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一四話 ■■■■■

 ―願ったものは、叶わないと知った。

 護りたいと願った果てに、待ち受けたのは絶望だ。壊れて、足掻いて、摩耗して。それでも、誰かの為と駆け抜ける。傷付きながらも、救いたいと手を伸ばす。

 そんなあの子を救いたかった。その為に私は生まれた筈なのに、事を為した筈なのに。全く、現実とは上手くいかないものだ。

 けれど、チャンスは再び訪れた。あの子が認めてくれたおかげで、私はまた力になれる。傷付くあの子の代わりに、私はいくらでも手を汚す。


 ―そう。何でもするよ。君を救う為なら、私は手段を選ばない。


 午前二時。草木も眠る丑三つ時に、少女の意識は覚醒する。暗い部屋でただ一人、息を切らせて起き上がり。

「…良かった、夢か」

 逸る胸を撫で下ろす。髪と瞳を翡翠に染めて、少女はうーんと背を伸ばした。

 ―酷い夢だった。殺されて、殺して、殺して、喪って。ひたすらに傷付けて、そのまま斃れてしまう夢。ただ一つの救いは、私の視点は傍観者で、血に濡れていたのは他人だった事。

「…ううん、違う。あれは、『わたし』だった」

 そうだ、あれはきっと、わたしだ。私が父親を殺して、母親と姉を喪って、目を閉じた後の鴉の半妖。何も見えていない、覚えていない時に、一人でひたすら足掻いていたあの子。今見たものは、わたしの抱える辛い過去。

 ―私の記憶は、途切れ途切れだ。夜峰 纏から私が切り離される前までの記憶、母と姉を喪うまでの記憶はあるけれど。そこから繋がる記憶は無い。その次は、雪女の子氷室涼葉に出逢うまでは空白だ。私はあの子の痛みも理解出来ないし、身体の無い私にはあの子に触れる事さえ出来ない。だから、あの子があんなに意固地になる理由も判らない。

「…本当に、救われないなぁ」

 はぁ、と溜息。冷や汗を拭い、私は再び眠りにつく。


 七月。入学式から―鬼神、天探女アメノサグメ率いる軍による千羽陥落計画が発覚してから三ヶ月。あれ以降、敵軍の邪術師の引き起こした虚空戦線、白部 響暗殺未遂事件もあり、千羽は少なからず打撃を受けていた。裏切っていたとはいえ千羽軍の幹部三人が命を落とし、組織の弱みも露呈した。ただでさえ協調性も皆無な上に、戦力差さえ圧倒的。普通に考えれば戦が始まって最短三日で千羽が陥落する。「千羽のヌシと白部 響の首を差し出しますから見逃してください」なんて下手に出る方が賢明だ。

『…それに、辰宮と宍戸が逸ったのも失敗ね。白部さんの暗殺未遂なんてやらかしたのだもの、退魔士と妖の共同戦線も上手く行かないでしょ』

 退魔士の女性、羽生 有希が言った。思えばアレも天探女軍の計略だったのだろう。千羽の強みは退魔士と妖の共同戦線だ。それに望みを見出だせない以上、千羽は既に敗北路線に乗っているようなものだ。

「…けれど、簡単には終わりませんから」

 ―白髪の少女は前を向く。七月二日、響の退院予定日。長い一日が、幕を開ける。


「―と言う訳で!白部 響、復活です!」

 おー、と白髪の少女が拍手に包まれる。一年一組の教室に射す朝日が、誇らしげな彼女の笑顔を映えさせて。

「…お帰り、響」

「響ちゃん、もう大丈夫なの?」

「えぇ、バッチリ。凪くんも涼葉さんも、ご迷惑をお掛けしました」

 ―ふふっ。いい子だね、響は―

 気にしなくていいよ、と二人で笑う。正直、響のいない一週間は退屈だった。負傷した僕は基本安静にしていて、涼葉もいつもの活力が抜けていた。二組の佑介は置いておいて、退魔士側もやらかした辰宮と宍戸は一週間の自宅謹慎。水鈴も脱力していた―というより軒並み腑抜けていたような印象がある。…逆鱗に触れられていた為に終始イライラしていた羽生先輩を除いて。

