第7話 7
ルエキラが神殿内の私屋に戻ったとき、陽はすでに落ちていた。ルエキラは憔悴して扉を押した。明かりを灯していないはずの室内が、ほの白く明るい。
「テア……」
ルエキラは小さな声で呼び掛けた。光りはみるみるうちに人の形を取る。その内にテアが現れた。
「珍しいね。神殿のほうに来るなんて」
長い髪をなびかせてテアはルエキラの前に立った。疲れきっているルエキラは、椅子に体を沈め、ひざのうえに組んだ両手に額を押しあてた。
「ごめん……王はお許しにならなかった。私にはまだ早いと」
テアはルエキラのすくそばにたたずみ、彼の顔を不安げな表情でみつめている。
「何故、君を手元に置きたがるのだろう。テア……君に心あたりはないかい?」
悲しげにテアは首を横に振った。
「亡くなったという君の母上の面影を慕っているのだろうか。いくら私が王族ではないからといって、ああまでして引き離そうとするのは……病的だ」
テアは深く頭を下げルエキラの話を聴き入っているようだ。
「母上のことを、カラ・ラエル王妃のことを教えてくれないか」
びくりとテアの肩が震え、脅えるように身をひるがえした。
「何でもいいんだ。王との話し合いの糸口をつかみたい」
テアはまなじりをあげ、きっぱりと首を横に振った。普段はかなげに見える彼女からは想像も付かないきつい表情だ。
「何故だテア? 私と一緒に暮らしたくはないのか」
思わぬテアの拒否にルエキラは困惑した。彼女はただ真っすぐなまなざしでルエキラを見すえるだけだ。
「君は私を拒むのか。城から出るためには王との話し合いが不可欠だ。そのためにもと聞いているのに。私は君のなんなんだ? 物分かりのよい父親でも兄でもない。伴侶だろう、テア」
伴侶、という言葉を口にしてからルエキラは突然気がついた。なぜ彼女と結婚したのだろうか…‥と。彼女の霊体を見た、そして現実のテアと出会った……。だが求婚の言葉はるで思い出せない。
その部分だけまるで霧がかったようにはっきりとしないのだ。……彼女は魔術を使う。体から霊体だけをきりはなし、ルエキラと一緒に霊を見ることもできる。しかしそれだけだろうか。まだほかの能力を隠してはいないか。
「なにをした。私に……!」
初めて出会ったあの日、テアの手管に落ちたのではないか。
テアは激しく首を振り、ひたとルエキラを見据えるとせわしなく唇を動かす。けれど、ルエキラにはそれを読み取ることはできない。
「以前から感じていたよ。私は君にとって保護者でしかない、そう思っているだろう」
自分でも驚くほど冷やかな声だった。テアの表情が凍りつく。
「ルエキラ君、失礼するよ」
そのとき不意に扉が開き、手に燭を携えたアサフ教官が現れた。声に驚きルエキラが振り向いたその刹那にテアは姿を消した。
「どうした。明かりもつけずに」
教官は、つかつかと室内に入ると、手にしていた燭で暖炉のうえにある別の蝋燭に火を灯した。そしてルエキラの方に向き直ると深々と頭を下げた。
「今日は……すまなかった。私のせいでとんだ迷惑をかけてしまった。私の話を聞いてはくれないか。いまさら言っても弁解にしかならないのだが」
「そんな。教官、頭を上げてください。私こそ突き飛ばしたりして」
教官の態度にルエキラは戸惑い、彼も王宮での非礼を詫びた。ルエキラは教官に椅子をすすめ、二人はほの暗い部屋の中でさし向かいで座った。
「さきほどは、彼女が来ていたのだろう」
ルエキラは目を見開いた。テアの能力のことは誰にも話てはいない秘密だ。
「霊視の力がなくとも、部屋の空気が微妙に違うことぐらいなら私でもわかるよ。それに彼女はいつぞや君から相談を受けた例の少女なんだろう」
確かに五年前ルエキラは教官にそのことを話していた。しかし、テアの家庭教師になり婚約、結婚となってからも以前はなした少女のことをルエキラは口にすることはなかった。よもや、いまだに教官が覚えていたなどルエキラは思いもしなかった。
「テア姫の力も、君の能力のことも総ては魔術の世界に属する。魔術は、この国で発達したわけではない。むしろ我々には元来縁のなかったものだ。はるか南のイの国や中つ国のものだった。しかしそれを神殿は取り入れ、例のセイリオン事件が起こるまでその恐ろしさを、ラバァタ神の法則からかけ離れていることを認識していなかったのだよ」
ルエキラはうなずいた。このネの国は魔術とは無縁の、むしろ今は失われて久しいが奇跡の科学力を有していたという。一説にはその力が今だ神殿の地下深くに残っているとささやかれている。あるいは、コトシュの谷にとも。
「神殿は人々に魔術を使うことを禁じた。だが、その大きな力を皆が忘れるはずがない。毎年五人前後の者たちが、あしき魔術を使ったとして神殿に罰せられている」
「そんなことは聞いたことがありません」
教官は無理からぬといった表情で若い神官長を見やった。
