第8話 8
「いつからこのような様子だったのだ?」
詰め寄るルエキラに侍女のマナは顔色を失っていた。
……翌日の朝の礼拝が終了してすぐにルエキラはテアの部屋に向かった。あまり時間をおいてしまったら逆に気まずかろうと思ったのだ。昨夜のことは、どう考えてもただの八つ当りで、不当にテアを傷付けたことになるのだ。
そして、いつもなら遅い朝食をとっているはずのテアは、寝台に半身を起こしているとはいえまばたきひとつせずに壁を凝視していたのだ。
「朝からです。いつものように身支度に伺ったときから……寝起きはご機嫌がすぐれないので私にお声をお掛けになることもまれでございますし」
青ざめながらも、マナは必死にルエキラに説明した。あまり責めてもしょうがないだろう。まだマナは幼いのだ。気難しいテアにつかえるのがやっとだろう。そうルエキラは気持ちを落ち着かせながら考えた。
昨夜からろくにこの体に帰っていないとしたら……長時間体を留守にすることの危うさをルエキラは薄々ながら感じとっていた。先程からとっているテアの脈は間遠くなっている。体も冷たく、硬直し始めているようだ。
「薬湯を、御殿医殿から頂いているだろう。できるだけ熱くして持ってきてくれ。それから療治寮のアサフ教授を至急呼んできてくれ」
マナは頷くと素早く立ち去った。
こんな時はどうすればよいのだろうか。魂を呼び戻す法をルエキラは知らなかった。なにより、この空いた体を狙って奴も動き出すかもしれない。結界を張らなければならないが、呪具のひとつも持ち合わせていない。
ルエキラはいつも用心していたはずだ。テアに悪霊が近付かないように体調や感情の浮き沈みに。うかつにもそれを狂わせたのはほかならぬルエキラ自身だ。
テアの手を握りしめなすべきことの手順を必死に探っているそのとき、荒々しく部屋に踏み込んでくる足音が聞こえた。
「扉も開け放したままではないか、誰もいないのか?」
紛れもない、王の声だった。一瞬気がそがれ間の悪さにルエキラは舌打ちしながら、となりの部屋を伺い見た。とにかくこの状況をとり繕わなくてはならない。
「テア、おらぬのか!」
鋭く問いただす声に反応するようにテアの指が微かに震えた。
「ただいま参ります」
テアは唇から言葉を発し、うわがけを跳ね上げ軽い身のこなしで寝台から降りた。自由になったテアと入れ違うように、ルエキラの体は金縛りになった。
ルエキラは目を見張ることしか出来なかった。テアの瞳は怪しげに輝き、あきらかにいつもの彼女とは別の人格が宿ったように思われた。
「いつも邪魔ばかりしておったな。けれど、今日ばかりはそなたに礼をのべようぞ」
肩掛けをはおり、冷汗を流すルエキラに勝ち誇ったような笑みをひとつくれると、悠々とテアは立ち去った。背中で扉の閉まる音を聞きながら、ルエキラは必死に聖句を唱えていた。
指一本だけでいい。動かすことができれば戒めは簡単に解けるはずだ。となりの部屋からはとぎれとぎれに王とテアの会話が聞こえる。このままでは王は危険だ。あれはテアではない。この部屋にいた奴だ。
体に絡み付く黒い鎖が見えた。ルエキラは息を止め気合のもとその鎖を断ち切った。額にうっすら汗が浮いたが、体は逆に凍えたように小刻みに震える。
扉に手をかけたルエキラはそこが魔術的なもので封じられていることがすぐに分かった。多少のことではびくともしないだろう。さらに強力な魔術でこれを打ち破らなくてはならない。
けれど今のルエキラには符呪の一枚もない。役に立ちそうなものは何ひとつないように思われた。清めに使える塩や聖水、力を引き出すための宝石すら見当たらない。こんなときは本しかない殺風景なテアの部屋の調度が恨めしくなる。しかし、ルエキラはひとつの方法に思い至った。書物ならいくらでもある。特に神殿のものは。
