、有希が珍しく照れてる。可愛いねえ」

「縊るわよ!?もしくは縊るか縊るわよ!?」

 荒ぶる感情、騒がしいテーブル席。結局本題が何だったのかも思い出せないまま、喫茶での時が過ぎていく。




 ―ギリシャ神話の蛇の怪物、メドゥーサ。彼女の心が怨嗟に、憤怒に飲まれて狂う寸前、彼女は自らの良心を切り離した。

『東洋には輪廻転生というものがあると聞きます。もしもそれが実在するのなら、この良心だけを輪廻の流れに』

 メドゥーサと呼ばれた怪物は一つの願いをそっと込めて、想いを未来へ託したのだ。


『もしも、遠い将来。人間も、神も、その他の生き物も。全てが共に暮らせるような、そんな夢のような土地があるのなら。

 私は一人の乙女として、周囲の言う正義も悪も関係無く。

 自分勝手だと言われるくらいに、自分らしく生きてみたいと思うのです』

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