「口にできるわけがなかろう。ラバァタ神の名折れだ」
たしかにラバァタ神とその神の一族を祭る尖耳族にとっては、寝覚めのよいことではないだろう。教官は深い溜息をはいた。
「人々は彼の約束を忘れかけている。心の中ではラバァタ神の姿を求めながらも、神の迎えは当の昔にあきらめている。そして、他国の神々の魔力に頼ることが、更にラバァタ神から遠ざかる結果になるということに気がつかない。人々は確実な約束を欲している。迎えが来るか否かは今の我々にかかっているというのに」
ルエキラは耳を疑った。経典や歌に記されている『ラバァタ神の迎え』は抽象的なものではなかったのか。
「本当なのですか。迎えは単なる人々を導くたとえではなく、確たる約束なのですか」
その言葉に、むしろ教官は驚いたようだった。
「君は信じていなかったのか我々の神話を。『耳を傾けよ……』始まりの詩に書かれてあることは事実だ。我ら尖耳族はいずれ天へ、彼の星へと帰る」
深い沈黙……。尖耳族がこの地に流刑されたのはおよそ三万年前という。はるかか彼方の天空より流されて来たのだと経典や歌が告げる。
ルエキラはその太古に思いを馳せた。たしかにその当時は確たる事実であったものも、永い時の中で風化、形骸化してしまったのだ。神殿の若き正神官が迎えを単なる戒めのたとえと勘違いしてしまうほどに。
「そこでだ。君の持つ能力も魔術の一端として処理されているところがあるだろう」
これにはルエキラも素直に同意した。
「民人の心を不要な不安に陥れることにもなりかねないので、我家では数代以前から独自の規制を設けております」
「そうであろうな。しかしだ……私は君のその能力が惜しくてならないのだ。人々の病気の中にはこちらが八方手を尽くしてもその治療法はおろか原因さえつかめないことがしばしばある。それこそ禁じられている魔術による呪咀やある種の霊障だと考えられないだろうか。だからこそ、療治部へぜひとも君が欲しかったのだが……」
教授は熱心にそう話した。
「私の谷への推薦はやはり王のさしがねのようです」
教官はかすかに表情を変えた。
「そうか。やはりな」
「理由がわからないのです。私は何か王の気に障ることでもしたのでしょうか。それとも……」
ルエキラはいったん言葉を切り、視線を組んだ自分の指のうえに落とした。
「テアとの結婚そのものが不本意だったのでしょうか」
しばらく二人の会話に沈黙が流れた。教官は、考えを巡らせていたようだが、やがて首を横に振った。
「テア姫から、母上について何か聞いたことは?」
「いえ。話どころか彼女の部屋にはカラ王妃にまつわるものはいっさい置いてありません」
そしてまた沈黙。教官は迷っているようにみえた。
「これは私から話して良いものかどうかわからないが。おそらくは王妃の死因に何か関係があるのかもしれない」
ルエキラは教授の言葉から伝わる緊張感に知らず知らずのうちに背筋を延ばした。
「王妃は、カラ・ラエル王妃は死因がはっきりとしない。病死なのかあるいは自殺か他殺なのか、私たちは知らないのだ」
ひとこと間をおき、ルエキラのほうを見た。彼は何故と、瞳で問い返す。
「一七年前、テア姫が生まれて間もなく死去なされた。亡くなったとふれがあった翌日には、もう陵に葬られていまった。あまりの速さに人々も王妃の死が尋常ならざるものだったのではないかと憶測した。私もそのひとりだった。それとなく王妃の身辺を探った。そして……」
「そして?」
「私はコトシュへの任を授かった」
教官はかるく眉根をよせた。追放のための谷での勤めは五年におよびんだが、結果的にはそこでの実績が早い出世へとつながったと教官は苦笑した。
「カラ王妃を見たことがありますか。彼女の、テアの部屋には肖像画一枚もないので」
教官は指を組みなおすと、どこか遠くの景色を見るような目で宙をみつめ、軽く眼を閉じた。
「君と同じくらいのときだ。一度だけ。でも強烈な印象だった。緑の瞳にどちらかというと金に近い髪の色。美女とか妖艶と言う言葉はあの人のためにあるのだとさえ思えたよ。だから、テア姫を見たときは驚いた。生き写しとはあのことだ」
思えばカラ・ラエルは第四王妃であり、彼女の死後王は、もう新しい王妃を娶らなくなった。四人とは歴代の王の中ではけっして多いほうではない。現に前王ダレィオスⅢ世には八人の妃がいた。
よほどカラ王妃の事を忘れられなかったのか。そしてテアを手元から離さないのもそのふかい愛情ゆえなのか。けれど、王の言葉は屁理屈をこねるだけで愛情は感られず、むしろ子供じみた独占欲のようなものがあったように思われる。
教官の話は示唆に富み、ルエキラは先行きを思うと心が重くなった。
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