一九話 僕は、私は、その果ては
―結局、わたしは護れなかった。
伸ばす腕は届かず、駆ける足も間に合わず、この手で護りたかった尽くは、指の間から零れ落ち。悲鳴と怨嗟の声を受けながら、暗闇の中で涙を流す。
血に塗れる事はどうでも良かった。誰かを殺す事に躊躇いは無かった。ただ、大切な人達を護って、皆で笑って過ごしたかっただけなのに。
何かを護れた訳じゃない。何かを救える訳などない。綺麗事の果てにあるのは、血色に塗れた現実だ。何処かで選択肢を間違えたのか、そもそもそういう運命なのか。…なんて、そんな事を考えるのは綺麗事より馬鹿馬鹿しいか。
『さっさと、救われてよ!』
…残念、ラン。わたしはとっくに救われている。白雷の姫は好意を寄せ、氷華の乙女は友と呼んだ。紅き鬼は背を預け、橙花の獣は信じてくれた。灰の剣士は忠を尽くし、蛇の巫女は寄り添ってくれた。想ってくれる者がこんなにもいるんだ、わたしに意味を見出してくれたんだ。
―そうだ。救われたんだ、救ってくれたんだ。何も出来ない無力なわたしに、前を向く切っ掛けをくれた。だから、今度はわたしが、僕が救う番だ。
「…日辻先輩、そこの倒れてるの拾って逃げた方がいいよ。私も凪も、周りを気遣う余裕は無い」
天気は晴天から曇りに変わり、遠くから雷轟が響き渡る。先行き不安な空の下、言霊の君は冷たく言った。翠のマフラーと黒のコートを嵐に靡かせ、風の刃を携える。臨戦態勢、情けも容赦も其処に無く。レンズ越しに見据える彼女は、嵐の如く荒れ狂う。
…ラン、君が救いを齎すと言うのなら。心の死を以て、『凪』の消失を救いと呼ぶのなら。
「…一応聞くけど、黒羽君。手出しは」
「邪魔。ラン諸共潰してやってもいいんだぞ」
「…だよねぇ」
呆れながら日辻は綿を展開し、医療班の面々及び牛若を包む。ついでに眼鏡も彼に託し、撤退を待って先を見据える。マフラーよし、纏う四肢の爪もよし。準備も覚悟も万端だ。見果てぬ夢を、届かぬ想いを乗せて、風の爪は
「…行くぞ。『
「…『
同時に踏み込む紫と翡翠。見知った顔だからと、自身の半身だからと手加減は無し。
「―『
風の刃を寸前で躱す。言霊の少女も妖力の性質自体は自分と同じ、風や影を喰らえば妖力が一気に持っていかれる。ただでさえ半妖の自分は総妖力量が少ないのだから、掠り傷だろうと致命傷になりかねない。…けれど、それは向こうも同じ。ならば、やるべき事はただ一つ。
「…やられる前に、やるだけだ!」
―振るう爪に風を乗せる。仕留めるならば一撃だ、懐に飛び込んで全身全霊の一撃を叩き込む!