「あ、水鈴が響が休んでる分、ノート取ってくれてたみたいだよ」

「え、いやコレはナギナギが―」

「『水鈴』が描いてくれたんだよね?」

「アッハイソウデシタ」

 うん、これで響が授業に付いていけないという事も無いだろう。何だかノートを手渡す水鈴が震えていたような気はするけれど、特に問題は無いだろう。というか不審な態度を取らないで欲しいんだけど。本当は僕が書いた事バラしたら即刻潰すから。

「水鈴さん、ありがとうございます!」

「いやー、それほどでもー。…ナギナギ、羽生センパイに似てるなぁ…」

「…何か言った?」

「イエナンデモナイデス」

 ―凪、拗らせてるからなぁ…―

(ランは黙ってて)

 水鈴と凪の内に威圧の目を向け、よいしょと自分の席に座る。本当は久方振りの日常を謳歌したいところだが、生憎と課題は山積みだ。まずは、目先の事を解決しなければ。

「…チッ」

 ―そう、宍戸アレを何とかしないと―


 ―キーン、コーン、カーン、コーン―

「気を付け、礼」

「ありがとうございましたー」

 四限目を終え、昼休み。昼食に向けて慌ただしくなる生徒達を横目に、凪と響、涼葉はそそくさと教室を後にする。目指すは屋上、妖達の休息場所。階段を上り、憩いの場へと続く扉を開く。

「…お待たせ、佑介」

「待ってねェから安心しろ。…元気そうだな、姫サン」

「お疲れ様ッス、皆さん」

 凪の声に、佑介は冗談交じりに返す。その横で、橙の髪の少年が笑顔で頭を下げていた。…あれ?あのオレンジ、アヤカシ連盟結成の時に居たけど、まだ名前聞いて無かったような…。

「…あぁ、そういやちゃんと自己紹介してなかったッスね。伊田いだ 千春ちはるイタチの妖ッス。響さんの所で諜報やってるんで、よろしくッス」

「そっか、軍の子か。…僕は黒羽。黒羽 凪だ。それで―」

 言って、瞳を閉じて凪の内の少女と交代する。髪と瞳を翡翠に染めて、嵐の意識を面に出す。思えば、ランが面に出るのは虚空戦線以来だ。

 ―…んーと、厳密にはその後にも…―

「え」

「―私はラン。凪の別人格…みたいなものと考えてくれたら。よろしくね、千春」

 笑顔を見せる翡翠の少女に、千春は信頼を籠めて手を伸ばす。それに応えて手を取る様子に、響はうーんと唸っていた。

「…驚かないんですね、千春さん」

「ん?…あぁ、千春には俺が言ってたからな。味方なら隠す必要も無ェだろ」

 それはそうですけど、と歯切れの悪そうに言う響。確かに、眼前の少年の姿がいきなり変化すれば大抵は驚愕する。普通の妖の変化ならばまだ驚きも少ないが、それでもだ。加えて、ランは凪の内に巣食う少女人格という事実以外は不明の存在。前例も無く、不信感を抱いてもおかしくは無い。

「…まぁ、姫サンの言いたい事は判る。お前んとこの幹部、ついこの前裏切りやがったからな」

「…すみません。凪くんの事は信用してますし…その…」

「響ちゃんは黒羽くんの事好きだもんねー?」

「はい………って涼葉さんっ!?別にそういうのでは…!」

 頬を紅潮させて狼狽える響に意地悪そうな視線を向ける涼葉。そういう話じゃねェと呆れる佑介に、まぁまぁと二人を宥める千春。…うん、平和だ。戦前の一時とはいえ、こう賑やかな休息も大切だ。嗚呼、こんな時間がずっと続けばいいのに。

