六月・胎動の梅雨

一一話 マガツトリ

『――鴉天狗の、半妖?』

『うむ。妖力の総量こそ少なかったが、あれは鴉天狗の力であろう』

『成程。私のせがれを懐柔し、虚空さえも引き入れた鴉の半妖。天探女アメノサグメ様の参謀として、無視は出来ませんね』

『ふはは。大江の鬼にそこまで言わせるとは、やはりただの小童ではなかったということか。味方に欲しいくらいじゃ』

『呑気ですね。しかし、黒羽。千羽の鴉天狗と言えば夜峰よみねの鴉ですが』

『そこなのだ。夜峰の鴉は八年前に一族郎党みなごろしに遭っている。唯一生き残った鴉天狗の一家も七年前に何者かによって殺害されている。しかし、あの半妖は間違い無く』

『――判りました。その鴉、私の方でも洗っておきます』

『……ほお、珍しいな。貴様自ら動くとは』

『悪い予感がするのです。その鴉は、きっと』


『災禍を引き起こす、凶鳥マガツトリとなる』


「……へびちっ」

「ふふ、可愛いくしゃみですね」

「……ごめん、響。誰か噂してるのかな」

 私立千羽高校、一年一組の教室で呼気の音が鳴る。その音の主である深紫の髪の少年、黒羽 凪は顔を赤らめながら溜息を溢す。

「お、元気がいいな、黒羽。じゃ、このページ読んでくれ」

「……はい。春はあけぼの――」

 ――凪、私あの教師嫌い――

 からかう教師、凪の心の内で吐き捨てるラン。面倒そうに音読をする凪にふふっと微笑む響。水無月の教室は至って平和。この瞬間こそ代えがたい日常である。

 ――虚空戦線から一月。すっかり平和ボケだね――

 ……そう、日常は代えがたいのだ。

 千羽高校に入学してから二ヶ月が経ったが、この町――千羽町の日常は未だ危機に瀕している。四月の天探女軍奇襲計画に五月の千羽高校急襲―〈虚空戦線〉と呼ばれる戦。短期間で二度も戦闘が生じている事を考えると、千羽壊滅は段々と現実味を帯びてきている。

 無論、千羽側も決して無抵抗では無い。奇襲計画を知った凪と響、涼葉と佑介は四人で天探女軍を撤退に追い込み、虚空戦線の際も学校に居合わせた彼等に加え、有希や水鈴、日辻達生徒会も応戦、無事死傷者無しで戦線を乗り越えた。しかし、またいつ戦闘に巻き込まれるかは判らない。

「――雨など降るもをかし」

「はい、ありがとう。それじゃあ次のページ、宍戸ししど

 音読を終えて凪は着席する。そう、日常は決して代えがたいものなのだ。いつ終わるか判らない日常、ならばそれは目一杯満喫するべきなのだろう。否これは凪自身の持論ではなく、先輩である羽生 有希の受け売りなのだが。

