お色気お姉さん枠 寧々宮美夜乃 1



 その女性は圧倒的だった。


「ねぇ侘助くん? 檸檸とわたし、もしもどっちかを彼女にできるとしたら……侘助くんはどっちを選びたい?」


 ノンスリーブの白いサマーニット。足の長さを際立たせる紺のスキニージーンズ。

 シンプルながらどちらも上下ともに身体のラインをこれでもかと強調し、丸みを帯びた輪郭はいっそ視覚的な暴力とも言える域でこちらの目線を離さない。

 緩くウェーブがかった榛摺色からは、姉妹で同じシャンプーを使っているのか。ここ最近ですっかり覚えてしまった良い香りをほのかに漂わせつつ、けれど首筋や鎖骨、大胆に露出したうなじなどから得られる肌色の攻撃力とあわさり、まるで別物と錯覚するほど女性の色気に富んでいた。


「……………………(死)」


 甘やかながら清純さを感じさせるシトラス。

 鼻腔を擽るそれに、僕は知らず息を呑んで硬直していた。

 目の前の現実がにわかには信じられない。夢ならば早く醒めて欲しい。たすけてくれ。

 心の底から「これ以上はもう一秒だって耐えられない」と叫び出したくて堪らなかった。


 ただそこに居て、存在しているだけで目に毒。


 端的に言って、そう表現してもなんら差し支えないレベルの女性から、突如として上目遣いで顔を近づけられていたからだ。

 比喩ではなく、文字通りに目と鼻の先。ふとこちらがバランスを崩せば、もうそれだけであらぬ間違いが起こりまくってしまいそうなデッドゾーン。


 過度な露出があるわけではない。

 男に媚びるあざとさを露骨に押し出しているわけでもない。

 常態至極。

 白鳥が自らを着飾る必要などない。ただあるがままで十分に美しいのだから。それをどこまでも無意識に、他人へと知らしめる圧倒的な〝美〟──。


 眼前の女性はまるで、地を這う蟻を見つめるかのような瞳で僕を


「ねぇ──『わたし』って、答えてくれないの?」

「っ、じょ、冗談は……やめ、やめて……もらえませんか」


 高嶺で咲き誇っているべき花が、野に降りて自らほかの雑草と交わろうとしている。

 遠くから眺めるだけ。自分には縁のない存在。本来、何をどうしたところで手なんか届きようのない美人が、向こうから距離を詰めて来る衝撃と理不尽。

 憐れでバカな男を勘違いさせかねない思わせぶりな態度。親しみやすさを感じさせる敢えて素朴シンプルな服装は、果たして計算か。それとも自然体でなのか。


「冗談、ね。ふーん……そっか。いや、そうか。檸檸が珍しく琥隆以外のオトコの名を口にしていたからどんな奴かと思ったが、なるほどな」


 口調を変え、男性的な喋り方へとトーンを切り替えても。

 上目使いをやめ、笑顔の種類を明らかに移し変えても。


 気配はブレない。

 雰囲気は続く。


 常態至極。


 それはどこまでもナチュラルにとしての魅力を振り撒き続ける、寧々宮ねねみや美夜乃みやのという美しき恐ろしき魔性だった。


「お姉ちゃんッ!」


 頬を引き攣らせ、蒼白に染まった僕を見かねたか。

 あるいは、クラスメートの男子にちょっかいを出す身内を諫めようとしたか。

 寧々宮さんは声を荒げて自身の姉を睨む。


「怒るな怒るな。別に取って食いやしないよ」

「……海石榴から離れて」

「なんだ? 独占欲か?」

「殺すわよ」

「アッハハハッ! 今日も沸点低いなぁ。万年生理か」


 妹から注がれる殺気の籠った視線に、姉は笑う。

 僕が向けられたら一目でゴルゴーン認定間違いなしの眼つき。ペルセウスもきっと裸足で逃げ出す鬼女の魔眼。

 だというのに、美夜乃さんは柳に風どこ吹く風と、むしろ機嫌良さそうにクツクツと肩を震わせていた。


 美人と美少女。


 この状況を傍から見れば、きっとさぞや期待性に富んだ光景に見えるだろう。

 だが、当事者にして渦中の人物こと。もとい間に挟まれただけの僕は、今にも死んでしまいそうな気持ちで一杯だった。


(──場違いだ。どうしようもない程に場違いだ)


 こんなことになるのならいっそ来なければよかった。

 胸に過ぎる後悔は先に立たないし、もちろん役にだって立ってくれない。

 しかし、それでも僕は心の中で思わずにいられなかった。


(修羅場とは、阿修羅と雷神の戦う鉄火場と見分けたり)


 つまり、決して献身的なウサギが迷い込んでいい場所じゃあないのだ。

 キレイな薔薇には棘がある。

 普段からただでさえ異性との接し方がよく分かっていないこの僕に、怒り猛る女性の適切な鎮め方など見当もつきゃしない。


 ……怖い。ああ、そうとも。ただひたすらに怖いんだ僕は。いったいどうして、何がどうなってこんなことになっている?

