第8話 心象溶融Ⅱ

 夏と言うにはまだ早いが、照りつける日差しはじりじりと肌を焼く程だ。草木は力強く緑色の存在感を増し、田舎の田園風景を彩っていく。


 昨日まで続いた雨のせいか、じめっとした空気を感じながら、僕は車の窓を開け、バイト先までアクセルを踏んだ。




 今日は久しぶりに浅田さんとのシフトだった。と言うのも、ここ最近は目の調子が悪く、病院に通っていたようなので、ようやく復調したというところだろう。


 長い休みだったので相当弱っているのかと思いきや、浅田さんは爽やかな笑顔で僕と相対してくれた。


 「おはようございます、深井くん。ごめんね、ここ最近休んじゃって」


 「いえいえ、みんないつも通りだったし大丈夫ですよ!それよりも、浅田さんはもう調子大丈夫なんですか?」


 「私はほら、この通りピンピンしてるよ」


 そう言って浅田さんはくるりと回り、体が元気なことを強調した。僕は「それならよかったです」と、浅田さんの復調を喜んだ。


 ただ、どうしても原因が気になった僕は、深堀って聞いていみることにした。


 「それにしても目の病気って怖いですね。結局原因って何だったんですか?」


 「それがね、お医者さんが言うには、これとって異常が見られないから、原因が分からないって言われたの」


 長期にわたって休むほどの症状だったのに、異常が無いのか......


 「困るよね。原因が分からなかったら治療のしようが無いもの。しまいには、ストレスじゃないか?って言われちゃった」


 そう言って浅田さんは、憂いを帯びた笑みを浮かべる。


 確かに、苦しんでいる状況をストレスで片付けられるのは気に食わない。僕も分かる。


 あと気になることは、その症状がどんなものだったのか。


 「視界にもやがかかったりは、もうしてないんですか?」


 すると、浅田さんは目を丸めてこちらを振り向いた。


 「え、どうしてもやがかかる事を知ってるの?」


 あ、そうか。これは浅田さんから直接聞いたことではない。


 「船橋さんとシフト入ったときに、少し聞いて...」


 「ああ、想太さんからね」


 納得いったようで、少し間をおいてから、恐る恐る教えてくれた。




 「こんなこと言っても信じられないかもしれないけどね」


 「...はい」


 「話してる人が笑ったり怒ったりすると、急に左目の視界に白いもやがかかるの」


 「笑ったり、怒ったり?」


 「そう。他にも悲しそうだったり、逆にとっても楽しそうでもそうなるの。...何でだろうね?」


 何だそれは。それはまるで、人の感情が影響しているようじゃないか。


 原因は浅田さん自身の要因じゃない。しかも、他人の感情の浮き沈みに左右される?そんな病気がこの世にあるのか?


