六話 凪の休日・後

 黒羽 凪とは、正義の味方では無い。

 誰かを護る理由なんて、目の前で誰かが傷付くが嫌だから。大切なモノを失いたくないから行動するだけの、比較的凡庸な理由。物語の英雄は遠くの誰かの手を握れど、凪の手はそんなに大きくない。ただ、手の届く範囲にいたから手を伸ばした。それだけなのに。


「だから、そんなに頭下げられても困るんですって」

「……本当に、君達には感謝してるので。これくらいはさせてください」

 警察署の前で整列し敬礼する警官達。その先には溜息を溢す深紫の髪の少年、黒羽 凪。そして眼鏡を掛けた焦茶の髪と瞳の女性、羽生 有希の姿があった。

 無論、二人は眼前の警官達に感謝を述べられるような事をしていない訳では無い。人質を取って銀行を襲った爆弾魔達、彼等を警察が駆け付ける前に制圧、二十八もの人質を無事解放したのだ。当然なが、二度とそんな無茶をするなと叱責はされたが、それでも大勢の命を救った事に変わりはない。二人は警察側から感謝状の贈呈を提案されたが、そういうのは苦手だと首を横に振る事にした。

「……はぁ、こういう扱いは嫌なんだけどなぁ」

「……先程もお願いした通り、私達が関わったという事はオフレコでお願いしますね。対応とか面倒ですし」

 憂鬱そうな表情の凪を横目に淡々と話す有希。彼女の的確かつ簡潔な応対には警官達も思わず言葉を呑む程で、凪の内の言霊の少女、ランも感心しきりだ。

 ――羽生さん、やっぱり大人だなぁ――

 大人、というよりは慣れているのだと思う。彼女も数多の修羅場を踏んで来た人間、経験は人並以上。そこらの下手な大人より数倍は頼りになる。

「……という訳で、私達はこれで」

「はい、ご協力ありがとうございました。総員、敬礼!」

 整列した警官達に見送られて、二人は警察署を後にする。面倒な事になったわね、と愚痴を溢す有希に苦笑で応える凪。


 そんな二人を、一つの影が見つめていた。


 ――人というのは、酷く脆い。

 多少瘴気を当てれば心の内の衝動に突き動かされ、後先考えずに破滅する。今回は妄想癖こそあるが実行に移せぬという三人組を救う、という名目で瘴気を当て、犯罪行為に走らせた。無論、最初は疑った。そんなものは必要なのかと主に問うた。

 主は言った。千羽を獲る事は正義であると。故に、その過程での犠牲は必要な犠牲であると。即ち、今回の行為も正義の名の元に行われるのだと。

 嗚呼、そうだ。主が正義だというなら正義なのだ。それを疑う資格など、主の所有物たる刃には必要無い。唯、主の望むがままにこの刀身カラダを振るうのみ。

 だから、だからこそ。主の理念を悪と思う事など、私にはあってはならないのだ。

 ――あの二人は斬りたく無いなど、思う資格は私には無いのだ――


 木造の駅舎が夕陽の茜に照らされる。電車から降りた途端、思わず手でひさしを作る程に眩い光は、思った以上に時が過ぎていた事を示していて。

 理由は単純、取調に時間が掛かり過ぎたのだ。比較的規模の大きな爆弾魔の銀行立てこもり、それをうら若き少女二人組が解決したというのだから、それなりの時間を要するのは当然であるが。因みに昼食は取調室で丼飯を馳走になったので念願のレストランはお預けになった。

「……本を買うだけだったのに、大変な事になったわね」

 右から有希の苦笑する声がする。眼鏡のレンズ越しに見える瞳は焦茶。何かを隠しているような濁り色に、ランは少なからず不信感を抱いていた。

「ねぇ、羽生さん」

 刹那、声が喉を通る。有希の眼鏡に反射する凪の髪は深紫。けれど瞳は翡翠に染まっていて。

「何かしら、黒羽君――いえ、違うわね。翡翠の子、とでも呼ぶべきかしら」

 有希に指摘されてはっとする。どうやら、無意識の内にランの人格が表層に出ていたらしい。どう取り繕うべきかと慌てふためくランに、有希はくすりと微笑んで口を開いた。

「大丈夫よ、私も『こっち側』の人間だし。大方は理解出来るから」

「……はぇっ?」

 言葉の意味を飲み込めないランを横目に、有希は眼鏡をそっと外す。

 そこに在ったのは、黄金に輝く蛇の瞳。冷やかで、けれど神秘的で。底の見えない在り方に、ランは思わず冷や汗を流す。

「改めて、私は羽生 有希。他人より眼が怖いだけの、しがない退魔士たいましよ」

 ランの背筋を悪寒が走り、すぐさまホームの向かい側まで飛び退いて距離を取る。今まで無害であった筈のソレが、恐ろしくてたまらない。

 ――ラン、落ち着いて!――

 退魔士、あやかしを知る者なら知らない者はまずいない。魔力という力を持つ人間の総称で、その多くは妖の討伐を生業としている。千羽には互いに危害を加えないという条約こそあるが、八年前に凪の故郷である霊山を襲い、鴉天狗からすてんぐ達をみなごろしにしたのも退魔士の一団だった。ならば、

