凪の追憶・後編 黒羽 凪

 ――さて、この話は一旦おしまい。あの子に、纏に何があったのかはさっき話した通り。……あの子は不運だったけど、その時は不幸だとは思っていなかった。ああ見えて、纏の心はしっかりしてる。君達が、わたしが思ってるよりもずっとね。


 ……うん、わたしが話せるのはここまで。無論、あの子の物語には続きがある、現在進行形で続いているけど……うん。此処からは、わたしの出る幕は無いよ。

 けれど、もし。あなたに覚悟があるのなら。災禍事変を知ってなお、あの子の過去を受け止めるのなら。わたしは止める事はしないよ。もし、自分の選択に後悔をしないのなら。


 ――あなたの手で、ページをめくるんだ。




 現実というのは、いつもいつも残酷だ。

 正義の為と人が死ぬ。未来の為と妖も死ぬ。取って付けた建前で、『必要な犠牲』が増えていく。悪も善と呼べば善。善も悪と呼べば悪。行動の善悪なんてものは、立場と名目でころころ変わる。里の仲間が殺されたのも、皆の存在が悪とされたから。その殺戮が、善とされるから。

 ――正直、『わたし』の記憶は曖昧だ。奴等をどうやって殺し尽くしたのか――は、それはまぁ覚えてる。判らないのは、奴等を殺し尽くした、あの爪。わたしの力、というよりわたしたちの力とでも呼べばいいのだろうか。少なくともアレを振るったのは無意識だ。その辺りの謎は残っているけれど、実際問題、それはどうでもよかったり。

 ――大切なモノを護る。わたしにとっては、それこそが正しかったから。


 なのに。それなのに。


「……纏、なんでそんな事をしたの」

 なんでって、わたしは皆を護りたかったから。

「里の皆はとっくに死んでたのに?」

 けれど、家族は生きてた。父さんも、母さんも、姉のしずくも。

「助けたら、また前みたいに暮らせると思った?」

 ……当たり前だよ。わたしは、そのために……。

「……馬鹿ね。その結果が、これよ」

 母の諦め混じりの叱責が耳を突く。壊れた家具、散らかった部屋。浴室で怒鳴る父の声、口の中の鉄の味。家庭崩壊っていうのはこういう事を指すんだろうな。幼いながら、わたしはそう思っていた。


 鴉天狗の里の襲撃――災禍事変と呼ばれたあの悪夢から一年。結果として、わたしの家族以外の鴉天狗は全員殺された。里を襲った退魔士共も、十四人全員殺してやった。あと土地も何故か死んだ。生き残ったのは、わたしの家族と、そらと、有希ゆうきくらい。有希はあの爪に巻き込まれて重傷を負って以来、顔を合わせていない。空は滅びた里に鴉天狗達の墓を建て、墓守をしながら彼女の主であるおろしのじいちゃんの帰還を待っている。

 ……多分、颪のじいちゃんは、わたしと有希の目の前で斬り捨てられたあの時点で死んでいる。けれど、わたしも有希も事件の後、まともに口が聞ける状態じゃなかった事、颪のじいちゃんだけ遺体が見つからなかった事もあって、彼女は主を待ち続けている。……早く、伝えられたらいいんだけど。


 ――話を戻そう。わたし達家族は生き残って、家を霊山の麓に移した。けれど、あの事件でショックを受けたせいか、それとも何かよくないモノに触れたのか。父親は、狂ってしまった。毎晩酒を呑んで、わたしたち家族に手を上げる。毎日毎日、それの繰り返し。母も姉も多分限界、わたしだって耐えられる気がしない。それが一年も続いている。現にわたしは、辛いとか苦しいとか悲しいとか、そういう感覚が無くなってきてる。あるのは、今日も生き延びたというささやかな喜びと、湧き上がる怒りだけ。楽しいとかの感情は、多分何処かに置いてきた。

 ――置いてきたんじゃない。私の糧になったんだ―

 ……まずい。幻聴聞こえてくるくらいには限界かもしれない。取り敢えず、今日は晩御飯だけ食べてさっさと寝よう。


 翌朝。目が覚めると、空気がやけに冷えていた。

 恐る恐る部屋に行くと、そこには血みどろになった父親だったものが転がっていて。目線の上には、首を吊った二つの影が。

「――嘘、なんで」

 絶句した。別にあの父親は別に死んでも何も思わない。けれど、母は、雫は何で死ななきゃいけないの。耐えてきたあなたたちが、何でここで力尽きなきゃいけないの。なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!

