第23話 憎悪と願いⅨ
─────────雨の音だ。
窓ガラスに叩きつける、雨の音が部屋に響いている。
どこか薬臭い独特の匂い。僕も嗅いだことがある。
これは、病院の匂いだ。
雨の音がきこえるくらいだから、部屋の中は静かだ。
目の前には白衣を着た男性と女性がいる。医者と看護師だろう。
そして、ベットには、顔に布が掛けられている人が寝ている。
一切動かない。呼吸で胸が上下する様子もない。
布をめくってみた。
─────────そこには、叶さんがいた。
目蓋は閉じられ、ぴくりともしない。
顔全体は真っ白で、血の気の色を感じさせない。
しかし頬の部分は、赤黒い内出血の跡が大きく残っている。
視界が崩れ落ちた。暁人さんは崩れ落ちた。
ベットの端に項垂れ、嗚咽を漏らしながら泣いた。
泣いた。
泣いた。
声は、出なかった─────────
眩しい。
今回はスパンが短いな。
光の中に、視界が溶けていく。
時間が、スキップする。
しかし、視界が戻っても、光景や匂いはあまり変わらなかった。
ここは病院の廊下だろうか。
看護師の後ろをついて歩いている。案内されているようだ。
ある病室の前に辿り着くと、「どうぞ」と中に通された。
そこには、前回より大きくなった知里ちゃんがいた。
ただ、頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、足は固定し吊るされ、右目にはガーゼをしている。
「知里!?─────────知里ッ!!」
名前を呼び、ベットに駆け寄る暁人さん。
知里ちゃんは、微かに目を開けると、暁人さんを認識した。
「おと.......さん.......」
「知里!!聞こえるか?大丈夫か、知里!」
「おと、さん......おか、さん、は......?」
さっきの光景からするに、叶さんは亡くなったのだろう。
一体、叶さんと知里ちゃんに一体何があったというのだろうか。
暁人さんは、知里ちゃんの問いかけに返す言葉が無い。
「おと......さん......?」
「く─────────そっ─────────」
暁人さんの歯軋りの音が聞こえた。片目だけで不安そうな知里ちゃんの表情が、網膜に焼きついた。
─────────また、すぐに視界が反転した。
酷くせっかちな時間旅行だ。
僕は、暁人さんに何が起きたのか、叶さんと知里ちゃんに何が起きたのか、訳もわからないまま飛ばされていく。
気が付くと、薄暗い部屋の中にいた。
テーブルには散乱したビール缶とカップ麺の残骸。
部屋の隅には、女の子のおもちゃらしき、可愛いミニチュアハウスが見える。
テレビ台の横には、暁人さんと叶さん、真ん中に知里ちゃんが並んで写った写真。
どれも長い間手をつけられていないようで、埃を被っている。
叶さんを失い、自暴自棄になってしまったのだろうか。部屋の物全てが、手付かずのまま放置されているようだ。
床には、脱ぎ捨てられたスーツと鞄。
これも、昨日今日に放置されたものでは無いようだ。埃が被っている上に、他の衣服や靴下の下敷きになっている。
暁人さんはしばらく仕事に行っていないのだろうか。
外はどんよりと暗い曇り空。
部屋の電気が付けられていないので、そりゃ暗い。
この部屋は、まるでゴミ屋敷のようだ。
過去の幸せを塗りつぶすように、自暴自棄の心が黒く染め上げていく。
暁人さんは何のために叶さんを守り、何のために知里さんを守ったのか。
今、どんな気持ちで部屋に閉じこもっているのか。
生き残っているはずの知里ちゃんは、一体どうなったのか。
ここからでは、何も観測できない。
すると、どこからか着信音が鳴った。
いつかの着信音よりは複雑な旋律。着メロというやつだろうか。哀愁漂うそのメロディは、テレビ番組の懐メロヒットソングとかで聞いたような気がする。
暁人さんは気だるげに脱ぎ捨てられた衣服の中を漁ると、充電器に繋がった携帯電話を手に取った。
折り畳めるタイプのガラケーだ。小さい頃に見たことがあるかもしれない。
携帯電話を開くと、着信元を確かめることなく通話ボタンを押し、耳に当てた。
「もし、もし」
「もしもし、養子縁組支援サポートのフラワーサポートです。桜井暁人さんのお電話でお間違いありませんでしょうか?」
─────────養子。
「はい、間違いありません」
暁人さんの声はスカスカだ。どれだけ声を発していないんだろう。
元の正義感溢れる、はっきりとした物言いは影を潜めていた。
「よかったです。今回は、あなたのお子さんが無事に里親の元に引き取られた、という連絡のためにお電話させていただきました」
暁人さんは、あんなに大切に思っていた知里ちゃんを養子に出したのか。
どうして、手放してしまったんだ。
「そう、ですか」
「はい。これで、弊サービスの全ての手続きを終了致しました。最後に、お子さんに伝えたいことがあれば承りますが、如何しましょうか?」
「─────────元気で、と。それ、だけです」
「分かりました。必ず、お子さんの元にお伝えしておきます。それでは、ご利用ありがとうございました」
プツッ。ツー。ツー。
通話終了の音が聞こえる。暁人さんは、ゆっくりと、力無く携帯電話を耳から離し、それを閉じた。
瞬間、突風が吹いた。
自分という存在が吹き飛ばされる。いや、どちらかというと引き戻される感覚に近いだろうか。
色も形も言葉で言い表すことのできない、混沌とした空間の中を、理解し難いスピードで吹き飛ばされている。
このままでは摩耗で消え去ってしまう。
空気摩擦は高温の熱となり、僕の存在を溶かしていく。
世界から拒否/拒絶/否定/拷問/切断/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除/排除─────────
消えたく無い。
何で?
消えたく無い。
どうして?
こんな、訳のわからない物語を見せられて、何も知らないまま消えるなんて許されない─────────
やがて、暴風は水流となって僕を押し流した。
先ほどまでの高熱はなくなり、穏やかな水が一方向に向かって流れている。
混沌の景色は徐々に規則性を持ち、世界に秩序が戻ってくる。
本能が、もうすぐ旅の終わりということを伝えてくれる。
僕の意識が、記憶が、形を成して戻ってくる。
最後に、テレビ台に飾ってあった、あの家族3人の写真が見えた─────────
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