 寧々宮さんと美夜乃さんの姉妹喧嘩。そんなものに、どうしてこの僕が巻き込まれて……


 後悔は前ではなく後にしかやってこないからこそ、事が済んだ後ではひっきりなし。


 本当は原因なんて分かっている。

 すべてはあの時犯した致命的な失敗。僕自身の浅慮が招いた徹頭徹尾の自業自得。

 この世の神は調子に乗ったバカをいつまでもそのままにしない。脇役が舞台で突然脚本に無いアドリブをぶちかましたら、物語にひずみが生じるのは当然のこと。


 ──だから。


「──殺す」

「やだ。わたしこわーい! 侘助くん助けてっ♪」

「タスケテ」


 戻れることなら二時間前に戻って、ルート分岐をやり直したい。

 そうすれば、寧々宮さんの家での勉強会など丁重に固辞して、今ごろは積みゲーの消化に勤しみながら平穏な放課後を享受していただろうに。

 僕はキリキリと痛み出した胃を必死に抑えて、そう思った。








「海石榴ってさ、バカなの?」


 はじまりはその一言から始まった。


 中間試験を終えて数日。校内の掲示板に張り出された試験結果を確認するため、多くの生徒が中庭へと集まっていた放課後。

 きゃいきゃいと喧しいBGMを無視し、真ん中から数えてやや上のあたりに自分の名前があるのを確認した僕は、可もなく不可もない総合点数にホッと一息吐いていた。


 高校に上がってはじめての学期試験。


 幸い、赤点を取ることこそ無かったものの、中学の時より取れる点数が落ち込んでいて、僕はひそかに学年順位を気にしていた。母親と妹から、もしも学年順位で下から数えた方が早かったら、美少女ゲームを一ヶ月禁止にするという脅しをかけられていたのである。


 だが、結果は御覧の通り僅かとはいえ学年の半数を上回っている。


 その事実に、僕は胸を撫で下ろし安心していたのだった。


「うわ、アンタの点数ひっど」


 そんな折りだった。

 いつからいたのか。どこから来たのか。隣に現れた寧々宮さんが突如として言った。


「……いや、別にひどくはないでしょ。真ん中より上だし。普通ですって」

「海石榴ってさ、バカなの?」

「バカではないです」

「なら自覚症状のないバカってことか。うわやば、それって真性じゃん」

「……」


 押し黙った僕と対照的に、寧々宮さんは哀れなものを見る眼差しで断言した。ひどくない?


「そりゃ学年首位の優等生であらせられる寧々宮さんからしたら、僕なんかバカも同然なんだろうけどさ」


 いかに寧々宮さんが努力の人だと言っても、さすがに自分と同等の物差しを他人にも当てはめるのはナンセンス極まる。

 ホッと安心していたところに冷や水を浴びせられた気分になったこともあり、僕はつい嫌味を滲ませてしまった。


(この美少女が! お高くとまってんじゃねえぞゴラァ! みんながみんな勉強大好き努力ガンギマリ人間だと思うなよオオンッ!?)


 なお、当然だが口には出せない。出さないではなく出せないという辺りに、僕の僕たる所以があるからだ。


 先日はつい調子に乗って寧々宮さんの前でイキリ散らした姿を晒してしまったが、あの日は帰りの途中からとんだ黒歴史を刻んでしまったと羞恥心と後悔で頭がどうにかなりそうだった。

 頭に血が上ったとはいえ、赤裸々な本心さえ口にして……本当に、今でも思い返すだけで死にたくなる。

 寧々宮さんには気を遣わせてアイスまで奢ってもらってしまったし(鬼の霍乱である)、我ながら似合わない真似だとは分かっていたが、あの時の僕には相当なイタさがあったのだろう。穴があったら入りたい。


 久留生崎くんにも随分と偉そうなことを言ってしまった。

 彼と寧々宮さんとの間にどれほどの確執があり、彼がどうしてああまで劣等感を拗らせていたのか。

 その背景を十分には想像せず、ついカッとなるなんて……。


 今思うと、自分がやったことは完全に何様案件だったのではないかと、反省点も多い。


 とはいえ、久留生崎くんと僕ではその日常生活に天と地ほどの差がある。

 片や彼女持ち。

 片やひとりぼっち。

 勝敗は火を見るよりも明らかで、総合的な人間力では僕は彼の足元にも及ばない(わからないんだ。いったいどうしたら、僕はリア充(死語)になれるんだ……? 教えて久留生崎くん!)。