「―『空爪〈
響く暴風の音。妖力を重ねた風の一撃が翡翠の腹を捉え、空高くまで吹き飛ばす。…けれど手応えは無く、翡翠は宙で身体を翻し風刃を向ける。
「…やっぱり。お前、サグメから妖力貰ってるだろ」
「ご名答!無尽の妖力供給、君の力も目じゃないから!」
吐き捨て、刃を振るい鎌風を飛ばす言霊。雨の如く振る斬撃をひらりと躱しながら、空舞う翡翠に爪を向ける。指で銃を作るように、風の爪先に妖力を集中―
―…いや、遠距離には流石に無理か。ただでさえ僕は妖力少ないのに、
文字通り、嵐のような猛攻。名は体を表すとはこの事か、そもそも
「あぁもぉちょこまかと!翼も持たない半妖の癖に、飛べない無力な鴉の癖に!」
苛立つ翡翠の雑言を斬撃と共にひらりと躱し、懐から
「…羽生さんの…!本ッ当に手段選ばないなぁ!」
翼が無いないなら道具を使うまで、届かないならば引き摺り下ろすまで。かの蛇巫女を準えるように、嵐の言霊を地に叩き落とす。
「『
地鳴りを伴う墜落。アスファルトの大地を叩き割る程の一撃、けれど慢心することなく追撃に向かう。サグメによる妖力の供給がある以上、今までの敵のように妖力を消失させて終わり、なんてオチは有り得ない。現に先刻の一撃も効いた素振りさえ見せなかったのだ、その条件での勝利は不可能だと判断する。
―やる事は今までと変わりはない。潰すだけ―
今この時だけは、自分は壊れていて良かったと思ってしまう。見知った顔であろうとも爪を向けられる非情さ、目的の為なら手段を選ばない冷酷性。此処が戦場で相対する者が敵である以上、容赦も温情も枷になる。壊れているわたしなら、そんなものに囚われずに眼前の言霊を殺してやれる。
「…くっ、今のは流石に効いたかな…」
立ち上がる影に素早く詰め寄る。そうだ、喩え不殺を謳おうと、それ以外の択が無いなら話は別だ。君が殺し合いを望むなら、わたしはそれに応えるだけ。今までも、これからも、願いを叶え救う為に。研ぎ続けた風の爪で、翡翠の鴉を切り裂くのだ。
「ラン、これで終わり―」
「………でも、まだ終わってない!『武装纏〈風刃〉』―」
振るう空爪は風刃に受け止められる。右手だけで握った風の剣、それは暴風となって空舞う鴉を地面に叩き落とす。
「…くそっ、逸った…」
「―終わりなのは君だよ、凪。…『
刹那、腹を穿つ黒の棘。ランの影から伸びたその一撃は、温度と共に妖力を枯らす。
「がっ…」
吐く血反吐、遠退く意識。剥がれる纏いし四肢の爪。妖力とは妖の力の源、それが尽きた状態では意識を保つことさえ不可能だ。ヒビ入りのアスファルトに仰向けに倒れたわたしに、翡翠の影が風の首筋に刃を突き付ける。
「…お疲れ様、凪。此処が、君の果てだ」
それは、六月のある夜の出来事。雨天の中、私は凪の身体を勝手に借りて出掛けていた。あくまで凪に憑いているだけで自由気ままに動けない私は、その生活に退屈していた。だから時折、凪の意識が眠っている間に散歩でもして気を紛らわせようとしていたんだ。
『…ねぇ、そこの人―いや、神様かな?散歩の邪魔だから退いて欲しいんだけど』
その時に私はサグメに出遭った。私は凪とおんなじで妖力の感知とかは苦手…というより全くできないけれど、それが神の類であることは何となく判っていた。特有の気配というか、神威というか。そういう雰囲気が彼女にはあった。
『…言霊、か。成程、貴様が山吹が言っていた半妖の』
『もしかして、お前が天探女?なら容赦はしない、今此処で―』
叩き斬る。風の刃を構え、その首を断ち切らんと全力で振るう。…その結果は、今の私を見れば分かるでしょ?私はサグメに敵わなかった。自分の無力を、凪を救えない自分を悔やんだ。君の身体を借りてまで、私は。
―凪。私が勝てなかったサグメに、君が勝てる訳が無い。救いたいと進んだ先は、苦悶に満ちた終わりだけ。だから私はあの時に戦うのかと聞いたのに、君はその道を良しとした。