「……凪、倒していいよね」

 髪を翡翠に染め、右手に風の刃を作り出す。目の前にいるソレは凪の知人などではない。退魔士である以上は敵である。

「あら、随分と嫌われたものね。そんなに退魔士が嫌いかしら」

 一方、有希は面倒そうに溜息を溢す。茜に照らされる焦茶の髪は風に搖れ、蛇の瞳は此方をしっかりと見つめている。その真意は眼光で陰り、ランの恐怖心を更に煽る。

 ――ラン!有希は敵じゃない!あの人は――

 心の内で叫ぶ僕の声も、今のランには届かない。彼女の眼が怖い。知恵が怖い。心が怖い。今まで安心感を醸し出していたそれらが、今は全て恐怖に置き換わっている。怖い怖い怖くて仕方が無い。恐怖を抑える為には、彼女を。

 ――あぁもぉ!『まとい空爪くうそう〉』――

 刹那、ランの腕を痛みが襲う。気付けば左手に纏っていた風の爪が、右腕の手首に突き立てられていた。

「ばか……!落ち着けっての……!」

 凪が声を絞り出す。そうだ、ランはパニックに陥っているだけだ。なら一旦は痛みで干渉して落ち着かせないと、そう判断して爪を突き立てた。

「な……ぎ……?」

 消え入るような声を出して、ランの意識が沈みゆく。はあはあと肩で息をする頃には、髪と瞳の色彩は深紫に戻っていた。

「……有希、ランに何をした」

 蛇の瞳に怒気を向ける。しかし、彼女は寧ろ困惑した様子で口を開いた。

「……別に翡翠の子には何もしてないわよ。魔眼まがんを使った訳でも無いし」

 そこまで言って、有希は駅舎の屋根に視線を移す。同時に凪も理解した。そうだ、確かに有希の瞳は特異だが、過剰に恐怖心を煽る程の異形では無い。ついでに言うと、彼女の魔眼の力はそんなものでは済まない。即ち、

「……ランを狙い撃ちした、瘴気の干渉……?」

「ご名答。ついでに言うと、昼間の爆弾魔にも同じような妖力があったわよ。十中八九は感情の増幅、そんな類でしょうね」

 二人は渋い顔を浮かべる。瘴気というのは霧、ないし気体状の妖力。その殆どが他者に悪影響を与えるものであり、今回の場合は当てられた者の感情を過剰に増幅させるものだと推測される。爆弾魔達はそれらに当てられてほんの僅かだった衝動を増幅され、ランも有希の蛇の瞳に対する驚きを恐怖として増幅、パニックを起こしたのだろう。無論、そんなものが自然発生する訳が無く。

「さて、黒羽君。屋根の上まで飛べる気力はあるかしら」

「……いや、無理。妖力殆ど尽きてる」

「でしょうね。なら私が回収するわ」

 そう言って、有希は鞄から何かを取り出す。金属で出来た円盤状の物体二つを重ね、軸で固定し紐を括り付けた物。手車てぐるま、現代ではヨーヨーと呼称される玩具である。彼女はそれの紐を中指に結び付けた。

「……お願い、有希」

「全く、外では敬語を使いなさいと常々言ってるでしょ。……それじゃ」

 そして手車を屋根へと伸ばす。そして手際良く見えない何かへと紐を巻き付け、それごと素早く手元に回収する。巻きつけたのは紅色に淡く光る水晶のような物。妖力を放っていて、どこからどう見ても人為的に設置された物だと判別出来る。

「……原因はこれね。本当に、くだらない手を」

 有希は紅水晶を手に取ったかと思うと、大きく振り被って地面へと叩き付ける。ぱりん、と盛大に音を上げて砕け散ったそれは、徐々に光と妖力を失っていくのだった。


 凪の久々の休日は、最早休日としての役割を果たす事が出来なかった。それには事件との遭遇や取調での時間消費、それに先程のランに向けられた精神攻撃。様々な悪運が絡んだ結果――で片付けられる訳が無い。

 故に私は断定した。これは、黒羽 凪という個人を狙った物であると。

 爆弾魔との遭遇は偶然では無く必然。凪が事件に遭遇すればそれを解決しようとする。そんな気質を知っていたが為の手口である。

 そして、その気質を知っている人物というのは、実は然程多くは無い。凪と義母である晴、それに私ともう一人が精々だろう。それ以外は尽く他界している筈。となると、考えられる解は一つだけ。


『羽生、お前から電話というのは珍しいな』

「……緊急事態だから仕方無いの。相馬あいま、打ち倒すべき敵の正体が明らかになったわ」

『敵?確か、相手は天探女アメノサグメと聞いていたが』

「ええ、そこは恐らく確定。けれど彼女は黒幕よ。今、千羽を引っ掻き回してるのは別の奴」

『成程、それが明らかになったと。会長や日辻ひつじ達に連絡した方が?』

「えぇ、お願い。それで、早急に打ち倒すべき敵の名前だけど」

『あぁ、宜しく頼む』




「敵の名は『虚空こくう』。刀の九十九神つくもがみよ」

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