「違うんですランさん!あぁいえ、凪くんの事は好きですけど、それは友達として仲間としてで、決してカラダを重ねたいとか食物としてとか、そういう意味では無くっ!」

「あーうん。私も凪も判ってる…って今食物て言った!?」

 ―…やかましくなってきたなぁ…―

 心の内ではぁ、と溜息。前言撤回、彼等はもう少し落ち着いてもいいと思う。響が元気になった事は喜ばしいが、それでも、敵は、天探女の軍との戦はすぐそこだ。焦っても何も変わらないとしても、せめて危機感は―

「…凪?」

 ―いや、まさかね―


「…そうか。彼女は息災か」

 同時刻、千羽高校の生徒会室。その最奥にある事務机で、青年は安堵の声を漏らす。

「本当良かったよー。ひびっち…響ちゃん、なんだか明るくなった気がするし」

「…会長。喜ぶのはいいが、顔には出さない方がいい。宍戸ししど寅井とらいあたりは多分怒る」

「判った、善処する。…悪いね、相馬あいま君」

 会長と呼ばれた青年は頭を下げる。視線の先の相馬と呼ばれた黒服は礼を返し、一呼吸置いて言葉を続ける。

「そういえば、羽生は」

「どーせサボりでしょ。マジかったりー」

猿渡さわたり、先輩は君に訊いてないから。…出席はしてるようですが」

「相馬センパイはアンタにも訊いてないんだよ、犬飼いぬかい!」

 言い争う二人の少女に、会長は落ち着けと一喝する。途端、空気がぴりり。しんと静まる生徒会室で、彼はこほんと咳払いした。

「よく聞いてくれ。猿渡君、犬飼君。俺達が戦うのは身内でも、まして千羽の妖でもないんだ。天探女、邪に堕ちた鬼神だ。…妖達と手を取り合わずに勝てるとは、正直思わない」

 固唾をむ一同。多くが良家の出である退魔士であり、実力も十全に持ち合わせているが、それでも彼には逆らわない。人を見る目に優れ、器量とカリスマ性、そして人並み以上の実力を兼ね備えた若き逸材。

「…だから、賭けに打って出る。相馬君、鳥谷君」

「了解。全員に招集を掛ける」

「オッケー!放課後でだいじょーぶ?」

 ―そして何より、人を動かす事に長ける。即ち、『王』の素質を持つ青年。退魔拾弐本家が一つ、根住ねずみ家の次期当主。彼の名は―

「この根住 大吉だいきち、己が全てを賭ける」


 ―キーン、コーン、カーン、コーン―

「気を付け、礼」

「ありがとうございましたー」

 今日の授業を終える挨拶に不安が混じる。理由は二つ。一つはこれから火蓋の切られる戦について。戦争なんてものは生きるか死ぬかだ。矜持として無殺ころさずを謳う凪だが、場合によっては命を奪う必要があるだろう。―否、血に塗れた鴉の矜持など、ただの偽善か。

「とっくに壊れているのに、何が矜持」

 ―………凪。君は―

 それともう一つ。前者を自らを素因とする不安ならば、これは他者を素因とする不安。屋上から戻って来てから、ずっと気に掛かっていた事。

「むぅ…」

「…水鈴。言いたい事あるならはっきり言えば?」

「ひゃいっ!?」

 思わず苛立ち混じりに口にする。―そう、もう一つの理由が彼女、昼休憩を終えてからずっと挙動不審な水鈴。休み時間が始まった途端に何か言いたげに涼葉と響の近くを彷徨うろついて、何も言えずに休み時間を終える。授業を受けている間も何処かそわそわしていて、授業が終わればまた彷徨いて。目障りとか鬱陶しいという感情を通り越して、寧ろ不安になってくる。

