12.心残り
「おはようございます」
バタバタと職場はまだ落ち着いていないようだった。この騒がしさの中では、俺の声は誰にも届いていない。少し前までは、この束の間の時間で川相さんと他愛もない雑談をしたり、紺野と連絡をとったりしていたのに。時間なんて全然経っていないのに、どこか遠い過去のように感じる。
「鈴木、聞いたか?」
代わりと言っては何だが、隣の田中がやたら話しかけてくるようになった。
「何かあったんですか?」
めんどうくさいが、仕方なく聞いてみる。
「お前は何にも知らないんだな。異動だよ、異動。左遷の奴もいるらしいけどな」
「異動、ですか」
営業は入れ替わりがあるが、俺たち内勤はほとんど動かない。
「まぁでも、私たちはあんまり関係ないんじゃないですか?」
「それがよ、この前の派遣が暴露った話。それで内勤も結構動かされるらしいぞ」
「はぁ、そうなんですか」
「ま、俺は優秀だから動かないだろうけどな。お前は分からんぞ」
ニヤニヤと下衆な笑顔で俺に言ってきた。
田中から離れられるならいいかもしれないな。と、言おうと思ってやめた。そんな軽口が叩けるほどの仲でもないし、何よりこれ以上会話するのがめんどうくさかった。
「鈴木、ちょっといいか」
「あ、はい」
課長から呼ばれた。昨日回した資料にミスでもあっただろうか。課長から呼ばれて、良かったためしが一度もない。緊張で、身体が強張っていくのが分かった。
「鈴木、最近仕事はどうだ」
「あ、はぁ、なんとかやってます」
「そうか。お前は入ってからずっとここだもんな」
「そうですね」
「働き慣れたところ、悪いんだが、お前は異動だ。会社はこういう状況だし、分かってくれ」
「えっ……」
「詳しいことはこれに書いてあるから。経理の菊池に話はしてあるから、引っ越し手続きやその他細かいことはそっちに聞いてくれ」
突き出された書類を仕方なく受け取った。受け取りはしたが、どうしろというんだ。すごすごと机へ戻ると田中が話しかけてきた。
「おい、どうしたんだよ? え? 異動か?」
さっきよりさらに邪悪な顔になってこっちを見ているが、無視した。
「異動……」
ため息とともに声が漏れた。
なんで俺なんだろう。紺野と付き合ってるのに他の女と遊んでた罰だろうか。それとも川相さんが俺の配信生活も暴露したんだろうか。毎日アルコールにまみれて出勤した時、書類を出しに行った俺はそんなに酒臭かっただろうか。
この地に未練はないけれど、なんだかんだと住み慣れた場所だ。ここで俺は社会人になって、FORKに出会った。配信しながら散歩をしたことも、職質かけられたことも、デートのお店を探したことも、戸井田さんに出会って話せるようになったことも。今思い返せば、それなりに愛着がある土地だ。
それをこんな紙切れ一枚で捨てて行かなきゃいけないなんて……。
何よりも心残りなのは、戸井田さんのことだ。先日の一件からなんの進展もしていない。コンビニにも毎日行くが、ここ数日は見かけていない。
俺のせいで辞めてしまったんだろうか。そんなこと、考えたくなかった。
やっぱり、行動に移すんじゃなかった。
そう思うものの、起こしてしまったアクションはもう取り返しがつかない。このままフェードアウトするのは嫌だが、コンビニ以外で戸井田さんに会う手段がない。
八方塞がりだ。
せめて最後に戸井田さんに会いたい。ここを離れてしまうことを自分の口で言いたい。
今日もあのコンビニに行くしかない。
「経理に行ってきます」
ようやく重い腰を上げて、俺は動き出した。
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