蟲の落とし子/ベスワキ僧院の赤月の一夜〜〈灰色の右手〉剣風抄・外伝〜

美尾籠ロウ

蟲の落とし子

 レコノン・エヘルシャンは、手にした銀の盆を取り落としそうになった。

 慌てて両手でしっかりと支える。が、盆の上の二つの盃がぶつかり、小鳥のしゃっくりのような音をあげた。

 今しがた目撃してしまったものが、信じられない。

 ――あれは、幻だった……?

 そんなはずがないことは、彼には痛いほどわかっていた。

 レコノンは全身を強張こわばらせ、息を止めた。耳をすます。

 鐘楼しょうろうのある寺院の北西から、かすかにチスイカラスの叫びが一声聞こえた。

 扉の鍵穴に、そっと顔を近づける。「あれ」はまだ、部屋のなかにいるのだろうか?

 出し抜けに、内側からその扉が押し開けられた。レコノンの額に扉が激突しそうになった。のけぞった拍子に、またも銀の盆を落としそうになり、盃から緋色の蘭火酒がこぼれた。

「おやおや、我が子、レコノン・エヘルシャンよ。遅かったではないか」

 キッヘ師が、静かにレコノンを見上げていた。

「は、はい」

 乾き切った口でそう答えた。

 キッヘ師は、十三歳のレコノンよりも七倍は長生きしているだろう。女性として生まれたはずだが、今となっては男女の性を超えているように見えた。レコノンより頭ひとつ分背が低い。小人族オゼットのように見えるが、もしかしたら、レコノンと同じ大人族コディークなのかもしれない。金糸の刺繍がほどこされた紫色の長衣を床に引きずり、滑るように歩くその姿は、地上界から冥界へなかば足を踏み入れているかのようだった。

 いや、実際にこの地上界の人ではないのかもしれない。

 銀の盆を抱え、キッヘ師の部屋へとおそるおそる踏み込んだ。普段と違う足取りを師に気づかれるのではないか、とレコノンは、喉元へ胃の腑がせり上がってくるような気分にとらわれた。

 寝台の脇の卓へ銀の盆を置き、左手に持っていた布巾で、そっとこぼれた蘭火酒を拭う。

「レコノン・エヘルシャンよ、『イーコグ・ベスワキ文書』の写本は済んだのかえ?」

「い、い、いいえ、我が師。まだあと八分の一ほど残っています。明日には必ず終わらせます」

 レコノンはそう答え、ごくりと唾を飲み込んだ。

「急がぬともよい。正確に、正確に。過ちなきよう、正確に過ぎることはないのだ」

 レコノンは深々とお辞儀をし、後退しつつ部屋を出て行こうとした。が、かれは扉の直前で足を止めた。

「あの……我が師にお尋ねいたします」

「何だ、我が子よ?」

「は、はあ……『イーコグ・ベスワキ文書』黙示の章で語られている『ベスワク神の落とし子』とは、まことなのでしょうか?」

 レコノンは意を決して訊いた。

 キッヘ師は蘭火酒の盃からひと口飲むと、真っ直ぐな視線をレコノンに返し、わざとらしく大きなため息をついてかぶりを振った。

「我が子よ、おまえも惑うのか? ベスワク神のさなぎより、未だ出ることのないおまえが」

 レコノンはさらに深く平身した。

「申し訳ございません」

「この僧院の〈蟲神の子ら〉のなかで、そなたを次の僧官補に推そうと思っておる」

 キッヘ師は静かに言った。

「ま、まことでございますか。ですが、私はまだこの僧院に来て四年にしかなりません。私よりも経験豊かな諸先輩がたがおられるのに、私など、まだまだ〈ベスワクの神理〉に触れられてもいません」

 レコノンは躍る気持ちを抑えて言った。

「受け容れるのだ。ベスワクの神肢のお導きのままに進むのだよ」

 キッヘ師は寝台の脇の安楽椅子へ、深々と腰かけた。

「赤月が沈み、明日の太陽が昇れば――我が子、レコノン・エヘルシャンよ、おまえは蛹より羽化し、成蟲僧せいちゅうそうとして新たに生まれ出ずることができるやもしえぬぞ」