…嫌だよ。ただでさえ救えない君の果てが絶望と諦観に満ちたものだなんて。私達は死んでやっと救われるのに、その果てさえ救われないのは哀しいよ。…だから。
「…もう苦しまなくていいんだよ、凪。君の果ては、穏やかなものにしてあげる」
頬に雫が落ちる。風の刃を首筋に突き付ける翡翠の鴉は、震えるように声を上げる。壊れたわたしには、涙の理由なんて判らないけれど。
…お前も救われないのは、違うだろ。
「…泣かないで、ラン」
「凪!?もう妖力は空なはずなのに…」
煩い。殺す側がそんなでおちおち意識飛ばしていられるか。殺しを救いとするのなら、せめて送る時くらいは無理にでも笑え。そんなだから、お前は―
「…最期に見送らないのは悪いだろ。…ともかく、殺すなら早くして。痛いのは嫌だからな」
「判ってる。………それじゃあ、さようなら」
襲い来る風の刺突。言霊の君は静かに、覚悟を決めてそれを救おうとする。…そんな彼女だからこそ、思わず口角を上げてしまう。
「…さようならな訳が、あるものか!」
「!?」
瞬時にマフラーに手を掛け引っ張る。同時にランの身体も浮遊するように凪から離れ、宙に投げ出された。困惑する翡翠の少女の足には、絡み付いた紅の布が。
「何これ、マフラー!?いつの間に―」
「こっちに風刃突き付けた時だよバーカ!救うつもりが足元掬われてちゃ世話無いなぁ!」
そしてマフラーを解き、宙の彼女に飛び込んで。妖力が尽きた筈なのに意識があるのはおかしい?それは純粋な妖の話だ、半分人間の僕は妖力尽きても多少は動ける。喩え相手が自分の半身だろうと、勝利の為なら手段を選ぶつもりは無い。
「無駄だよ、妖力無しで通じる訳が―!」
「そんな事はどうでもいい!…『
振るう右ストレートが翡翠を捉える。確かにランの言うとおり、既に妖力は尽きている。けれどその事実は今の僕には関係無い。
『凪は〈纏〉っていう妖力を留めて身に纏う技術が使えた筈。でも、ただ纏うだけじゃ守備面の補助にしかならないから…上級の技なんだよね』
…いつの日か、君は僕に力の使い方を教えてくれた。技術そのものは誰にでも使える簡単なもの、けれどそれも使いよう。ラン、君に無尽の妖力が供給されるなら。
「な、何!?私の妖力が、持ってかれる…!?」
僕は、それを奪ってやる。勝つ為に、越える為に。いつかの『わたし』を冠した力で、僕は君を全力で潰す。
―爪無き爪、夢幻の爪。故に〈無爪〉。夢に想うは果ての先。
「よし、纏えた!重ねて〈空爪〉―!」
「…させるものか!『武装纏〈風刃〉』!」
左の拳に暴風纏い、見据えるべくはわたしの欠片。合わせてランも宙で体勢を立て直し、凶刃を向け妖力を集中させる。互いに互いを殺す為の、最期の一撃に全てを賭ける。
「―『
「『
響く爪と刃の剣戟、一帯に吹き荒れる暴風。互いに引かぬ鍔迫り合い、けれど決着は直ぐそこに。
「いっけえええええええええ!!」
―押し切る爪に霧散する刃。漸く届いたその爪は、言霊の腹を貫いた。
最後に立っていたのは、僕の方だった。ランは突っ伏し、風穴の空いた腹から血を流す。恐らくは身体を実体として保持出来ていたのはサグメからの妖力供給があったからこそ。それが途絶えた今、彼女は文字通り消えてしまいそう。その様は、満身創痍と言うが相応しく。
「…良かった、生きてた」
「どーせすぐ死ぬけどね…。凪…君の勝ちで私の負けだよ…早くトドメを…」
ランの言葉に首を横に振る。…全く。そんなの、気にしなきゃいいのに。この変に割り切れる性格、一体誰に似たんだか。
―ともかく、勝手に消えられては困る。判らない事を判らないままで済ませるのは、些か気分が悪くなる。
「…その前に。一つ、聞きそびれた事がある。ラン、お前の本音だ」
その発言にランはぽかんとする。質問の趣旨が不明瞭だ、という抗議の顔。いや、僕としては結構重要な事なんだけど。半身同士で殺し合ったのに、その辺りの事情は説明して貰わないと後が困るのだ。どうせ戦が終わったら報告書書かなきゃなんだし。
