潮風は強すぎる

かおるこ

潮風は強すぎる

二〇一九の秋、私は夢を見た。関東新人、三千メートル競走の決勝だ。適度な緊張は身体によいとは言うが、これは適度ではない。自分の耳にもうるさいぐらい、鼓動が全身に響く。でも、誰も私に期待はしていないという、心の余裕があった。失うものは何もない。私は挑戦者だ。

パンと大きな号砲の音が鳴った。鳴った瞬間、緊張はすっと消える。あとは、やってきたことを信じるだけ。

 その日は調子が良くて、全国常連の選手たちにも怯まずについていった。しかし、後一周半を残したところで、ピキンと右足に激痛が走った。肉離れだ。さっきまでマグマのように活発に動いた足が、動かなくなった。自分がいたはずの集団は、一瞬にして遠のいていった。

何の実績もない地元の県立高校から、何の実績もなかった私がここまで来られたのは、葉山高校に赴任してきた大橋先生の圧倒的な指導力と、一緒に練習をしてきた大好きな部員のおかげだ。だからこそ答えたかったんだ。悔しさがこみ上げて一粒の雫に変わる。

「貴重な経験だったな。悔しい経験を高二の今にできたことは、最高の収穫だよ。君はそれを次の夏に活かせる。」

帰りのミーティングで、先生はみんなの前で私にそう言った。私をここまで連れてきてくれた大橋先生が、太陽のような言葉をかけてくれた。

「はい。」震えながら、でも大きな声で返事をした。

「二〇二〇年の夏には日本にオリンピックも来る。スポーツ界全体がすさまじい盛り上がりを見せるだろう。その時に君は全国の舞台に立っている。日本が作るスポーツの大きな波の、一部になっているんだ。」


しかし、二〇二〇年の夏は、まだ夏が来る前に終わったのだった。

世界中で新型の感染症が流行している。日本でも、感染者や死者が日々増加していた。命を奪う可能性のある危険な病気の拡大を防ぐべく、世の中のありとあらゆるイベントが中止になった。インターハイも、例外ではなかった。

インターハイは、私の親が生まれた一九六七年から始まって、去年まで一度も中止になったことはなかったそうだ。最後の夏が無いなんて、だれが想像しただろうか。どうしようもないのにどうにかしたい。やり場のない怒りがこみ上げる。

気の抜けた炭酸のようになった私は、毎日何をするでもなく、ぼうっとしている。リビングにいると、家族が私を気遣って隣に座ってきたりおやつを差し出したりしてくれる。余計なお世話、と言いたくなる気持ちもどこかにはあった。


そんな中、大橋先生から電話がかかってきた。もちろん、私を気遣うためだろう。

「三年生には一人ずつ電話をするつもりだ。でも君が一番心配なんだ。去年の悔しさは誰よりも大きいだろうからな。」

「わざわざありがとうございます。」

「片瀬、陸上やめんなよ。」

「え?あー、今は、あんまり続けることは考えていません。あと、母は多分賛成しません。大学で陸上部に入るとなると、勉強の方はひとつも成果を出さずに終わってしまうんじゃないかって。そうすると将来がなんとかって。」

「ここで陸上をやめてしまったら、君の挫折は、挫折で終わってしまう。僕はそれが本当に辛いんだ。あんなにパワフルに練習していた君が、こんな形で陸上から離れていってほしくないんだ。」

「そう言ってもらえると嬉しいです。それに、中学の時は県大会ですら結果を残していない私が、インハイを目指せるようになるなんて、夢にも思わなかったことです。ここまで私を連れてきてくれたのは、他でもない大橋先生です。本当にありがとうございました。」

「まるでもう引退するみたいじゃないか。やめてくれ。君や他の生徒が陸上という希望を失って、寂しそうに過ごしていたら、顧問の僕は辛いんだよ。顧問の僕が辛い顔をしていたら、僕が持つ生徒も悲しい気持ちになる。そうやって繋がっていくんだよ。君はどうか、自分を押し殺さないで。大好きな陸上をやっていてほしい。」

希望を失うんじゃない、そういう言葉を繰り返していた。

どうして、どうしてこんな目に合わなければいけないのだろうか。弱かった中学時代も、走ることだけは誰よりも愛しているつもりで、やめることもできなかった。その結果、大橋先生との巡り合わせもあり、今まで走り続けたことが花を咲かせようとしていた。普通の県立高校で普通の私が、インハイの切符がつかめそうだったんだ。全力でやってダメなら仕方ないけれど、全力でやる機会すら与えられないとは、どういうことだ。私、何か悪いことでもしたか。

 いてもたってもいられなくなって、ジャージに着替えてシューズを履き、外へ飛び出した。坂をまっすぐと下っていく。路肩の猫は勢いよく迫る人影にびっくりして、脇道へ逃げていく。友達と喧嘩した時も、成績が悪くて親に怒られた時も、こうしてあてもなく走ったものだ。今日はどこまで走っても走り足りなそうだ。