ルエキラは本の山の中から経典を抜き取ると扉の前にうやうやしく置き、一歩下がり神経を集中させた。隣室からはなにやら言い争うような鋭い声や、物がこわれる音が聞こえてくるが耳を貸してはいられない。
「貴き名を持つ父なるラバァタ神の写し身よ、言魂の御力よ。よこしまなるものを打ち砕く力を我に与えたまえ」
見えざるものの存在をルエキラは瞼の裏にはっきりと感じとることができた。腕をゆっくりと前にのばし書物の中から立ち上がりつつあるものを一気に引き上げ解き放った。
一陣の風と共に無数の光の玉が書物から噴き出し、いっせいに扉をたたいた。すざまじい音をたて扉が砕けルエキラが命じるより早く、光りは王に短剣を振りかざしていたテア目指して一直線に走る。
光は矢のようにテアの胸を貫いた。テアは叫び声をあげながら数歩よろめきルエキラに恨みの言葉をはいた。
光より一歩遅く部屋に踏みこんだルエキラはテアの体にいまだ宿る邪悪なものにむけて更に印を切り呪言を唱えた。テアの体にはくすぶるように光がまとわりつきルエキラの呪言をさらに増幅させる。
聖句を唱えながら見ると豪奢な絨毯を血で染めた王がそこにいた。胸や喉から血を流し蒼白の顔をルエキラに向け助けを求めるように手が宙を泳ぐ。
テアの髪は黄金色に輝きながら逆立ち、生き物のようにうねる。いつのまにか緑色に変わった瞳でルエキラを睨み据えた。ルエキラはその気迫に飲み込まれぬよう肝に銘じた。
姿に惑わされてはいけない。いまここにいるのはテアではなく、邪悪なものだ、と。ルエキラは床に投げ出された王の剣を取った。とたんに剣の今までの殺戮の記憶がなだれこみ、ルエキラをひるませた。王家伝来の刀だ。奪った命の数は生半可なものではない。刀身も柄も負の力を纏い、なかば命が宿っているように手の中でうごめいたが、ルエキラは自分の霊気を流しこむことでそれを制圧した。見る間に刀身が青白い光りに包まれる。
剣を向けられるとテアは悲しげに顔を歪ませた。
「そなたまでもそれで私を切るのか……」
「テアに害をおよぼす限り!」
切っ先がテアの体を傷付けるかに思われるほどぎりぎりのところに振り降ろした。光りが飛び散り、声にならない叫び声とともにテアに憑いていた奴が飛びすさり、テアから離れた。
それは光のなかに取り込まれるかに思われたが、四散し霧のように消え去った。後には血に染まった短剣を持ち呆然と佇むテアが残された。
短いあいだテアは王と自分の手の中にある剣と返り血をあびた服を何度も見くらべてが、ルエキラと視線があったとたんに正気に返ったようにみえた。
「テア……」
体力のほとんどを術にそそぎこみ、肩で息をしながらルエキラはテアに手を差し延べた。
「……!」
テアは小さく悲鳴をあげ、そのまま倒れるように思われた。脅えたように短剣が手から滑り落ちると、止める間もなく廊下へと駆け出してしまった。
廊下を抜け、神殿に続く回廊まできたときテアは立ち止まり一度だけ振り返った。いまにも泣き出しそうなテアはルエキラの前で柱の影に溶けるように消えてしまった。
しばしの間、ルエキラは呆と立ちすくんだ。テアは消えた。霊体ではなく体ごと。まったく見知らぬ力を使ったのだ。ルエキラはいままでテアは自分の庇護のもとにある、かよわい存在としてとらえていた。少なくとも自分が理解できる範囲にテアはいるものと考えていた。けれど消えてしまったテアは、ルエキラが知っているテアと同一のものと俄かには信じられなかった。