「へびちっ」

「あっ、また」


 栗色の髪の青年、宍戸の音読が終わるタイミングで学校のチャイムが二時限目の終了を告げる。一同が起立、礼をして教師が教室を後にした刹那、凪の机にボンと鈍い音が響く。

「……紫、テメェ」

「あ、宍戸君。人を髪色で呼ぶのは感心しないなぁ」

「るっせぇ。くしゃみくらい我慢しろってんだ」

「生理現象ですので」

 宍戸の猪のように鋭い視線に対し、飄々とした態度であしらう凪。二人の間に漂う険呑な空気に戸惑う響だったが、その理由にはすぐに行き当たった。

「……水鈴さん。もしかして」

「うん、多分出席番号。ナギナギ、シッシー、ひびっちの順番でしょ?あの先生、出席番号順に当てるから」

「……短気がすぎるのでは」

 桃色の髪の少女、水鈴の説明に響は渋い顔を浮かべる。呆れる彼女達を余所に、宍戸は苛立った様子で凪を睨み続ける。

「用は以上でいい?」

「……チッ、これだからあやかしは」

 そして吐き捨てるように教室を後にする青年。そんな彼に手を振り笑顔で見送った凪は、彼の姿が見えなくなった途端に深い溜息を零す。

「……鉄分足りてるのか、アイツ」

「ごめんね、ナギナギ。昔っからああなんだよね」

 頭を下げる水鈴に「気にしないで」と凪は笑う。その二人のやり取りを傍から見ていた響は、凪に負けず劣らずの溜息を吐いていた。

 ――判っているのです。人間と妖は、決して分かり合えないと――


 午前の授業を終え、響は重い足取りで屋上へ向かう。高校入学以降、昼休みは凪と涼葉、佑介と共に屋上で昼食を共にする事が日課になっていた。けれど二時限目の休み時間の一件が脳裏から未だ離れず、気分も足取りも重くなっている。いつもより長く感じた階段を登り終えて扉を開く頃には、彼女の心は満身創痍になっていた。

「……すみません、遅れて、しまって」

「響!?やっぱり気分優れないんじゃ……!」

「……いえ、ご心配無く。少し、風に当たれば」

 心配する凪に作り笑顔を浮かべる響だが、すぐにフェンスに倒れ込むようにもたれ掛かる。本当に大丈夫かと問かける凪に虚勢を張り、ゆっくりと姿勢を直す。

「いえ、本当に大丈夫……の筈なんですけど……」

「無理すんな、響。お前は気負い過ぎなんだよ」

 刹那、今まで口を閉ざしていた佑介が口を開く。その言葉に涼葉と響が驚き固まる中、佑介は変わらぬ調子で淡々と話を続ける

「……鬱病的なアレだろうな。響はここんとこ天探女の対策に追われてたからな。不眠不休で御偉方の責務、それに加えて組織内からの批判も一身で受け続けてりゃ、まァ当然っちゃ当然だわな」

「実は僕も気付いてた。心配になって羽生さんに相談したら、そういう傾向が強いってさ。でも直接口にしたら響が無理するだろうから、僕が支えるべきだって。……結局、護れなかったけど」

 そして凪も申し訳無さそうに言葉を綴る。響は二人の声にそんな事は無い、大丈夫だと反論しようにも声が震え、上手く言葉が発せない。そんな中、涼葉はただ静かに彼女の背を擦る。

「響ちゃん、抱え込むタイプだもんね。でも、時には友達頼っていいんだよ」

「で、でも」

 ……参ったなぁ。

「お前はゆっくり休んでろ。休息も立派な任務だからな」

「あ、あの」

 そんなに優しくされたら、

「……心配しないで、響。僕は、私は響の仲間でしょ?」

「……うぅ」

 ……涙が、止まらないじゃないですか。

「…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「謝らなくていいよ。しばらく、ゆっくり休んでて」


 人間と妖が共に暮らす町、千羽。けれどその在り方は共栄ではなく共存。ただ、共に在るだけである。

 そんな町の妖を束ねる〈千羽のヌシ〉、彼が組長を務める任侠組織の次期跡取り、その肩書きと共に白部 響は生誕した。つまるところの極道の娘である。

 響は幼き時から従者を宛行われ、未来の千羽の主となるよう教育されていた。知を以て千羽の妖を束ね、今の共存関係を保つ事の出来るように。そう幾度も言い聞かされてきた。

 しかしある日、幼き姫君は反抗した。人間と妖は共に在るだけではなく、共に手を取り合って歩むべきだと。即ち、父である千羽の主と違う方針を打ち出したのである。

 無論、物を知らぬ幼き姫君の戯言だと聞き流す者が多数だった。千羽の主もそれは夢物語、退魔士という存在がある以上それは不可能なのだと説得した。けれど白部組の中には彼女の意思を尊重する者もいた。もしその夢物語が現実となればどれほどいいか、そんな淡い希望を幼き姫君は与えたのだ。