「…本音?あぁ、凪を殺そうとした理由?…言ったでしょ。凪を殺して救いたかった、凪の果てを穏やかなものにしたかった。これでいい?」
「投げやりな答えでいいわけ無いだろ」
思わず苦言を呈してしまう。そもそも理由の方は承知の上だ。身体の主と憑いた言霊、いつ邪魔だと言われてもおかしくはない関係性であったのだ。ランが僕に色々思っていたのは予想しなかった訳では無い。前提として僕が問い詰めたいのはそういう話じゃないし。
「僕が聞きたいのは理由じゃない、本音だって言ってるだろ。限られた選択肢から選んだそれを本音だなんて言うものか。…選択肢がこれしか無かっただとか、不可能だとかの弱音は抜きの。君の心の本音を、僕に聞かせてくれないか」
翡翠の少女を真剣に睨む。問うべきはサグメに負けたからとかいう状況による選択では無く、救うとかいう建前みたいな理由でも無く、心の内に秘したモノ。妥協も諦観も諸々抜きの感情論、それが知りたくて仕方が無かった。
―今までのランの言動は、使命感によるものだったり選択権を奪われた故のものだったりと、自らの本心によるものとは思えなかった。君が目の前にいる今だからこそ、僕は本音を知りたいと思ったのだ。
「恨み節でも夢でも何でもいいよ。君が何を思ってるか、どうしたいかが知りたいんだ」
弱る翡翠の瞳をまっすぐ見据える。ランは口を閉ざしていたが、暫くたって呆れたように腰を上げてくれた。
「…私は、サグメに負けて、凪を救おうとして、その結果がこのザマな訳だけど…。それでも私は、まだ終わりたくない。此処で消えずに立って、サグメに勝って、いつか君と訣れて…。遠い何処かで、纏の欠片でも凪の半身でもない、『ラン』として果てを迎えたい」
その言葉は、胸の内に深く刺さる。彼女の内にあったのは『再起』の念。いつ終わっても構わないと思っていたわたしとは正反対の、尊敬さえ覚えるような不屈の心。それに、ラン本人の未来の願いである自身の確立。満身創痍である今だからこそ、その本音は心に響く。
「…そっか。…ようやく聞けた」
思わず溢れる笑顔。ずっと一緒にいた筈なのに判らなかった胸の内が、やっと僕の心に届いた。喉に引っ掛かった小骨が取れたような、違和感が消えたような爽快感。ようやく、ランと向き合えた気がした。
「…ふふっ、あはは!」
「…何さ。僕は至って真剣だぞ」
「あはは、ごめんごめん。…やっと凪の笑顔が見れたから、嬉しくて。………ねぇ、凪」
「どうしたの、ラン」
彼女の顔を見ながら聞くと、笑顔だったランは頬を膨らませていた。もしや恨み言もあったのだろうか。聞くとも聞きますとも、そういう感情もまた本音だ。抗議くらいは受け付けるとも。
「…凪、トドメ刺す気無いでしょ」
「…嘘、バレてた?」
「…バレバレだよ、『帰っておいで』って顔してるもん。プライドとかお構い無し?」
…どうやら心の内を見透かされていたらしい。気恥ずかしい、今の僕はそんなに緩んでいたのだろうか。本音を言えと迫った手前、抗議をする権利は無いが。
「…本ッ当に甘いよね。…まぁ、こんな私だけど、しばらくはまたよろしく。…もし次があるなら、負けないから―」
その言葉を残し、ランは眼前から姿を消した。身体を保持出来なくなり、再び私の心に憑いたのだ。これで今まで通り…とは呼べない程度に変化、及び改善した二人関係。凪とランの決闘の果てに、僕は、私は一歩踏み出した。
「お帰り。………それと、ありがとう、ラン。わたしの事を想ってくれて」
―あー、凪が素直にお礼言ってるー。かーわーいーいー―
「…別に、可愛くない」
―可愛いって!―
「可愛くないって!…あー、何かいつも通りって感じがするー…」
―…うん、そうだね。…それじゃあ凪、準備が出来たらいくよ―
「…大丈夫。僕は」
―…私は―
「―強いから!―」
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