「いやいやいや、なんのことだか―」

「―言わなきゃならない事がある。でも口にするのは気が引ける。…そんなとこ?」

「全部筒抜け!?」

 ―いやいや、顔に出てたよ…―

 図星を指されて俯く水鈴。その隙に響と涼葉を呼び寄せ、話があるそうだと彼女の方に注目を向けさせる。観念しろという三人の視線に、水鈴は気不味そうに口を開いた。

「…根住センパイが、君達三人に生徒会室に来て欲しいって。二組の二人には別の子が言ってるけど…」

 そこまで言って、ばつが悪そうにそっぽを向いてしまう水鈴。成程、大体理解した。

「響ちゃん。ここの生徒会って」

「全員退魔士ですよ。ボランティアも学生退魔士の仕事なので」

 だよねー、と涼葉が項垂れる。千羽町では人間と妖が共存しているとはいえ、退魔士との関係は決して良好とは言えない。有希や水鈴のように妖に対して友好的な者の方が少数派だ。やや誇張表現になるが、大体は宍戸のように敵愾心てきがいしんに満ち満ちている。そんなものが何人もいる空間に呼ばれているというのは、気が気でなくなるのは当然と言うべきか。

「―ということで。何なら今から向かいましょうか」

「響ちゃん!?」

 ―いや、こういう肝が座り過ぎたお姫様の前では何も言えないか。涼葉がいくら後ろ向きだからと言って、その反論は大抵黙殺される。そもそも、相手はあの根住―千羽の退魔士を束ねる第一人者だ。響が次代の千羽のヌシとして顔を合わせる必要は、遅かれ早かれあったのだ。―彼女だけでなくて僕や涼葉、佑介と千春まで呼ばれているとなれば、理由というのは何となく解る。

「…ごめんなさい。必要な事…ですから」

 此方に頭を下げる響に、涼葉と共に大丈夫だと慰める。涼葉も頭の中は伽藍堂がらんどうに見えて色々考えている。文句は言えども千羽の良家に連なる者として、響の選択を尊重するのが彼女だ。

 ―酷い言いようだなぁ…―

「まぁ、響ちゃんがいいなら私は別に。水鈴ちゃん、先に行ってて!」

「…うんっ!なるべく牛若うしわかセンパイとか宥めとくねーっ!」

 …え、いるのかあの乳牛聖女。いや生徒会副会長だからいるか。そもそも話すコトがコトだから全員いるか。羽生先輩や水鈴はいいとして、激突馬鹿宍戸 仁は来てたし、多分響を襲ってたあのナルシ太郎辰宮 零もいる。…嗚呼、涼葉の事が言えないくらいには億劫になってきた。

「…屋内戦闘ドンパチやる馬鹿じゃありませんように」

 不甲斐無い。こういう時に頼れるものが、自分の幸運だけなんて。


「…響さん。俺、帰っていいスか」

「諦めろ。テメェも軍属なら腹括れ」

 夕刻四時半、千羽高校生徒会室前。猿渡と犬飼に呼ばれたらしい佑介と千春と合流し、扉の前で立ち尽くす。正直、億劫になっているのが僕と涼葉だけではなかった事には安心した。寧ろ響の落ち着きの方が異様だ。つい先日まで鬱を理由に入院していたとは思えない。否、立場故に慣れているのか。

「それじゃあ、入りますよ」

 重い空気の中、響はコンコンとノック音を鳴らす。一拍置いた「どうぞ」の声を合図に、ガラガラと引戸を開けた。

「失礼します」

 ―改めて、固唾を嚥む。部屋の中には十二人、生徒会員という名目の退魔士が待ち受けていた。生徒会総出でお出迎え、なんて軽口を飲み込む程の威圧感。息苦しい空間で苦笑する水鈴と、船を漕ぐ羽生先輩だけがせめてもの救いか。

 黒服の青年から楽にしてくれ、と来賓用のソファーに座らされる響。今の流れで大体察した。彼等にとって僕等の扱いは『対話すべき妖達』では無く『白部 響とその他四人』だ。妥当と言えば妥当ではあるのだが、それとは別に苛立は募る。あの黒服、機会があれば一発入れたいものだ。

 と、怒りを向けるのはここまでにしよう。来賓用の向かいに座る凛とした青年が、今まさに口を開く。

「…ご足労、感謝するよ。改めて、千羽高校の生徒会長を務める根住 大吉だ。宜しく」

「初めまして。千羽の主の跡取、白部 響です。…先日は、そちらの辰宮さんと宍戸さんに随分と良くしてもらって」

 響の発言に千春が思わず吹き出した。攻めが予想以上に早すぎる。無論、千羽の姫君として暗殺未遂の件は無視出来ないのだが、いくら何でも早速過ぎる。あれか、響は意外と根に持つタイプなのか。