 以降、姫君は夢物語を胸に邁進した。彼女の暴走を危惧して千羽の主は彼女の夜間の外出を禁じたが、姫はそれを無視して町へ繰り出していた。町の現状を知り、今を、未来を変えるのだと奔走した。どれだけ厳しい現実に打ちひしがれようと、どれだけ身内からの目線が冷たくなろうとも。人間と妖が真に分かり合える日を目指して、少女は駆け続けた。


 ――結果として、私は倒れてしまったけれど。

 大丈夫、きっとまた立ち上がれる。支えてくれる友達がいるから、私はまた。


 その後、響は早退、病院へ向かった。検査の結果として響はうつ症状に加え、食欲不振による栄養失調が発覚。点滴に加え、大事を取って一週間程入院治療を行う事にしたそうだ。

「入院なんだ、響ちゃん」

「……うつの原因が自宅だって分かった以上、自宅から外来で治療は勧めにくいってお医者さんが判断したらしい。また皆でお見舞い行こっか」

 放課後、帰路の途中にある八十八やそはち公園で凪と涼葉がスマートフォンを見ながら話す。目線の先のトークアプリ『NYAINニャイン』の画面には響との会話履歴。それによると入院先は千羽町にある小さな病院で、町で唯一妖の診察、治療も行っているところであるらしい。凪の帰路とは反対方向だが、そこまで距離も遠くない為に学校の帰りにお見舞いする事も可能だそうだ。

「……えーっと、返信ってどうするんだっけ」

「……黒羽くん、それくらいは覚えようね……」

「仕方無いでしょ、機械とか苦手なんだから」

 愚痴を零しながらたどたどしい手付きで文章を打ち込み、了解の旨を返信する。やっと出来たと草臥くたびれた様子で呟く凪に、涼葉は思わずふふっと笑みを見せた。

「……悪かったね、機械苦手で」

「ううん、そういう事じゃなくってさ。黒羽くんが一生懸命返信してくれた事知ったら、きっと響ちゃん喜ぶだろうなーって」

「……?なんでこのくらいで響が……」

「さぁ?本人に聞いてみたらいいんじゃない?」

 ケラケラと笑う蒼髪の少女に対し呆けた様子で疑問符を浮かべる。むぅと唸るしか出来ない凪の手の中の画面には、既読の文字が追加されていた。


「……これも違う」

 同時刻、夕陽差す千羽高校の図書室で橙花の髪の少年は本棚を漁る。背伸びして高い所の書籍を手に取り、舞うほこりで咳込み。そしてパラパラとページをめくって首を傾げ、また背伸びして元に戻す。彼はそれを三十分程繰り返ししていた。

 伊田 千春、熱を操るイタチの妖。先日の虚空戦線で八面六臂の働きをした彼もまた、響とは入学以前から親交を重ねていた。

 千春は千羽に居を構える妖の組織、その裏事情に非常に詳しく、高校入学前は白部組の諜報部隊として活動、響に協力していた。彼女とは同年代という事もあって愚痴を聴く事も多く、白部組の上層部の腐敗事情についてもある程度理解していた。

 そんな中で起きた響の入院、千春が責任感を感じない筈がなかった。少しでも力になろうと図書室で心理学やセラピー関係の書籍を探し、知識を得ようとしているのだ。

「……これも違う、それも違う」

「……そこの君。そろそろ図書室閉めるわよ」

 捜索に熱中する故、戸締まりに訪れた図書委員の声にも気が付かない。懸命に捜索する彼に委員は溜息を溢し、彼の肩をとんとんと叩く。

「……そろそろ絞めるわよ」

「あ、すみませ――」

 刹那、振り返った千春の動きが文字通り止まる。唐突の出来事に一瞬戸惑いを見せる委員だったが、何かに気付いた様子でそっと瞳を閉じる。すると五秒程して千春がバランスを崩して悲鳴を上げながら倒れ込んだ。

