第9話 9

 大気は天空に満点の星をきらめかせ透明な氷のように冷えている。強い風に混じって時おり雪がはこばれて来た。二人の従者とアサフ教授は短い眠りを貪っている。

 無理もない。ウィルカを発ってすでに丸二日。満足な休憩も取らずにビルカの峰の奥深くまでわけいったのだ。くわえてこの寒さだ。すでに体力の限界はとうに過ぎていただろう。人も、馬も。

 この先にあるものはコトシュの大神殿のみだ。

 ルエキラは焚火の中に小枝を一本くべた。炎は小さいながらも凍える体を暖めてくれる。

 しかし、テアが失踪してからルエキラの気がおさまることはついぞなかった。

 空をみつめたまま溜息をはいた。

 この寒さのなか、テアはどうしているのだろうか。野天での寝泊りなどしたこともなく、まったくのふだん着のまま初冬の山にわけいった病弱な彼女は。ルエキラはウィルカを発ってから、テアの行き先を疑ったことはなかった。が、もしも、自分自身の判断がまったくの誤りだとしたら……すべては無駄な行為に終わる。

 いままでがむしゃらに体を酷使して、すべての疑問を頭から締め出していたが、一旦体を休めるとこれまでの不安が一気にふきだしてくるのだ。それほどまでに夜の闇は深かった。

 彼女は帰りたくないのかもしれない。霊に体を支配されてとはいえ、父王を傷付けただひとりの理解者であると思われた夫にも罵られたのだから。ウィルカに安住の地を失ってしまったことだろう。

 では自分はあの父親を責める権利があるのだろうか。彼女への愛情に自信を持てず、未知の力を恐れているのに。しかし自分だけは、テアの味方であるべきだった。

 自分の言動を思い出すたび後悔にかられた。

 もしこのままテアに一言も詫びることができずに別れることになったらという不安が心に重くのしかかる。考えたくはない、最悪の結果を。 

 いつのまにか、唇から歌がこぼれていた。雑歌六十七番、テアの歌だ。

 冷たい夜空の深淵に吸い込まれないよう、山の峰みねに響き渡るよう、心を込めてただテアのためだけに歌った。

 歌が終わりにさしかかったとき、人が動く気配がした。

 ルエキラは歌うのをやめ、振り返った。

 寝起きのどこか焦点の定まらない目つきで、教官が星をみつめていた。

「すみません。起こしてしまって……」

 どうやら起き出したのは、教官ひとりのようだ。従者はいまだ寝息を立てて、ぐっすりと眠っている。

「いや、あまり深くは眠っていなかったから。火の番を交代しよう。夜明けまでまだすこしあるから、君は休まなくてはいけない」

 そう言ってたちあがると、ルエキラの隣に座りなおした。ルエキラはすっかり恐縮してしまった。

「そんな……このようなところまで道案内をしていただいて、そのうえ雑用などしていただくわけにはまいりません。どうぞお休みになっていてください」

 教官は首を振ると、そだを手に取った。

「いや、気にしなくていい。大神殿の近くまできているせいだろうか。こんやは、若かったときのことを思い出されてしまうよ。年上の神官たちと、薬草をもとめて野宿をしたのも一度や二度ではなかった」

 アサフ教官は自ら進んでコトシュへの道案内をルエキラに申し出た。十数年前の大神殿勤めで、ビルカの峰にはかなり詳しかったからだ。

「姫はなぜ、触れたこともないアキツなどで出奔なされたのだろうか」

 アキツの数が足りないと報告があったのは、ルエキラが忙しく身支度をしていたときだった。その情報にルエキラは一縷の望みを託した。きっとテアはアキツを使ったに違いない。行き先はコトシュ、前夜の口論を思い出したからだ。