 母だったものを泣きながら揺らす。すると、上から白い、返り血の付いたメモがひらひらと、わたしに現実を突き付ける。


『纏。あなたなんて、いなければよかった』


「どういうことよ!あの子が死んだって!」

「……家族四人の死体が確認されたそうだ。父親は刺殺、母と姉は首を吊って心中。下の子は、自らの心臓に刃物を刺したとか。……夜峰の鴉は、絶滅したという事になるな」

 嘘よ、と少女は涙を浮かべる。声を荒らげ、訂正しなさいと声の主に詰め寄る。シルクハットを被った白髪の男は、少女に睨まれながら頭を優しく撫でる。

「下の子に――纏に宛てた母親からのメモが見つかっている。――纏に対する、恨み言が書かれていたと」

「……あぁそう!お爺様がなんと言おうと、わたしは信じないから!絶対あの子は生きてる、纏は、絶対に……!」

 少女は怒鳴り、家を飛び出した。シルクハットの老人は、はぁと溜息を吐き、そして少しだけ口角を上げた。

「……私も信じているとも、有希。感じるんだ、あの子の可能性というものを」


 時は流れ、二〇一二年。災禍事変から三年、夜峰の鴉の絶滅から二年が経って、千羽町はこの悲劇を忘れようとしていた。町も段々と活気を取り戻しつつあり、災禍事変以降増えていた妖や退魔士による犯罪も減少傾向である。

「おねーさん、この後ヒマ?」

「よかったらオレ達といいコトしよーぜー」

 ……まぁ、この手の輩はいつでもどこでもいるのだが。

「……すみません、いいコトとは……?私、そういうの詳しく無くて……」

「ん?いいコトはいいコトだよ。おねーさんも、楽しいのは好きだろ?ほら、行こうぜ!」

 ちょっと、と戸惑うマフラーの女性の手を引いて、男二人は路地裏へと入り込む。綺麗な黒髪、長身でスラッとした身体付き。大人しそうな雰囲気のあの女性が、ああいう手合にとって絶好のカモに見えるのは仕方無いと思う。

 ……けれど、彼等は見抜けなかった。アレは鴨のフリをした、悪辣な鴉であることを。

「……あの、此処って行き止まり、ですよね?いいコトって」

「ああ、それはな――」

「――あぁ、やっぱりいいよ。全部、判ったから」

 呟いて、女は男二人に手刀を振り下ろす。そして、一撃で昏倒させた彼等の懐をまさぐり、財布の中を物色。

「一万と五万……合わせて六万。うん、悪く無い」

 そして抜き取った金銭を自分の財布に移し、一息付いて先程倒した男達を脚で雑に押し退ける。

 冷酷に、冷徹に。同情も感情も無く、為すべき事を為すために。


 ――僕は、多くを失った。里を、仲間を、家族を、居場所を。心さえも、失った。

 死にたくないから、護りたかったから殺した。殺して殺して殺し尽くして。そうすれば、また笑って暮らせると信じてた。けれど、現実というのは、いつもいつも残酷だ。伸ばした腕は届かず、駆ける脚も間に合わず。この手で護りたかった尽くは、指の間から零れ落ち。残ったのはこの身体と、救いたいって妄執だけで。

 ――端的に言えば、壊れていた。


「オレ達は何もしてねぇよ!急に黒髪の女が襲ってきて――」

「何もしてない、は流石に都合良すぎるんじゃないか」

 縄で縛られた男二人を一瞥して黙らせる。鋭い瞳の少年は男達の身勝手な言動に溜息を零し、何か思い付いたように口を開く。

「それと、一つ。その黒髪の女の目、どんなだった」

「……どんなって、大人しい感じの目だよ。紫の」

「……そうか」

 その問答の間にサイレンの音が届く。少年は合流した警官に身柄を引き渡し、パトカーを静かに見送って、

「……あー、怖かったぁ……」

 その場でへなへなと座り込んでしまった。日辻ひつじ 完二かんじ退魔士たいましの家系に生まれた少年。彼はひったくりの現場に居合わせ、その犯人グループを数秒と掛からず締め上げた。しかし、気弱な性格なので終始怯えていたが。