「会長」

「いや、構わないよ。君達を呼んだ理由の一つは、その件についての謝罪だ。…辰宮君、宍戸君」

 根住が振り返り、後ろに控えていた辰宮と宍戸が前に出る。

「…本当にすまない。甘言に乗せられていたとはいえ、あまりに早計だった。この辰宮、必要ならいくらでも頭を下げよう」

「…さーせん」

 成程、公開謝罪とは彼も考えた。流石に謹慎が一週間は短いと思ってはいたが、これなら十分な処罰になるだろう。だが宍戸、お前は駄目だ。何がさーせんだ、お前は僕の腕砕いているんだぞ。…決めた。お前は然るべき時にもう一度潰す。今度は腕も脚も再起不能なくらいに。

 ―凪、顔に出てる出てる―

「あっ」

 ランに心の内から諭され、ふぅと深呼吸。うん、恨むのは良くない。僕の腕は治っているし、あの突進馬鹿は判断能力の欠片も無い雑兵だ。実力でも精神面でも劣っている相手は、うん。どうでもいいや、あんなの。

「…おい、口に出てんぞ鳥頭…!」

「あぁ、ごめんごめん。短気な宍戸君は本当の事言われたらプッツンしちゃうもんね?反省反省っと」

「いい度胸だ!表出ろ!」

「うん、どうぞお一人でー。喫茶アヤカシは喧嘩の売買は承っておりませんのでー」

 嘲るような言葉と裏腹に、翡翠の瞳で冷たく睨む。…駄目だ、今の僕は冷静じゃない。ランに諭されたくらいで、深呼吸をしたところで、この感情は抑えられない。こうして客観的に捉える事は出来ても気持ちが逸るのは、僕が壊れている証拠だろう。

 …だから、その崩壊を伝播させる。他人が培った信頼を、今から、私は。


「やめなさい」

 え、と気の抜けた少年の声。気が付くと視界の上下が反転する。世界が―否、反転したのは僕か。いつの間にか足に絡まった手車ヨーヨーが、半妖の身体を宙に放っていた。

「―痛ッ」

 派手な音を立てて床に激突。それと同時に心を呑む感情が冷め、ふぅと一息。周囲の理解が及ぶより早く『私』を止めた彼女は、眼鏡越しに厳しい視線を向けていた。…それにしても、腹が立つ。本気で屋内戦闘を考えていた馬鹿は、こっちじゃないか。

「…ありがとうございます。落ち着いた」

「…そう、良かった」

 瞬間、蛇眼は優しく微笑んだ。そして脚に絡めた紐を解き、手元にひゅんと手繰り寄せる。周囲は目を白黒させているが、僕には判る。…彼女は、有希はきっと異常に気付いていた。

「猪、お前はいよいよ本格的に白部組と戦争やりたくなったの?私達は協力を申し出る立場よ、次勝手したら縊り殺すから」

 怒気を孕ませて吐き捨てた後、咳払い。…本当に、有希が居て良かった。僕がおかしくなった時、誰かが今を滅茶苦茶にしようと企んだ時。そういったひずみの予兆から、彼女はいつも守ってくれている。

「…あの、先輩?」

「ええ、担当直入に言うわ。…白部 響、千羽の姫よ。探女戦線に置いて、我々退魔士との協力を願いたいのです」

 え、とその場の全員―妖側は勿論、生徒会の退魔士達も絶句する。彼女の発言は、あまりにも唐突だった。文脈も周囲の空気も読まない不意の協力要請を、彼女ははっきりと口にした。