 「だから先生にストレス要因って言われちゃったのかな」


 それは分からない。でも確かに、他人からの外的要因で発症する病気と言ったら精神的なものだろう。もっといえばストレス、と言う言葉がしっくりくる。


 そこで、僕が今一番気になることを聞いてみようと思った。


 「じゃあ、今の僕はどう見えt」


 その矢先。




 ────ぞくり




 と、重苦しい視線を感じた。


 レジの方を見ると、既にお客さんがレジテーブルの上に商品を置きながらこちらを眺めていた。


 なぜかこちらを────いや、浅田さんの方をじっくり観察するように見ている。眼力に相当な威圧を感じる。視線に質量があるかのようだ。


 黒い外套を纏い、髪も黒。外は暑いと言うのに、なぜか手には黒い手袋が見えた。首には、唯一黒色でない、十字架と見られるネックレスが鈍く光っている。




 「え────────」


 浅田さんはその人がこちらを見ているのに気が付くと、怯えたように固まってしまった。


 僕は浅田さんを庇うように、慌ててレジに向かった。


 「お、遅くなり申し訳ありません」


 「......問題ない。JPSをくれ」


 男はそう言って、タバコを要求した。


 JPS。これまた真っ黒なパッケージである。


 「は、はい。こちらでよろしいでしょうか」


 「そうだ」


 男は口数が少なかった。それ以上に気味が悪くて、精算に全く集中できない。僕は震えた手でタバコのバーコードをスキャンした。


 なぜか、妙に左手が熱かった。





 男は精算を済ますと「ありがとう」と一言言い残して、店から出て行く。気味悪いにしては律儀だな、と思った。


 結局、浅田さんに聞きたいことは、タイミングを逃して聞きそびれてしまった。


 ────根拠は無いが、さっきの男との関わりは今日限りではない気がした。





 日が暮れ、店の窓ガラスの外は真っ暗になった。田舎には街灯が少なくて、夜になると星がきれいに見える。


 夜勤との交代の時間になり、僕と浅田さんは名札のバーコードをスキャンして退勤した。


 そういえば、と、船橋さんと先日シフトに入ったときのことを思い出し、帰り際に浅田さんに声をかけてみる。


 「浅田さんは、船橋さんのことをどう思っているんですか?」


 「ど、どうしたの突然」


 「いや、ちょっと気になっただけです。無理だったら答えてもらわなくても良いですよ」


強制するのは良く無いと思い、逃げ道を作った。しかし浅田さんは、少しおどおどしながらも、真摯にに答えてくれた。


 「...想太さんのことは、いい人だと思ってるよ。」


 「いい人、ですか」


 「うん、無口だけど、私のことを結構気遣ってくれるし、シフトが一緒にいる時はすごく優しくしてくれる」


 どこか、歌うような口調で、浅田さんは自分の想いを口にする。


 「浅田さんも、人への気遣いとか凄く出来てて素敵だと思いますよ」


 「そう言ってもらえて嬉しいよ。でも、想太さんは私に対して特別優しく接してくれてるから」


 特別、か。一見ポーカーフェイスな船橋さんも、案外分かりやすい行動をしてたのかな。


 まあ、人を好きになるということは、そういうことなのかもしれない。




 一通り浅田さんの心持ちを聞いてから、そこまで教えてくれた事に対して理由を聞いてみた。


 「どうして教えてくれたんですか?」


 「え、ああ、うん。それはね────」


 浅田さんは凄く言いづらそうな表情をする。でも決心が着いたようで、一呼吸置いてから話してくれた。


 「目がおかしくなってから、視界に白いもやがかかるようになったって言ったじゃない?実はね、その白いもやがかかるタイミングで、人の気持ちが鮮明に伝わってくるようになったの」



 ────人の、気持ち。


 僕は以前、浅田さんの目に魅了されて異常を感じた時のことを思い出した。



 「今までも人の気持ちを分かるのが上手いな、と自分自身でふんわり思ってたんだけど、そんなレベルじゃないくらい分かるようになってきちゃったの」


 「気持ちが、分かる...?」


 「そう。それで、深井くんが私をすごく心配してくれている事とか、真っ直ぐな心が伝わってきて、嘘ついちゃいけないな、って」


 「それは、僕の気持ちが、思っていることが分かるってことですか?」


 「ええ、気持ち悪いって思われるかもしれないから、言い出しにくかったんだけどね」


 そんなことは無いと、僕は深くかぶりを振る。すると、強張っていた浅田さんの顔つきが、ホッとした柔らかいものに変わったことが読み取れた。


 ただ、どのように気持ちが伝わっているのかは聞いておきたかったので、率直に尋ねてみた。


 「どんな風に気持ちがわかるんですか?」


 「うーん、なんか左目の視界がもやっとした瞬間に、脳味噌に直接伝わってくる感じ、かな」



 ────全く分からない。



 「だからさっきの話、実は想太さんの想いも薄々気づいてはいるんだ」


 「なるほど、そうなんですね...」


 確かに、気持ちが分かるなら、一緒にいたら好きかどうかも伝わるはずだ。今の話が本当なのであれば。


 「それが想太さんには凄く悪いな、って思ってる。なんか、想いを踏みにじっちゃってる感じがして」


 「...浅田さんは真面目ですね」


 浅田さんはかぶりを振って否定した。


 「そんなことないよ、全然」


 そう言うと、お互いに会話が途切れた。時間も遅かったので帰ることにしたが、浅田さんは最後にこんな言葉を残していった。 


 ────だからこそ、応じられれば答えを出す覚悟は出来てるよ





 僕は「好き」という気持ちがどんなものか分からない。


 人への好意が、どんな種類でどんな強さなら「好き」なのかが定義出来ない。


 それでも浅田さんや船橋さんは、自分の気持ちに対して真摯に向き合っているようだった。


 それなら、浅田さんが特別真面目とわけではなく、僕だけが不真面目ということになるのではないだろうか────

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