 キッヘ師は物静かに言った。

「おやすみなさいませ、我が師」

 レコノンは床を向いたまま、扉を閉じた。

 師の言葉に、心はもっと浮き立ってしかるべきだったが、レコノンは冴え冴えとした気持ちのままだった。

 ――あれは幻ではなかったはず。

 先ほど、自分の両のまなこで目撃したものが、脳の襞から去ろうとしなかった。

 ――キッヘ師は、やはりお隠しになっている。

 今にも足元に、黒くうごめく青灰色の塊が膨らんでくるような気がした。

 レコノンはぶるぶるっと身震いした。脳裏にあの光景が甦ってくる。

 ――蠢く糸! 悶える脚!

 あれはほんとうに〈ベスワク神の落とし子〉の姿だったのだろうか? それとも、脳を走ったいっときの幻だったのか?

 この地上界を十二賢者が治めていた古代から、古の高僧中の高僧だけが操ることができたと伝えられる〈ベスワク神の落とし子〉。常人はもちろん、呪技じゅぎつかいや地上界のあまたの賢人すら、決して測り知り、拮抗することが敵わぬ強大な力を持つという、いにしえのベスワク神力を与えてくれる存在――それこそが、〈ベスワク神の落とし子〉、地上界において最古にして最強の蟲神使ちゅうしんし、エメルプス・ベスワキ。

 ――我が師こそ、蟲神使をその腹の中で飼い慣らしているのかもしれない。

 だからこそキッヘ師は偉大であり、そして、恐ろしい。

 早く部屋に戻ろう、とレコノンは思った。寝台に身を潜めるのだ。明日のお勤めに、心を向けるのだ。


 真夜中を告げる鐘が、窓の外から聞こえた。いつもよりも重く、深く、暗く響くように思えた。

 寝台の上段で、レコノンは身を固くした。

 結局、まんじりともできずに真夜中を迎えてしまったようだ。

 寝台の下段からは、一つ年下のキーケンのいびきが聞こえてくる。

 レコノンの脳裏から、鍵穴の向こうに見てしまったキッヘ師の姿がどうしても消えなかった。

 レコノンは、そっと物音を立てないよう、寝台から降りた。音を立てたとしても、いつも熟睡しているキーケンは目覚めそうになかった。

 レコノンは何かに惹かれるようにして、部屋の扉を開いた。

 廊下は静まりかえり、わずかな赤月の淡い光がどこからか漏れているだけだった。

 ――我が師の部屋に行かなければ!

 背中を何かが突いてくるようだった。何かはわからぬが、あたかも追い立てられるような気持ちがむくむくと湧き上がるのだった。

 あのとき、扉の鍵穴から覗き見たものは、幻夢ではなかったはずだ。

 レコノンは胴震いを必死に抑えながら、廊下に足を踏み出した。

 その一歩を出した刹那、爪先に生ぬるく邪悪な存在を感じた。一気に体が凍ついたかのように、固まって動かなくなった。

 レコノンは裏返った悲鳴を上げて、必死に足を床から引き剥がそうとした。しかし、足はびくともしない。

 ――糸!

 レコノンは眼を見開いた。廊下に敷かれた絨毯から、青灰色の糸がしゅるしゅると音を立て、痙攣するように飛び出した。邪悪な糸が、レコノンの両のくるぶしに巻きつき、きつく締め付け始めた。

 レコノンはあえぎながら、糸を足首から剥がそうとした。が、細い糸はとてつもなく強力だった。そして糸はぬめり、べとべととレコノンの指先を翻弄した。

「キーケン! 助けて!」

 叫んだ。

 が、部屋で眠っているキーケンが目覚めた様子はなかった。

 と、次の瞬間だった。

 床の絨毯を引き裂き、「脚」が現れた。

 青灰色に鈍く光る脚が六本、あたかも痩せたツノトカゲの細く長い鉤爪のように、レコノンのふくらはぎを這い上がり始めた。

「ああ、ベスワク神よ!」

 天井に向かって叫んだ。が、答える者はない。

 脚が這い上がってくる。じわじわと、ふくらはぎから太腿へと這い上がる。  

 無数の糸がキュルキュルという金属的な音を立てて、絨毯から飛び出した、レコノンの腰に、腕に、手首にからみつき、レコノンの身動きを止めた。

 恐怖に震えるレコノンの顔に向かって、脚が這い上ってくる。

「ベスワク神よ! どうかお許しを! 私は一刹那せつな、あなたを疑いました!」

 レコノンの叫びは、もはやかすれ果てていた。

 ――脚!