「有希…せめて順序というのをさぁ…」

「…日辻ひつじ、私は前置きとか長話とか嫌いなの。要約出来ない馬鹿の証明でしょう?」

 やれやれと下を向く日辻と呼ばれた青年に、ニヤリと笑みを浮かべる有希。合理的というか、突拍子も無いというか。流れというものを意識しないのは、何とも彼女らしい。

「…羽生君の言う通りだ。勿論、先日の事は許される事では無いし、赦しを貰うつもりもない。その上で、どうか協力して欲しい。根住の家名に免じて、どうか」

 そう言って、真摯に頭を下げる根住。それに続いて、有希と日辻、水鈴が頭を下げる。倣うように全員が頭を向けた時には、響は何処か満足そうな顔をしていた。

「…顔を上げてください。実の所、私も頭を下げるつもりでしたから」

 白雷の姫君の柔らかな声に、根住はゆっくりと顔を上げる。続いて宍戸が顔を上げようとしたが、此方の視線を受けてすぐに頭の位置を戻す。

『…それに、辰宮と宍戸が逸ったのも失敗ね。白部さんの暗殺未遂なんてやらかしたのだもの、退魔士と妖の共同戦線も上手く行かないでしょ』

 ふと、有希の発言が脳裏を過ぎる。嗚呼、ようやく発言の意図が理解出来た。多分、手を組む事自体の発想は妖側にも、退魔士側にもあったのだろう。それが最善手なら、利口なリーダーは必ずそれを選ぶ。

 ―問題は、それを口に出来るかどうかだった。多分、お互いの脳裏には『相手はそれを受け入れない。むしろ溝が深まるだけだ』なんて考えがあったのだと思う。いや、むしろ提案の場さえ用意出来るかどうか。些末な行き違いと言えば否定は出来ないが、現にそうなる手前だったと思う。

 …本当に、有希は凄い。退魔士でありながら妖に近い視点を持つ彼女だからこそ、解決出来た大きな一歩だろう。

「…天探女アメノサグメを迎え討つ為には、我々だけでは力不足です。えぇ、協力が可能なら喜んで。退魔士との協力を拒んでいた幹部もいましたが、残念な事についこの前に殉死致しまして」

 ふふっ、と無邪気に笑う白き獣。…少し、怖い。別に彼等は響の謀略によって暗殺されたという訳では無いし、彼女の笑みの理由は協力可能という事実に対して向けられたものなのだが、『邪魔だから始末しました』と聞こえるのは何故だろう。

「…驚いた。まさか、快諾されるとは思っていなかった」

「はい。私も根住さんから提案されるとは思っていませんでしたし。お互い様、ということで」

 根住はぽかんとした後、はははと爽やかに笑う。…以前に有希から聞いてはいたが、この根住 大吉という男は相当に厄介らしい。何処までもまっすぐで、不屈かつ前向き。思い遣りの心も人望も持ち合わせた、言うなれば勇者的性格。調子が狂う、と嘆いていた彼女の心情が、身に沁みて理解出来てしまった気がする。

「…佑介さん、凪さん。構いませんか」

「俺は構わねェよ。そもそもサグメのヤツをぶっ飛ばすためにここにいるんだ、今更手段は選ばねェ」

「…別にどうでも…」

 そう口にして、四月の事を思い出す。


 確か最初―『私』が目覚めた時の戦闘は、雁木小僧がんぎこぞうとか言う妖が襲って来たから返り討ちにした、というものだ。その後は佑介が襲って来たから応戦。狸の将との戦いは佑介との提案で半ば強引に戦場に立っただけだ。虚空戦線、そこの雑魚宍戸との戦いも応戦。…思えば、戦う理由はあまり無い。

 前提として、千羽の妖全てが戦闘要員では無い。その役割を担うのは白部組―響の父親が率いる任侠組織にに属する妖のごく一部。千羽軍、なんて言えば聞こえはいいが、単純に白部組の組員だ。その中の戦闘要員なんて、せいぜい二百が限界だ。他の妖は非戦闘要員、戦う力を持たない町人ばかり。

 黒羽 凪という半妖は後者だ。夜峰 纏という次代の鴉であれば鴉天狗として町を護る義務が生じるが、残念ながら『纏』と呼ばれた半妖は七年前に死んでいる。喫茶店を根城とする『凪』は、むしろ護られる側なのだ。本来であれば、戦う理由なんてものは無い。