 アキツは大型の飛獣で硬い甲殻につつまれたからだに、六本の足と大小二枚ずつの巨大な羽根を有する、鋭い牙を持つ移動用の獣だが、数は少なく紫微城でしか使われていない。

 テアはかなりの知識を蓄えていた。アキツのことももちろん知っていたと思われる。しかし、それに乗ったこともなければ、触れたことさえなかっただろう。

「テアは、城下を“歩いた”ことが一度もなかったからです」

 ルエキラは眠っている従者に、それでも警戒して小声ではなした。

「いつもは、部屋の露台から街を見下ろすか、それでなければ……”飛ぶ”かどちらかです。いずれにしろ、空からの視点でしか外を知りません。ですから」

「当然、からだごと空へいけるアキツを選んだのだな」

 教官はおおきくうなずいた。

「……しかし君の歌は不思議だな」

 手の中でこえだをもてあそびながら教官がつぶやくように言った。

「王妃が自害なされたというのは本当か」

 教授の長年の疑惑をいまルエキラは説き明かそうとしている。ひとつうなずくとルエキラは始めた。

「王の剣に刻まれていた思念のなかに一つだけ奇妙なものがありました。それは実体ではないものを切った記憶です」

 ルエキラはあの剣からみてとった水にゆらぐような情景をゆっくりと言葉にした。場所はテアがまさに王を切りつけたあの部屋だ。

「自らの喉に刃をつきたて崩れ落ちる女性が見えました。髪は赤というよりも黄金色で見開かれた瞳は……」

「緑、だったのだな」

 教授は堅くまぶたを閉じ天を仰ぎ、深い悲しみに耐えているようにみえた。その姿が痛ましく思えてルエキラは目をそらした。

「その直後です。王妃の体から霊体が体を離れて王の前に立ち上がったのです。王はおそらく恐怖に駆られたのでしょう、それを切り裂いました」

 王妃はあさましい姿になってまで訴えたいなにかがあったのだ。しかし、王は最期の訴えさえも拒み剣を向けたのだ。その瞬間、王妃の愛情はそのままの強さで憎悪に変わり長くあの場所に固執していたのだ。

「テアの力と同質のものをカラ王妃も持っていたのかもしれません。それが発動したのはただ一度、死去の時だけだったのではないかと」

 ルエキラが知りえたものはそれで総てだ。教授は握り締めていた拳をゆっくりと開き、そのまま目を覆った。そしてしばらく動かなかった。

「……いままで君に隠してきたことがひとつだけある」

 ルエキラは教授の静かな口調とは裏腹に、抜き差しならないものを感じて身を乗り出した。

「一九年まえのある夜、療治寮でひとり調べ物をしていた私のもとにひとめを忍んで女性がたずねて来た」

 教授は顔をあげ、なにか決心したような厳しい表情をルエキラに向けた。

「そのひとはお仕えしている方が不義の子を宿してしまったと……堕胎をしてくれと懇願した。よく見ると頭からつま先まですっぽりと長衣で隠しているが、心持ち腹を庇っている指が震えていた。その様があまりにも切迫していたので、これは主人のことではなく彼女自身の問題ではないかと思い始めた。わたしは断りの理由とともに説得にあたった。もし不義の子供であっても、それだとてラバァタ神の采配、きっと意味あってのことに違いない。心配しなくてもよい、なにかの時にはまた訪ねてくるがよい。きっと私が力になろう、と。私は彼女に誓いをたてた」

 いまにして思えば……と教授は続けた。当時の自分の地位や立場を考えれば、力になるなどということは言えなかったはずだ。けれど、不幸な彼女のためになにか言わずには居られなかったのだと。

「帰りまぎわ、深く一礼した彼女が顔をあげた刹那、頭巾からわずかに見えた瞳の色を長いあいだ忘れることがなかった。翡翠によく似た緑……不思議と彼女とカラ王妃を結びつけなかった。その後まもなくカラ王妃は王女をご出産された。けれどその父親に誰もが疑問を持った。逆算すると、その時期は王が遠征で城を留守にしていたから。たとえ早産であると仮定しても、計算が合わないからだ」

