第103話:大事の前の小事

 楓さんのご両親を見送り、玄関でキスをした後。俺と楓さんはぎこちない足取りで寝室へと向かおうとしたがその途中で大切なことを忘れていた。


「楓さん、シャワー浴びないと……」

「そ、そうですね。今日は朝からお出かけしましたし、汗もかいていますよね。そ、それじゃ勇也君、お先にどうぞ」


 普段なら間違いなく「それなら一緒に入りましょう! 背中を流してあげますね!」と鼻息を荒くして言ってくるところだが、珍しく一人で入るように促された。別にそれが寂しいとか思っているわけでもなければ一緒に湯船に浸かって抱きしめたかったのに残念だなぁとか思っているわけではない。断じてない。


「もう……勇也君の馬鹿。早く入って来てください! 後ろがつかえているんですからね!」

 顔をわずかに赤らめた楓さんに背中を押されて半ば強引に浴室へと押し込められた。俺が一人で入りたいと言ってもお構いなしに突撃してきて隙あらば混浴しようとするのが嘘のようだ。


「一人でお風呂に入れることに驚くなんて……俺もおかしくなったな」


 いや、おかしくなったというより楓さんに絆された証拠だろう。一緒にいるのが当たり前の日常が定着した今となってはむしろ離れ離れになっている時間の方がおかしいのではないかとさえ思えてくるのだから楓さんへの思いは末期だな。


「どうしようもないくらい楓さんのことが好きなんだなぁ、俺……」


 一宏さんに問われた時、口から自然とあふれ出てきた楓さんへの想い。思い出してみると結構恥ずかしいのだが、事実だから仕方ない。あれが俺なりのケジメであり、それを一宏さんと桜子さんは受け入れてくれた。だからこそ俺は今こうして一人で身体を清めているわけだ。


 これからすることを想像すると心臓の鼓動が異常に早くなる。湯船に浸かっていることとは別に身体が熱を帯びてきて血行が良くなって下半身が大変なことになる。


「落ち着け、落ち着け、俺。だ、だだ大丈夫だ。うん、大丈夫。きっと大丈夫だ」


 バシャバシャと湯船を顔にかけて昂ぶる気持ちを洗い流そうとしてみたがダメだった。こんなことで本当に大丈夫かと一抹の不安抱きながら俺は早々にお風呂から出ることにした。



「お待たせ、楓さん。お風呂あがったからどうぞ……って、なにしてるの?」


 髪を乾かして歯磨きを終えてから寝室に向かうと、ベッドに座っていた楓さんが俺の枕をクッション代わりに抱きしめていた。おい、枕。今すぐそこを俺と替われ! 楓さんの腕の中は俺専用だぞ!


「それじゃ私も汗を流してきますね。それまでの間、勇也君は私の枕を抱きしめていてくださいね?」


 そう言い残して楓さんは用意していた着替えを手にしてそそくさと寝室を後にした。まるで檻から逃げ出すウサギのように素早い動作だったので止めることが出来なかった。一人になった俺はため息を一つついてからベッドに腰を下ろした。


「……枕か」


 言われた通りにお風呂から上がってくるのを待っている間、楓さんの枕を抱きしめているのは何だか負けた気がするのだが、壊れた蛇口から際限なく溢れ出てくる楓さんへの想いを少しでも落ち着かせるためには楓さんに包まれることが一番だ。


「はぁ……いい匂い……落ち着く……」


 柑橘系の爽やかな香りが枕から漂い、荒れ狂う俺の心を静めていく。むしろ油断していると心地よくて夢の中に旅立ってしまいそうだ。


「早く……楓さんのことを抱きしめたいなぁ……」


 お風呂上がりで火照った身体。大好きな人の香り。そこに今日一日で溜まった精神的疲労。このトリプルコンボの前に俺の意識は徐々に遠ざかっていくのであった。

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