 ―だから、戦わなければいい―

 そう、『凪』には逃げる権利が残っている。仲間を喪って、家族を喪って、それでなお傷を増やすという判断は、馬鹿げている。私は、そう言い切れるのに。

 ―戦ったって、また護れずに失うだけ―

 そもそも、相手は神だ。神を騙っているのか、とも思ったが、実際に面識のある佑介の証言からその可能性は殆ど無い。仮に神で無くとも、それと同等以上の力がある。そんな奴を相手にして、無事でいられる筈が無い。

 ―だから、引き返して。それなら、諦めが付くのに―

 …戦わないと言って、纏。それじゃあ、あまりにも『救いが無い』…!


「…どうでも良くは無いか。僕も戦うんだし」

 自分の弱音ランの本音を無視して、口にした。もう何を言っても無駄なんだ、と黙り込む心の声の先で、鴉の半妖は前を向く。…ごめん、ラン。『わたし』が救われるのは、その後だ。

「―問題は無いよ。僕の邪魔をしないなら、文句は無いさ」

 ―壊れた鴉は、それっきり口を閉ざした。


 意思確認が取れたところで、白雷の姫は『それでは』と立ち上がる。千羽を護る妖達を見送って、根住はぽんと手を鳴らす。

「…お疲れ様、皆。今日はこれで解散だ」

 刹那、教室から緊張感が消える。ぞろぞろと各人が荷物を持って教室を後にする様子を、私はぼーっと眺めていて。

「…嘘」

 冷汗が頬を伝う。久々に、私の顔が恐怖に染まる。何で、皆はそんなに平然としているの。貴方達は、アレを認識しなかったの。アレを見て、正気でいられる筈が無いのに。私だって、正気のフリが精一杯だったのに。

「…有希…?もしかして、何か視えた…?」

 …視えた、というよりは識ってしまった。ふと、以前に日辻の家で遊んだアナログゲームを思い出す。確か、アレにも識ってはいけないモノの設定があったような。

 …いや、違う。幸か不幸か、あの手合では無い。もし正気を削られるような存在ならば、私は多分『戻って』いる。そうでないなら、大丈夫だ。

「…センパイ!羽生センパイっ!」

「―感じたのは、翡翠の妖力。それが感情となって、あの子を呑んだ」

「…センパイ?もしかして…ナギナギの事…?」

 口にして、ようやく自分を襲ったモノを知る。あれは、恐怖だ。以前から認識していて、害は無いと判断して放置していた異物が見せた本質が、私に焦燥を押し付けた。本能であの子を止めていなければ、今頃。

 ―いや、もしもの話はやめておこう。今重要なのは、ここからだ。あの翡翠の妖力―ランを名乗る存在は、纏の感情を喰らって肥大化した。その結果、アレはもう凪の抑えられる領域を離れてしまった。宿主に見切りを付けた寄生生物は、きっと。

「ねぇ、誰かいる!?」

「五分くらいずっといるよー!ボクと日辻センパイとカイチョー以外は出ちゃったけどー…」

「…そう。根住、千羽の診療所、一室開けておいて!日辻と水鈴は付いて来て!」

「…判った。すぐに用意する」

 確認して、日辻と水鈴の手を引っ張る。ええ、と困惑する二人を他所に、蛇巫女は生徒会室を飛び出した。全力を以て床を駆り、急いで凪の元へ急ぐ。

 ―アレが凪の多重人格?違う、アレは感情を喰った害獣だ。そして感情を喰い終われば、いよいよ宿主の心を喰い殺す。

「…待ってなさい。希望を喰らう言霊ことだまよ」


「それでは、また明日!」

「気ィ付けろよ、チビ鴉」

「チビは余計だ馬鹿鬼。響も、また明日」

 朱に染まった帰り道で、笑顔の二人に手を振った。帰路には半妖ただ一人。…思えば、一人の時間はすっかり減ってしまった。喫茶の朝には店主の晴とお客様。学校には響と涼葉がいて、昼休みになれば佑介と合流して昼食を済ませ、夕方は廃倉庫で空と鍛錬。ランはずっと自分の中にいるから、ずっと誰かと一緒にいることになる。