「海石榴さえ良ければ……勉強、私が教えてあげよっか?」


 僕がひとり過去の罪に悶え苦しんでいると、寧々宮さんが言った。


「えと、いまなんて?」

「だーかーらー、バカ海石榴のために、良かったらこの私が勉強見てあげるけど? って言ってるんですけど」


 想定外の一言に脳がフリーズし、僕はまじまじと寧々宮さんを凝視した。いたって真顔だった。

 困惑した僕は、おずおずと訊いた。


「罰ゲーム?」

「は? どういう思考回路よ」

「いやだって、寧々宮さんが優しいから」

「私はいつだって優しいでしょうが」

「ダウト」

「あ?」

「なんでもありません」


 鬼の霍乱パート2かと身構えたが、どうやらそういうわけではないらしい。

 ならばいったい如何なる乱心か。

 僕は余計に分からなくなって寧々宮さんを凝視した。


「くそ……どこを見ても可愛い」

「え?」


 だが、結果はただ寧々宮さんがいつも通り美少女だという、それだけしか分からない。

 女心を見抜ける眼力など僕には備わっていないのだ。やはり素直に訊いてみるしかなかった。


「寧々宮さんに勉強を教えてもらえるのは嬉しいけど、なんでまた急に?」

「あっ、えっと……お、お礼よ!」


 すると、寧々宮さんは若干言葉を詰まらせながらも、すぐに語調強く答えた。


「海石榴にはこの前メーワクかけたし、だからそのお礼!」

「お礼って、別に気にしないでいいけど。というか、僕的には早めに忘れてもらいたい」

「なんでよ!? 忘れないわよ! ……ってそうじゃなくて! あーっもう! 海石榴のくせにまさか断ろうっての!?」


 眦を挙げて肩を怒らせる寧々宮さん。おかしい。最初は拒否権のある提案だと思っていたのに、いつの間にか有無を言わさぬ暴君モードとなって僕を睨んでいる。やめてほしい。僕は女の子に免疫がないので、そんな強引に迫られちゃうと首を横には振れないのだ

 ……何気ない反射の言葉にだって、心の何処かで舞い上がっている自分を必死に落ち着かせている。憐れなチェリーには堪ったものじゃない。


 思春期ってやーね、ほんと。


「いっ、いえ! お願いしますお願いします。僕はバカなので寧々宮さんに勉強を教えてもらえたら百人力です!」


 気づけばそんなことまで言っちゃってるし。

 僕は余りの自分のチョロさにマズいなと思いながらも、けれどその場の流れに身を任せることをうっかり選んでしまっていた。


「でも、勉強ってどこで? やっぱり図書室?」


 学生が集まって勉強するとしたら、やはり自ずと場所は限られる。

 学校の図書室か、町の図書館か。あるいはこれが友人同士であればどちらかの自宅ってこともあるだろう。

 しかし、僕と寧々宮さんは友達……ではあるかもしれない(自信がない)が、性別が異なる。付き合ってるわけでもない男女が片方の家にお邪魔するというのは、世間的にそういう目で見られても仕方がない行動であるし、寧々宮さん的にも自分の部屋に僕なんかを招き入れるのはイヤだろう。

 そう思っての質問だった。


 だが!


「そうね……私の家でいい? 学校だと屋上みたいにまたうざったいことになりそうだし、図書館も私ら以外の学園ここの誰かが来てたら同じことじゃん? 家なら……まぁ面倒なのが一人いるけど。アレでも一応は身内だし」


 僕の想定に反し、寧々宮さんはまさかまさかの選択肢を口にした。

 後半は独りごとに近いトーンだったが、どうやらなんとこの僕を自らの部屋へ招き入れるつもりでいるらしい。


 いいのか? 人生初の女子の部屋に、僕は絶対に深呼吸するぞ……?


 半ば愕然と呆気に取られる僕に、けれど寧々宮さんは「じゃあ、決まり!」と勝手に話を進めていた。

 僕はドキドキと早鐘を打ち始めた心臓を如実に感じながら、それに「う、うん」とまるで小さい子みたいに頷くことしかできなかった。


 勘違いなどしてはいけないのに、頭の中ではラブがコメコメする予感で一杯だった。








 ──そして結果がコレである!


「こんのクソ姉貴ッ! 私が海石榴なんかに惚れるわけないでしょーがっ! どこをどう見たらそう思えんのよ!」

「まぁ、たしかに琥隆くんよりは冴えない感じよねぇ。でも、だからこそ気になるわ。お姉ちゃんにどこが気に入ったのか言ってごらんなさい」

「は、話にならないっ! 色ボケのアンタと一緒にしないでくれる!? っつーか、さっさと海石榴から離れなさいよ! いくらアンタでも、高校生に手を出したら犯罪でしょうが!」

「フッ、安心しろ檸檸。この坊や、どうもわたしに引っかからない変人みたいだからな。うまくハマらない相手をと、のちのち面倒なんだ。要するにタイプじゃない」


 客観的に見れば美人姉妹に取り合われているように見えなくもないこの構図。

 しかし、その実態はただの姉妹喧嘩プラスαに過ぎなかった。

 妹からは有り得ないと断言され、姉からはやれやれと首を振られる。

 そこに男の幻想が現実となる可能性は一ミリもないし、僕はもう乾いた笑みを浮かべるしかなかった。




「あの……勉強……」

「「黙ってて!」」

「ひぇ」




 人生初の女子部屋での想い出は、しょっぱい涙の味になりそうだった。









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ラブコメ時空に迷い込んだので負けヒロインを幸せにする 飴細工 @Amezaiku_Heart

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