「やっぱ無理だよぉ、怖いよぉ……。あいつらすっごい人相悪かったしぃ……」

「煩いわね、ジンギスカンにするわよ」

「ひぇっ」

 刹那、背後からの声に思わず飛び跳ねる。日辻が恐る恐る振り向くと、そこには両目を包帯で隠した少女が心底面倒そうに彼を見下ろしていた。

「有希!?どうしてここに――」

「声が聴こえたからに決まってるでしょ。お前、十一歳のくせにに体力も実力もあるんだから、もう少し堂々としてればいいのに」

 辟易とした態度を取る有希にたじろぐ日辻。二人は災禍事変以前からの幼馴染であり、有希は時折日辻の家に食事を頂戴しに訪れたりと親交も深い。とはいえ、気丈な有希に日辻は押され気味ではあるが。

「それよりも、日辻。さっきの奴等って」

「んー?あぁ、何か色々やってたぽいねぇ?で、途中で女の人に財布盗られたらしいよぉ」

「……それって」

 固唾を呑む有希に対し、日辻はにやりと口角を上げた。

「紫の瞳とマフラー。十中八九、君がご執心の夜峰 纏だ」


 月夜の映える千羽の町を、とぼとぼ歩く影一つ。深紫の髪を足元まで伸ばし、マフラーを冬風になびかせて。齢十の半妖は、雪の道を踏み締める。

「……一万くらい、手元においとけば」

 腹は鳴り、寒気が肌を刺す。今日の稼ぎは全部町の孤児院に寄付したけれど、自分の分を考えていなかった。ただ、救いたい半妖にとっては、自分の為なんて発想は最初から無いのだが。

 ――ただ、救いたかった。救う為には、願いを叶える必要があった。心の死んだ半妖にとって、そこには善悪や自分の意思は介在せず。ただ、願いを叶える怪異バケモノとしての在り方を全うした。

 猫を探してと頼まれたから、望みの通り探し出した。金をくれと怒鳴られたから、盗った金を差し出した。お腹が空いたと言われたから、そこらの妖の腕を落として焼肉にした。手段や過程はどうあれ、ただ、多くを救おうとした。夜叉鴉やしゃがらすと呼ばれたその怪異は、それを役目のろいとして背負ったのだ。

「ああ、今日も救えた。明日も、明後日も、救えたら」

 空腹を堪えながら夜叉は歩く。その頬に伝う涙に気付かぬまま。


 午前五時。公園のドーム型の遊具の中で、半妖はうーんと背を伸ばす。新聞とボロボロの毛布の中で目を覚ました彼女は、拠点の周囲を見渡して。

「おなか、すいたな」


 半妖の放浪歴は二年に及ぶ。食料は主に山や川で調達、限界が近ければゴミ箱を漁り。けれど、幼い少女がずっとそんな事をしていれば、すぐに警察か千羽の主に通報が入る。そうすれば身元が割れて拘束。経歴を見れば千羽軍の元で殺処分が妥当だろう。

 そこで半妖は、かす事を覚えた。変化の姿が一辺倒であれば本末転倒だからと多種多様な容貌に化ける術を身に付けた。生来持ち合わせた観察眼によって、『普通』を演じる事で、周囲の視線からの不信感を和らげ、活動の実行を容易にしたのだ。

 現在の拠点はこのドーム型の遊具だが、以前は空き家を転々としていた。姿も居場所も定めない事で、半妖の存在は半ば都市伝説と化していた。

 ――救う事に囚われた夜叉。滅んだ鴉天狗の亡霊。夜叉鴉と。


 半妖は拠点を出ようとする。その時、くしゃりと何かを踏んだ音がした。

「なにこれ。紙?」

 気付き、屈んでそれを拾う。『お願い』と書かれたその紙を裏返すと、丁寧な字で文字が綴られていた。


 ――夜叉鴉と呼ばれる貴女へ。もし貴女が本当に救う者ならば、私を救って下さい。どれだけ死にたくても死ぬ事が出来ない私を、救って欲しいのです。コートを着た白髪の女性が正午にこの公園に訪れますので、何卒宜しくお願いします。