 一本だけ長い〈脚〉が。レコノンの胴体を這い上がっていた。その先端は鋭く曲がり、上下左右に無数の刺が生えている。それらの刺はそれぞれ、独自の意思を持っているかのように、あちらこちらへ鋭利な先端を向けて蠢いていた。

 〈脚〉の鋭い先端が、二つに割れた。その隙間から黄白色に鈍く光る舌のようなものが現れた。その舌はゆっくりとゆっくりと、レコノンの胸元へとその先端を伸ばした。

「いやだ! 私には無理なんだ!」

 レコノンは力の限りに叫んだ。

 黄白色の舌がレコノンの心の臓に……


 眼を開いた。

 窓の外からは、傾きかけた赤月の明かりが漏れている。

 ――夢……か。

 全身が汗でびっしょりと濡れそぼっていた。レコノンは荒い息を吐きながら、安堵した。

 レコノンは寝台の上で上体を起こそうとした。

 動かない。

 糸だ!

 ねばつく灰色の糸が、レコノンの体を寝台にがんじがらめにしていた。

 必死に身悶えするが、糸はますます強くレコノンの体を締め付けてくるようだった。

 とそのときだった。レコノンの上に影が覆いかぶさってきた。

「我が師匠様!」

 言いかけたその口が閉ざされた――細く強い糸が喉を締め付けてくる。

 キッヘ師の顔が近づいてきた。いつにも増して鋭いその視線は、レコノンの頭蓋骨の奥底まで覗き込んでくるかのようだ。

「我が子よ、おまえに〈蟲の揺籃ゆりかご〉となる好機を捧げよう」

 そう言って、キッヘ師は口を大きく開いた。

 その暗がりの奥、キッヘ師の喉元深くから、何かが這い出てくるのが見えた。

 青黒い塊――甲虫の神、ベスワク神の化身!

 レコノンは叫びたかったが、もはや声は出なかった。うつろに開かれたレコノンの顔面に向かって、青黒い塊が六本の肢をひらひらと動かしながら近づいてくる。

 そのときになって、ようやくレコノンは悟った――すべてが理解できた。

 キッヘ師はその腹中に蟲神使を飼っているのではないのだ。

 青黒い〈蟲〉は、レコノンの唇の上に到達し、ゆっくりとその頭部をめぐらせ、レコノンの鼻面にその尾部を向けた。

 ――ああベスワク神よ! 私にはまだその準備ができていません!

 叫んだつもりだった。

 青黒い〈蟲〉――ベスワクの落とし子たる蟲神使、エメルプス・ベスワキがぷるっと体を震わせた。

 その尾部から黄白色の〈舌〉が飛び出した。その〈舌〉は、レコノンの右の鼻孔へ突き刺さった。鼻の奥へ奥へと、ずるずると〈舌〉が潜り込んでいく。

 脳天へ激痛が走った。レコノンは叫んだ。

 と同時に、これが夢ではないことを確信した。

 そしてまたもうひとつ、意識を失う直前に、レコノンの脳裏にはっきりとわかったことがあった。

 蟲神使、エメルプス・ベスワキは、人の下にに仕える存在ではなかった。蟲神使こそが、人を飼っている。我々は、蟲神使にとっての入れ物に過ぎなかったのだ。

 恐怖と同時に、諦観と開放感がレコノン・エヘルシャンの胸元から四肢へと拡がった。

 その瞬間に〈蟲〉は黄白色の輸卵管を通じ、レコノン・エヘルシャンの脳髄へと小さな小さな黄色い卵を一つだけ産みつけた。

 〈揺籃〉となって生まれ変わったレコノン・エヘルシャンは、果てしない喜悦に満たされ、静かな眠りに就いた。


「蟲の落とし子――ベスワキ僧院の赤月の一夜」完

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