海沿いの道路に出てひたすらまっすぐ走る。霞んだ空から海へと優しい光を広げる夕日を見つめる。ステイホーム、ずっと家にいたから、五月が美しい季節だったことを忘れていたんだ。この浜での練習は、足を取られるから本当にハードだった。でも、葉山のきれいな海と、このでっかい富士山を見ながら練習した日を思い出すと、汗すら美しかったように思えてくる。今は一つ思い出すたびに、ため息が出る。

春の潮風はとても強くて、思うように走れない。道の反対側で自転車に乗るおばさんも、この手強い潮風に悩まされている。よく見ると、理紗子ちゃんのお母さんだ。理紗子ちゃんとは、小さいころ毎日のように鬼ごっこをして遊んでいた仲だ。私が走ることを好きになったきっかけでもある。

「お久しぶりです。」

道を挟んで話しかけた。ウイルスの影響で、何気ない立ち話も控えなくてはならなかった。

「葵ちゃん?久しぶり!」

「お買い物ですか?」

家族としか話さない毎日に、久しぶりに人に会えてうれしかった。

「ううん!デリバリー!」

「デリバリー?」

いよいよこの距離ではさすがに話せなくなり、向こうの道へ渡った。

「うちの定食屋、ウイルスの影響で閉めなきゃいけなくなって。でも、そうすると収入ゼロになるのよ。理紗子の学費だってあるし、細々とでも食べていかなきゃでね。お弁当作ってテイクアウトも始めてみようと思って。葉山にはお年寄りが多いから、デリバリーも。これは近所だから自転車で行くけど、車も使ったりしてる。」

「なるほど。」

「インスタグラムとかツイッター使って広めたりはしているんだけど、お年寄りが多い町には、あまり届かないのよね、こういうのって。」

たしかにこの町は高齢者が多い。観光客からの需要がなくなった今、矢野食堂のターゲットは葉山の町の人のみだが、なかなか情報を届けることができない。

「私が走って言いに行きます!矢野食堂、お弁当お届けしますって、この町の色んな所に言いに行きます!」

このウイルスは、私の大事なものを奪おうとしている。それが私の大事なもの限った話ではないということは、気づいているようで気づいていなかった。

「宣伝してくれるの?」

「走ってないと心が休まらないんです。どうせなら、お役に立たせて下さい。」

翌日、11時に家を出た。

「森戸海岸の矢野食堂で、お弁当売ってます。配達もできます。」

陸上部の応援用メガホンを持って、大きな声で宣伝する。目指すは、人間版焼き芋カーだ。本当は一人一人に会ってお伝えしたいのだが、それが許されない状況下ではこうするしかない。

「あのお、すいません。」

 一人のおばあさんが、玄関から出てきた。

「はい。」

「お弁当、二つくださいな。最近は外食にも行けないから、こういうの助かるのよね。」

よくよく考えれば、焼き芋カーは移動販売だが、私はただの移動宣伝だ。

「あれ、お弁当ないの?」

何も持っていない私を見て、おばあさんは困ったような顔をする。

「はい。あ、でも、ここで注文受けますよ。ここにお弁当を届けに行きます!」

そういうと、スマホでメニューを見せた。が、おばあさんにはよく見えなかったので、全て読み上げて、説明をした。

「そうしたら、肉野菜炒め弁当を二つちょうだい。」

「はい、少々お待ちください。」

勝手なことをしてしまったが、目の前のお客さんは逃せない。急いで矢野食堂に電話する。

「もしもし、葵です。今から肉野菜炒め弁当二つ、図書館の近くまで届けられますか?」

「え?」

「注文が入ったんです。今から住所言うので、そこにお弁当二つ、届けられますか?」

「あ、うん。」

多少戸惑ってはいたが、私の言うとおりに住所をメモしてくれた。

「今からお作りします。ここに持ってくるまで、20分ほどかかりますが、よろしいですか?」

「今から作るの?」

「はい、出来立てをお持ちしたいんです。」付け焼き刃の言い訳だったが、よく考えればそうだ。イートインの時ように、出来立てを食べられた方が美味しいに決まっている。

 おばあさんは、まあ、と言って内へはいっていった。

 その後も、二時間で私は九件ほど注文を受けた。学校が休校になり子どもが毎日家にいるせいで、ご飯を作るのが疲れたお母さんは多い。ウイルスの影響は関係なく、買い物に行くのがおっくうな高齢者もいた。もちろん、お店を開いていたころよりは注文は少ないのだが、私が走ったからだいぶ増えたと言って喜んでくれた。

 葉山の海は飲食店がたくさんある。ウイルスが蔓延する今、その飲食店たちは危機に立たされている。葉山には高齢者が多い。高齢者にとって特に危険なこのウイルスは、彼らを恐怖に陥れている。今はいったん、いったん周りのことも、考えてみる。私がこの後、陸上に対してどう向き合うかは、また今度考える。こんなに心が裂けそうになって初めて、この町と、身近な人に少しだけ寄り添えた気がした。私が支えた誰かが、誰かを支えて、そうやって繋がっていけば、いつかまた自分を、励ましてくれるかもしれない。

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