2章 心象溶融
第7話 心象溶融Ⅰ
人を想う気持ちの中の一つに「恋心」がある。人によってはその中に、親しみ、尊敬、嫉妬、独占欲、奉仕欲、庇護欲、そんな心情が含まれていると思う。
僕は物心ついてから「好き」という感情の定義ができなかった。自分に湧き上がるどんな気持ちがそれに当たるのか、ずっと掴めずにいる。
そりゃ男だから可愛い女の子には性欲が湧く。ドキドキする。
────それは「好き」なのか?ただ下心を恋心と思い違えているだけではないか?
じゃあ周りの好き合ったり付き合ったりしている人たちは、どんな感情を抱いて「好き」と判定したのだろうか?
考えても考えても、答えは出なかった。
人を好きになれなかった僕は、先行して「あの人のことが好き」と自分に自己暗示することによって、分からなかった感情を誤魔化した。
作り物の感情。偽りの恋心。ニセモノのスキ。
1年前の彼女には、それが伝わっていたんだろうか────
今日は外が暗い。17時だというのに、もう日の明かりは薄く、田舎の街に暗い影を落とす。
空はどんよりとした雲に覆われ、大粒の雨がコンビニエンスストアの大きい窓ガラスに降り注いでいた。
今日のシフトは船橋さん。なんか、この人とシフトが当たる度に雨が降っている気がする。
「船橋さんって、雨男なんですか?」
「...割と失礼だな。まあ、良く言われる。」
「でも雰囲気に合ってていいと思いますよ。船橋さんクールですし」
そう言うと、船橋さんは照れたようで、僕から顔を背けてしまった。
「明るい性格の人が羨ましいんだけどな、俺は。ほら、日奈多ちゃんとか、...知里ちゃんとか。見てると、そう思う」
なぜか浅田さんの名前を出す際に、若干の言い淀みを感じた。
「それは僕も同感です。こう、青春!してる感じがして、羨ましいです」
「そうだよなあ...」
そう物思いにふけると、船橋さんも僕も、何も考えずに窓ガラスの外を眺めていた。
平日の夕方だが、雨が降っているお陰か店内にお客さんはいない。
しとしと。
しとしと。
雨は、窓ガラスに沿って線を描きながら、重力にしたがって地面に流れていく。
沈黙に耐えれなくなった頃、僕は思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、確か今日は元々浅田さんのシフトでしたよね。浅田さんなんかあったんですかね」
「ああ、目の調子が悪いみたいで病院行ってるみたいだ。」
「あー、前いっしょにシフト入った時に聞きました。目が悪くて、コンタクトしてるんですよね」
「そうだ。ただ、今までは視力が悪いだけだったけど、最近になって違う症状が出ているらしい」
......違う、症状?
「浅田さんに何か聞いたんですか?」
「俺に話をしてくれた時には、たまに視界にもやがかかる、って言ってたな」
「もや、ですか。白内障とかなんですかね」
「さあ、今日の検査で判るんじゃないか」
「それもそうですね」
船橋さんの顔色を伺いながら会話していて、気づいたことがある。
船橋さんは一見クールな面構えをしているが、浅田さんの話題になると、感情の色が濃く出るような気がする。
それも、ふと見ただけでは気づかないくらい希薄な変化だが。
「船橋さんは、浅田さんのことが心配なんですか?」
「はっ!?」
船橋さんらしからぬ焦った表情が見えて、ちょっとS心が湧いた。
「...な、なんでそう思ったんだよ」
「いや、船橋さん、浅田さんの話をしている時だけ表情がちょっと変だったから」
「変ってなんだよ、変って」
船橋さんはすこーし顰めっ面をしながらそわそうわしている。うん、とても船橋さんらしからぬ百面相だ。
にしし、と笑いながら、船橋さんの様子を眺めていると、バツが悪そうに、僕に真意を打ち明けた。
「...好きなんだよ、知里ちゃんのこと。だから体調がすぐれないとか、そんなこと聞いたら気になるに決まってるだろ」
────好き、か。
僕は船橋さんの素直な告白に心底感心していた。
(真っ直ぐでいいなあ......)
自分では理解できていない感情を吐露されて、僕はどんな言葉を返したらいいか分からなくなった。
「そ、そうなんですか。知らなかったです」
「そりゃ知らないだろう、言ってないんだし」
ですよねー。
そこで僕は、今、一番聞きたい気になることを質問した。いや、考えるより先に口が動いていた。
「本人に告白、とかは...?」
「今度シフトがいっしょになった時、伝えるつもりだ」
......言葉に力が籠っている。船橋さんは意を決したのか、どこか誇らしげだった。
「ちなみに、どうして好きになったんですか?」
「い、いいだろそんなこと...」
照れている。割と本気で聞かれることを嫌がっている様子だったので、これ以上の追求は止めることにした。
それでも退勤後、帰り際に船橋さんが話してくれた。
「俺は知里ちゃんの気が効く所に惹かれたんだ。仕事をしている時に、俺の感情がわかっているかのように声をかけてくれる。そのくらい、自分を見てくれるって感じがしたんだ。そんなことをされて、好きにならないという方が無理な話だ。自惚れているだけかもしれないけどな」
「確かに、それは分かりますねー」
僕は同意の反応を返した。好き、ではないが、同じようなことを僕も浅田さんから感じている。
────すると突然、船橋さんの雰囲気が一変した。
「...深井も同じことを思ってるのか。知里ちゃんにどんなことをしてもらったんだ?」
船橋さんの目に嫉妬の色が滲んでいた。それは、煮えたぎるような激情。
僕は船橋さんと目が合っている。視線は交わっている。それはいつものことだ。話している時に相手の目を見るなんてことは、当たり前のことだ。
それでもこの視線には耐えられない。いや、これはもはや視線ではない。視線とは思えない熱量を孕んでいる。
あつい。
あつい。
1000℃の熱が、角膜を、網膜を、視神経を通って脳に伝わる。
あつい。
あつい。
とける────
異常を感じ取った僕は、慌てて取り繕った。
「あー、でも僕は新人なりに分からないことを丁寧に教えてもらった、って感じですよ。そんな特別なことはないです」
「そうか...」
船橋さんは、絞り出すような、息苦しそうな声色で反応した。
それっきり、お互いしばらく口を開かなかった。徐々に、強い感情を孕む視線が和らいでいることが感じられた。
場の雰囲気が気まずくなったし、これ以上話すことも無くなったので、僕は車のキーを取り出して、車を解錠した。
「じ、じゃあ、今日はお疲れ様でした。また」
「お疲れ、またな」
そうして、僕たちは解散した。
────船橋さんの目から感じた激情。熱い瞳。燃え盛り、溶け出す心。
それが恋心だとしたら、それはいかに危ういものなのだろうか......
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