「では、テアの父親は誰なのですか」

 ルエキラが教授に問いかけたとき突然眠っていたはずの馬たちが騒ぎはじめた。二人は会話をやめ辺りの様子をうかがった。

 明かりなどあろうはずもない山奥。その岩だらけの山はだに淡い光が集まりだしたのだ。

「これはどうしたことだ……」

 教授は呆然とつぶやいた。その光りは青く明滅しまるで鬼火のようにゆらゆらと揺れた。

「テア! 」

 ルエキラは叫んだ。

 光りは名を呼ばれるのを待っていたように、テアの姿をとった。その姿を見てルエキラは少しだけ安堵した。

 飛び出したときそのままの服装で、頭からはすっぽりと肩掛けをかぶっている。その下から、萌黄色の瞳でおずおずとルエキラを見上げた。

 その表情からは深い悲しみが読み取れた。いつもよりいっそうと青白い顔に、ひかりを失いかけたような瞳……。それは泣きはらしたあとのようにも見えた。

「心配したよ。今どこにいるのか教えてくれないか。一緒に帰ろう」

 ルエキラは今までの不安を打ち消そうとテアに話しかけた。

 もっと、ほかに言うべきことがあるはずなのに、いざとなるとこんな不器用な言葉しかでてこない自分が情けなくなる。

「これが姫の力なのか……」

 教授にでさえ、今のテアはみえるらしい。彼女の出現をまのあたりにして強い衝撃を受けているようだ。ただ、息をひそめてテアを凝視する。

「王の体なら大丈夫だ。私にはわかったよ、君がしたことではないと説明しておいた。それに王からの許しも得た。君は都に戻っても自由の身だ、責めるものも追うものもいない。一緒に暮らせるんだ‥テア」

 テアは力なく微かにほほ笑んだ。その顔があまりに寂しげなものだったのでルエキラはいっそう不安になった。

「場所はどこにいる、必ず必ず君をみつけるから」

 ルエキラはいまにも消えてしまいそうなテアをいまひととき留めさせようと、必死に言い募った。

 すうっと、テアは指さした。それはまっすぐに大神殿の方向を指していた。けれどそれを阻むように空間が歪みはじめた。真夜中にでるはずのないかげろうが立ちはじめたように見えた。ルエキラは息をのんだ。邪悪な波動であたりを震わせながら徐々に姿をあらわしたのは、紛れもなくカラ王妃だった。

「どうした、何が見える?」

 カラは教授には見えないらしく、ルエキラの肩に手をかけ揺さぶった。震える声でルエキラは伝えた。

「王妃です。ここまで追って来るとは」

「何?」

 カラは顔だちこそ生前の美しさをとどめているが、喉元は今だ生々しい傷が血を流している。『おまえさえ生まれなければ……』呪詛のように何度もくりかえす言葉がルエキラまで届く。カラは憎しみをこめた目でテアを見つめた。合わせ鏡のようによく似た二人はルエキラの前で対峙した。僅かのあいだ、身を堅くしているようにみえたテアはふっと体から力をぬいた。テアは両手を母親に差し延べた。まるでその身を投げ出すように。ルエキラは瞬時に悟った。テアは体を捨てるつもりなのだ。母親に自分の体を明け渡すつもりなのだ。

 カラは勝ち誇ったようにほほ笑んだ。いつの間にか右手には短剣が握られている。

「いけない、テア!」

「王妃はあそこにいるのだな」

 ルエキラの返事を待たずに突然教授がルエキラを押し退け、前に進んだ。

「カラ王妃、私をお忘れですか。あの晩、誓いをたてた療治寮のものです」

 教授の言葉に反応するようにカラが振りかえった。教授はカラが見えてはいないのはずだか、正確にカラを捕えているようにエキラは感じた。

「誓いを破り生前はあなたさまを助けなかった、私を憎んでください。テア姫には罪はないはずです。あの夜のことを覚えておいでなら、どうか!」

 ルエキラには見えた。教授の体から燃えるような赤い炎がほとばしるのを。その炎はカラ王妃を包むと、紫をへてやがて清浄な青い炎に変じた。

 叫び声が山々に響いたような気がした。炎の中で王妃の体が燃え尽きるかに思えた。王妃は身をよじり、ぎらぎらした目を向ける。教授は雷に打たれたように立ち尽くし、テアはなす術もなく、火の柱と化した母親を瞠目している。