「……ったた……今、何が……って」

「……ごめんなさいね。少し、苛立ってて。てへぺろ」

「てへぺろ、じゃないッスよ!何したんスか、羽生先輩!」

 少年は声を荒げて眼の前の影にに抗議する。そんな彼の橙の瞳の先には、焦茶の髪をロープ状に編んだ蛇眼の女性、羽生 有希が苦笑ながら立っていた。

「……やっぱり、普段から制御用の眼鏡掛けてた方がいいのかしら」

「いや俺の話聞いてます?」

「あ、そうだ、そこの君。宍戸と辰宮たつみや、見てないかしら」

「だーかーらー」

 徹頭徹尾マイペースな調子で会話を続ける有希に千春は思わず天井を仰ぐ。その隙に有希は度無しの眼鏡を着用し、スマートフォンを片手で操作して画像を表示し、

「……本探しなら後日手伝って上げるから。それよりも、この顔に見覚えはあるかしら」

 言いながら画面に映した顔写真を千春へと突きつける。千春はそれをみてうーんと唸った後、何か思い出したように手をポンと叩いた。

「あぁ、その二人なら今日の昼頃に廊下で何か話してたのは見ましたけど、何かあったんスか?」

「……えぇ、少しね」

 千春の答に有希は悟ったような表情を浮かべた後、下を向いて歯噛みする。焦茶の前髪の間から覗く悔しそうな蛇の瞳は、彼女の焦燥を訴えていて。

「……良く分かんないスけど、探すんなら手伝いますよ」

「ありがとう、助かるわ。……その二人、妖に対する敵意が強いから」


 ――人間と妖の共栄など有り得ない。千羽の多くの妖や退魔士がそう考える。無論、それは彼も同じであった。

 退魔士とは本来妖を討つものだ。平和協定が結ばれている千羽であろうと、悪しき妖は退魔士の討伐対象となる。ただし、悪事を働いた退魔士も妖の攻撃対象となるのだが。

 さて、目前の公園に二匹の妖がいる。蒼き髪の少女と紫の髪の中性的な少年。彼等は果たして悪しき妖なのだろうか。もし悪ならば討たねばならない。

「……あれ?あそこにいるのって」

「……宍戸か」

 ――否、考える必要などあるものか。妖とは皆一様に悪である。自分の父は鴉天狗の里へ一族討伐に向かい、そして殺された。そんな奴等が悪でない筈があるものか。討たねばならぬ、祓わねばならぬ。

「……殺さねばならぬ」

 討つべきは目前の凶鳥。全身全霊を以て、奴を殺す。


 同時刻、千羽の小さな診療所。そこの一つの寝台の前に男は立つ。手には身の丈程の太刀、目前には膨らんだ布団。あの布の下で眠る少女を斬る為に、青年は構え鯉口を切る。

 ――その男、名を辰宮 れいと云う。退魔拾弐本家の一つである辰宮家の後継にて、刀の天才とされる青年。その実力は、退魔士屈指の武闘派とされる寅居家当主を越えるとも。

「稲妻の姫、白部 響よ。怨みは無いが、責めて美しく散りたまえ」

 呟き、零は太刀を抜く。そして白き布団へ切先を向け、その白刃を突き立てる。


 ぼふん。


 病室に気の抜けた音が響く。む、と違和感を感じた青年は思い立って布団を思いっきり捲る。すると、何という事だ。そこにいた筈の白毛の妖は忽然と姿を消していた。

 ――まるで、最初からここにいなかったかのように。

「……何故だ」

「おや、乙女の寝台に忍び入るとは、何とも無粋な男よな」

 刹那、声と共に鯉口が鳴る。それと同時に青年の太刀は折れ、部屋の外から影が表れる。

「何奴!」

「む、名乗りか。確かに剣士であれば、それも必要か」

 そして病室に夕陽の朱が差込、声の主の姿がはっきりと映る。

「北条院の刀工の下に、虚空と呼ばれしこの刀身カラダ。しかして私はうつろに非ず、呼ばれし渾名を真名とする――」

 灰の長髪、凛々しい瞳。躯体を紅白の巫女装束に包んだ、若き九十九の戦乙女。口上を唄い、さっと刀を男に向ける。


「銘を〈虚空〉、名をそらと。九十九の剣技、御覧じろ」

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