 ハルファス=クローヴァより――


「……なにこれ」

 改めて首を傾げる。以前にも救って欲しいと頼まれた事はあったが、自らを殺して欲しいというのは初めてだ。否、そもそも文書で頼まれた事自体が初なのだが。

 けれど、浮かんだ疑問符を重視する半妖ではない。重要なのは、救うという文言だ。救う事に囚われた半妖にとって、それは必ず果たすべき責務である。

「うん、救わなきゃ」

 狂っていたというか、壊れていたというか。半妖は、ただただ刃を研いでいた。


「――と、いうことで。ハルファス、あの子の為に死んでくれる?」

「待って待って有希ちゃん、意味分からないんだけど」

 午前十一時。支離滅裂な発言に白髪の女性、ハルファス=クローヴァは頭を抱えていた。自宅に突然少女が訪れたかと思えば、死ねと言い放って来たのだ。狼狽える彼女に有希と呼ばれた女性は溜息を零し、心底面倒そうに口を開く。

「言葉通りの意味よ。貴女、死にたい死にたいって言ってたじゃない。だからぴったりの人材を見つけて来たのに、酷いわね」

「言ってたけども!私この前喫茶建てたばっかりだからまだ死にたくないんだけど!あと帰化したからハルファスじゃなくて黒羽くろはね はるって呼んでほしい!」

「……煩いなぁ、この死に損ない」

 ハルファス――改め晴の大声に有希は思わず耳を塞ぐ。苛立つ少女は思わず壁を殴り、一瞥して晴を黙らせる。齢十一の童女とは思えない威圧感に、晴は思わず唾を呑んだ。

「あのねぇ、ハル。私は貴女の命も喫茶もどうでもいいの。ただ、貴女の不死の身体を利用したいだけ。上手くいけばあの子の精神性が改善するかも。失敗しても貴女は死ねる。悪くない提案だと思うのだけど」

「『私』にとって悪くない提案、だよね、それ……」

「言ったでしょ、私は貴女の命も喫茶もどうでもいいって」

 ニヤリと悪辣な笑みを浮かべる有希。嗚呼、彼女の事はいつまで経っても理解が出来ない。千羽の土地神が拾ったという彼女が、人間や妖とは違う価値観を持つ彼女が。晴や空よりも、もっと古い、もっと遠い世界を見たかのような彼女の在り方は理解出来る筈がない。

 ――けれど、一つだけ。判る部分をようやく見つけた。

「……なるほど?貴女、その子の事がよっぽど好きなんだ」

「ちちち違うわよ!?あの子とはただの幼馴染で、彼女の夢で、私の希望で――」

「ふふっ、ベタ惚れだ」

くびるわよ!?」


 幼稚な言い争いを経て、正午。晴は有希に指定された場所、八十八やそはち公園近隣に居た。彼女から聞いたのは此処に晴を殺せるかもしれない存在がいる事と、それが有希の旧知であることくらい。期待や不安を押し殺して息を整え、晴は公園に足を踏み入れる。

(……あれ?何処にも見当たらないような……)

「あの、すみません」

 ふと、声がする。しかし、声の方向が分からない。きょろきょろと辺りを見渡している間に、声は続く。

「あなたが、ハルファス=クローヴァでしょうか」

 ふと、晴は確信した。有希の旧知というソレは、才能の塊だ。気配を隠し、音を隠し。正体さえも、位置関係さえも悟らせず。穏やかそうな雰囲気の声からは想像出来ない程の、殺す才能に満ちていると。

(嗚呼、この子なら、あるいは――)

 意を決す。この才能が生きているうちに、幕を下ろそうと。

「……はい。私が、ハルファス=クローヴァです」

「……そう」

 刹那、晴の視界が赤に染まる。彼女の身体を、鮮血が彩った。舞う赤の先に捉えたのは、深紫の髪の微笑む童女。

「苦しかったね。せめて、最後は楽にしてあげる」

 その半妖は、非情で、冷酷で。けれど、何処までも慈悲深い。救う事しか能が無いからこそ、救う為と刃を振るう。慈愛の刃が、赤を彩った。

(嗚呼、貴女はそんな顔をしてたんだ。残酷な筈なのに、とっても優しい貴女。嗚呼、本当に――)


「――本ッ当に、可愛い!」

「……はぇっ?」

 ――ビビった。……訂正。酷く驚いた。心臓を、ついでに頸椎をナイフで貫いた筈なのに、あの女は笑っていた。それどころか、刺された心をときめかせていた。いや、そもそも何でピンピンしてるの?……訂正。致命傷を負ったとは思えない彼女の態度に、半妖は物理的に、精神的に距離を取ろうとした。