 ―凪、本気?―

「本気って、何が」

 だから、独り言のような会話にも慣れてきた。最初は嫌悪感さえ覚えた心の声には、完全に心を許している。

 ―だって、凪は戦う必要が無い。いや、勝ち目があるならいいんだよ?でも―

「…ああ、それ」

 ランの声に諦観が混じる。嗚呼、そうか。この身体は僕だけの身体じゃなかった。うん、気持ちは判る。けれど―

「結局、僕は壊れているから。やっぱり、救いたいし護りたい。―救える可能性があるのなら、僕は迷わずそっちに向くよ」

 ふふっ、と笑う。…そうだ。救えると、嬉しいんだ。救った人の嬉しそうな顔が、嬉しいんだ。喜怒■■の■■の部分が欠けてしまったからこそ、人の喜んでいる顔を見たい。誰かが死んで■しいとか、誰かと過ごして■しいとかの感情はよく判らないけど。欠けた部分が無くたって、僕はきっと救おうとする。

 ―…ねぇ、凪―

「どうしたの、ラン」

 ―誰かを救うためなら、死んでもいいの?―

 ■しそうなランの声。よく意図が分からないけど、うん、成程。その質問には、笑顔と共に即答出来る。


「勿論。それで、救われるなら」


 ―…そっか』

 ふと、声が心の内から外に出る。視界には、夕陽に染まる凪の背が。

 …そうだ。凪は、纏には救いが無い。救いようが無い。誰かを救おうとしているだけで、自分を救うのは後回し。そんなんじゃ、結局は救われないと気付いている筈なのに。

 ―…私達は、死んでやっと救われる―

 ふと、母が口にした言葉を思い出す。あの父を殺した時に、消え入りそうな声で口にした言葉。その次の日に、母としずく姉さんが首を吊って、母の望んだ救いを迎えた。

 …結局、凪は救えなかったと壊れたけれど。…うん。壊れてしまったんだ。だって、救われた人達を救えなかったと思っているんだから。そんなんじゃ、凪はこれからも、本当の意味で救われない。

『だからね。私が凪を救ってあげる』

 拳の内側で、風が渦巻く。握り締めた拳を緩めると、風が刃の形に変化する。

 ―もう、一人で苦しまないで―

 脳裏に貴方の顔を浮かべながら、ゆっくりと貴方に歩み寄る。そして、その背に風の刃を吸い込ませ―

「…ラン。何で、君は泣いてるの?」

 止まった。凪の声に、止められた。背後の私には気付いていない筈なのに、聞き慣れた声を届かせる。

 ううん、凪には判らない。だって凪には欠けた感情だし、私だって何でこんな感情なのか、よく判らないし。


 ―わかんないよ。私が、哀しい理由なんて。

『………ごめんね、凪』

 ぐさり。臓物が、内で裂ける。


 ―痛い。熱い。吹く風が、身体を裂く。張り巡らせた妖力ようりょくが、無かったように消えていく。わたしのこえが、泣いている。違う、僕は泣いていない。泣いているのは、背を刺したわたし。ちがう。あなたはわたし、くろはね なぎ。黙れ、君は君だ、ラン。僕は僕―で―そして―わたし。だんだん暗くなってきた?だんだん遠くなってきた―遠くなんてあるものか。大丈夫、僕は、わたしは―私は―まだ言ってるの?私は私、黒羽 ラン。私とあなたは同じで、そしてあなたは私になる。安心して―だまれ、はいってくるな―安心してって言ってるでしょ?大丈夫、大切に使ってあげるから。私が慣れ親しんだ、この身体を―やめ―煩い、邪魔。もう私のモノなんだから、早くどけよ。


「………早く、救われてよ!!」


 ぷつりと、あかりがおちる。




 ―千羽高校アヤカシ連盟 一四話 さようなら―

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