 ただ一人、ルエキラには分かった。教授が無意識のうちに生じさせた炎は王妃をこの世に縛り付けていた、憎しみや憎悪を焼き尽くすものだ。

 みよ、それを裏付けるようにみるまに王妃の顔が変る。悪の感情は教授の思いによって浄化されてゆく。いつのまにかルエキラは魂鎮の呪文を唱えていた。

 カラ王妃が解放されるために……テアが悪夢から解放されるようにと。

 炎は徐々に消えはじめた。王妃は糸の切れた人形のようにかたりと地面にに伏した。小さくはぜる炎もすべて消えたころ、王妃はゆっくりとおもてをあげた。

 ほんの少し前とは比べものにならないほどの美しさ……輝くばかりの黄金の髪、磨かれたように光る瞳。自刃にかけた喉の傷は跡形もなく、神の寵愛を一身に受けたような造形がそこにあった。これが本来の王妃だったのだ。テアとルエキラは一様に息を飲んだ。今はもう憎しみや憎悪で曇っていたころは思い出せないほどの。

 王妃は優雅に立ち上がると、テアとしばし見つめあった。初めて娘を見たようなカラ王妃、そしてテアの表情は複雑だった。やがて王妃はテアに歩み寄りそっと抱き締めた。テアは堰を切ったように涙を流した。テアも幼子にかえったように母親にしがみついた。この親子にとっては生まれて初めての包容なのかも知れない。けれどそれはほんのつかの間のことで、カラ王妃はゆったりとほほ笑むと消えてしまったのだ。テアは涙で頬を濡らしたまま母親を見送った。

 山の端が赤く染まりだした。朝日はもうじきこの谷間にも差し込むだろう。

 そして、テアは夜明けとともに消え去る星々とその姿をひとつにするように、ルエキラの前から溶けるように消え去っていった。

 ルエキラはやにわに立ち上がると、眠っている従者をたたき起こした。

「出立するぞ! 手早く用意をするのだ」

 いつになく、命令口調になっていることに自分でも気がついた。

 今はただ一刻も速くテアのもとにたどり着きたいと心がせく。

 慌ただしく馬の背に荷物をくくりつけるルエキラとすれちがいざま教官がつぶやいた。

「姫はご無事であられるのか。私には彼女が……」

 最後の部分は、ルエキラを気づかってか口ごもった。

 心臓に刃を突き立てられたような気持ちになった。しかし、手を休めることはしない。教授が言わんとすることがルエキラにもわかっていたからだ。

 姫の霊体はいつになく存在感が希薄だった。……まるで死霊のようだった。

 ルエキラは、首を振った。疑念をすべて頭のうちから追い出すために。


 山道はいよいよ険しくなり、道とは呼べなくなりつつあった。

 ごつごつとした岩ばかりの山肌にはろくな植物が育つはずもなく、わずかに乾燥と寒さに強い貧相な草木が目にはいるぐらいだ。

 一番冷えこむ夜明けの中を、アサフ教授を先頭にルエキラたちは進んで行った。

 ときおり幻のように白い焔がちらりと視界を横切るのは、テアであろうか。

 狭い岩場や、片側が断崖になっている道なき道を馬たちは進んでいくが、その速度は思うにまかせない。体を残してこの気持ちだけ飛んで行きたいと感じたときルエキラはテアの力の一端を初めて理解できた。

 やがて、眼下に壮大な建築物が見えてきた。

 わずかな谷間にはめこむように造られた壮麗な大神殿。その中央には、天を突くような塔がそびえている。

「教官、ここがコトシュの谷なのですか」

 ルエキラは震える声でたずねた。しかし、答えはなかった。

「よいか皆のもの。たったいま目に入ったものは誰にも語るな。一言とて漏らしてはならぬ。ラバァタ神の御加護をいまからのちも受けたいと思うのならば」

 右腕をふりあげアサフ教官は、素早く印を切った。

 ルエキラはその意味を知っていた。

 清めのための印だ。教官にとっては、いま皆のために説明したそれさえも、”言わずの谷”に反した行いだったのだろう。

 あまりにも高い塔を見上げていた視線を下に戻したとき、ふっと焔が目をかすめ通った。

 焔はゆらりとほほ笑みながら飛び去っていった。それは、テアとよくにた彼女の母親であることをルエキラは悟った。

 それが消えていった方向を見たルエキラは体を震わせた。

 髪が岩かげから少しだけのぞいていたのだ。

 馬を走らせるのも、もどかしくルエキラは飛びおりると、岩場に駆け寄った。

 そこには、窪地に体を預けるようにして身を横たえたテアがいた。


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