それどころか、自分にはない能力を有するテアに霊能者として軽い嫉妬さえおぼえるのだ。テアは自分さえも信用していなかったのではないか、総てを打ち明けてはくれなかった。ルエキラは悄然としたまま、テアの部屋にとってかえした。
「あなたは王妃を殺した。そしてそれを隠したのだ」
断罪するような教授の声が廊下まで聞こえた。部屋にたどりつくと、教授とマナがいた。マナは震える手つきで王の血を拭い、半身を支えるようにしていた。教授は鬼神のように立ちはだかりさらに続けた。
「いまこそ総てを話して戴きましょう。カラ王妃の死の訳を!」
「おまえになぞ話すことは何もない……」
青ざめた顔の王は、それでも威厳を失っていなかった。苦しげに肩で息をしながら教授を睨み返した。
教授は王の傷の具合を見ているようだ。いつもの教授ならまっさきに治療に取り掛かっているはずだが、マナがぎこちなく血を止めようとしているのを冷やかに見下ろすだけだ。
「話を聞かせて下さらない限り、手当は致しませんがよろしいか」
冷酷にもかすかにほほ笑みながら教授は王に宣告した。ルエキラが見るかぎりでは傷は思いのほか深くはないようだが、だからといって長時間ほうっておくことはできないだろう。
「ルエキラ神官、典医を呼べ」
ルエキラは首を振ると、剣をもう一度手にした。意識を剣の思念に合わせ丹念に読み取ってゆく。『そなたまでも……』と奴は言った。以前にこれで傷付けられたはずだ。テアが消えてしまった訳も、奴が王を殺そうとした訳もすべての答えはこの中にある。
教授と王はまだ押し問答をしていた。そうしている間にも王の出血は止まらず、マナが気絶せずに手当していることが不思議なくらいだ。高価な絨毯が黒く湿ってみえるほど血が流れている。
ルエキラは剣の思念のなかにひとつだけ奇妙なものがあることに気がついた。それは、たしかに何かを切り裂いたのだが、人ではなかった。もう少し鮮明にそれがみえはしないかとルエキラは闇の中で瞳をこらした。そこに見えたものは……。
「王妃が密通し身ごもったことをあなたはお許しにならなかった。そればかりか……」
「教授、王妃は自殺なさったのです。王よ違いますか?」
ルエキラは剣を携えたまま王を振り返って見た。胸を押えながら王は恐ろしげにルエキラを見ている。
「おまえもテアも気味が悪い……異能のものはすべて呪われるがいい」
「カラ王妃のように? 彼女はいまだ黄泉路につけずここに縛られていたことをご存じでしたか。すべてはあなたの責任だ。カラ王妃もテアも責めることはできない」
テアを責めることはできない……わかっていたはずなのに。ルエキラはマナをさがらせ王の手当を始めた。王を責めることをあきらめたのか、教授も手を貸してくれた。
「テアは消えてしまいました」
教授と王の表情が変わった。そう口にしてから初めて失踪という現実がルエキラの胸をしめつけた。
「すぐに手筈を整えなくては……」
教授は傷付いた王さえ投げ出してしまいそうな勢いでルエキラを諭した。王は冷やかな顔で言った。
「捨て置け、一国の王に刃を向けたのだ。もとより覚悟のうえだろう。わしの口から死罪いう言葉が出ないだけ感謝しろ」
その言葉にルエキラの血は逆流した。
「あれはテアではありませんでした。彼女に罪はありません」
仮にも父親が言うべき言葉とは信じられなかった。王はわずかな裏切りも許すことはないのだ。たとえそれが最愛の王妃の子供であっても。
「見付けだします、私が。そのときはテアは私の館に引き取らせていただきます」
当てはなかった。テアの行き先は知れない。けれどルエキラ以外にテアを探す者がほかに誰がいるだろうか。
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