「ねぇ君、名前は!?何処から来たの!?あ、飴玉いる?」

「あ、あの、気持ちわ……近い、離れて」

「今気持ち悪いって言った!?」

 壊れた心が訴える。アレは、ヤバイ人種だ。救うとか殺すとかそういうの以前に、然るべき職種の人が対応した方がいい存在だ。厳密には警察とか。やだ近付きたくない帰りたいそもそも死にたくても死ねない私って不死って事だよねそれ絶対わたしの手に負えないやつじゃんってやめてスンスンしないで何かやだ気持ち悪い不審者じゃんこの人!

「あ、よかったらうちの子に――」

 言い終えるまでに首を切り付ける。これは救うとか死は救済とかそういう事じゃない。正当防衛だ。壊れた心が全力で警鐘を鳴らしている。

「――あー、びっくりしたー」

「何で死なないの!?」

 ……判った。多分山姥とかそういうやつだ。連れて行かれたら取って食われる。味噌鍋かなんかの具材にされて鴉鍋にされる。いやまぁそれをされるだけの事はしてきたけどアレの血肉になるのはやだ絶対やだ夜峰の鴉のプライドが許すものか――

「取り敢えず、うちに行こっか!」

「やめろ抱き上げるな連れてくな鍋にするな誰かー!?」


「……で、本気で連れて帰ってきたのかい、晴」

「ごめんなさい、めいさん」

 千羽某所、路地裏にひっそりと居を構える居酒屋で、銀髪の老婆は酒をあおる。ギロリと晴を一瞥し、はぁと盛大に溜息を溢した。

 日辻 冥、退魔拾弐本家の一つである日辻家の当主にして、御年一ニ〇歳となる退魔士の生き字引。晴が千羽を訪れた時から世話になっている、彼女の恩師に当たる女性である。

「まったく、アンタの何でも拾ってくる癖は判ってるつもりでいたんだが……。まさか半妖拾うなんてねぇ」

「……え?半妖なの?」

「……アンタよりウチの曾孫の方がよっぽど利口だわ。ソレ、夜峰 纏ってんだろ?退魔士ウチ宍戸莫迦共が襲った夜峰の鴉の生き残りだよ」

 嘘、と晴は絶句する。あの子を拾ってから三日、彼女は何を訊いても答えず、ただただ晴を殺す為に刃を突き立てた。死なずとも、死ぬまでずっと。疲れきって眠るまでの三日三晩、執念を胸にそれを繰り返していた。

「……纏。それが、あの子の名前――」

「そうそう、その名前はあまり口外しない方がいい。何しろ二年前に。生きてると知ったら、蛇神へびがみン家か人売りに目を付けられるだろうね」

「……蛇神の奴ら、節操無さ過ぎじゃない?」

 晴は思わず頭を抱える。確かに鴉天狗、それも半妖となれば愛好家物好きの間で高値は付くだろう。それも蛇神家が狙う程の希少性となると、きっと纏は――。

「……ま、蛇神家の絡む可能性については有希の嬢ちゃんにも伝えとくよ。その上で決断しな。あの夜叉を捨てるか、売るか。それとも、怨嗟を向けられながら育てるか」




「……本当にいいの?」

「どうせすぐに伸びますし。バッサリと行ってください」

 およそ六年後、二○一八年は四月某日。千羽町の美容室で、コートの客は穏やかに言う。長く伸びた深紫に鋏を入れ、ちょきんと。髪と縁と呪を断つ。妄執に囚われた鴉の姿はそこになく、凪いだ心がただそこに。

「……成長したね、纏」

「纏じゃないです、黒羽 なぎ。……成長はしてないですよ?僕の心は壊れたままですし、やっぱり誰かの救いになりたい。……けれど」

 言って、凪と名乗った半妖は店員の方を向く。そうだ、本質なんてそうそう変わらない。ただ、荒れていた時から落ち着いただけ。それでも、あのへんた――晴に拾われてからの五年は、決して無意味では無かった。それだけは、胸を張って口に出来る。

「――救うためには、まずは僕を救わないと。なんて」

 ふふっと、あどけなく微笑んだ。何処か幼くて、けれど大人びて。矛盾だらけの半妖は、ようやく先へと歩き出す。


「――大丈夫。僕は、わたしは強いから」

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