第8話

「人間には俺たちの味方はいないのかな」

 俺がぼそっと呟いた隣で、ブラックは弱々しくコンコンと地面を叩いている。

 ブラックが地面を叩くたびに水が揺れる音がする。

 その音に対して俺には思い当たるところがあった。

「もしかして、ブラック。飲み残されたの?」

 鋭い目で睨まれて俺は身を竦ませた。

「そういうわけではない」

「でも、液体の音が」

 ブラックが大きい溜息をついて、露骨に鬱陶しげな顔を見せた。

「そこまで知りたいなら教えてやる。ただ、笑える話なんて一つもないぞ」

 黙って俺が頷くと、ブラックはすっかり闇に覆われた空を眺めながら話し始めた。

「俺は自動販売機の中で意識が宿った。周りにいた飲料たちと会話を楽しみながら買われるのを待っていた。

 窮屈な環境ではあったけれど人間の目には絶対に触れないので、自由の多い場所だった。

 ある日ついに俺が買われる時が来た。ふわっと身体が浮くような感覚があって程よい衝撃があった。

 透明の取り出し口から差し込む光がとてつもなく眩しかったのを覚えている。

 その時初めて青空を見た。どんな色も吸い込んでしまいそうな青色だった」

 ブラックはきっとその時に空の魅力に惹かれたのだろう。

 俺は人間にばかり目を向けていたことを少し悔やんだ。

「俺を買ったのはスーツを着た男だった。ネクタイはお洒落でシャツも皺がなく好青年だった。この男ならポイ捨てされる心配はないと大船に乗った気持ちになっていた」

 そこは俺と同じだった。

 俺も印象のいい美人な女性に買われて安泰だと思っていた。

 やはり人間は見かけによらないのだ。というより人間にはろくな奴がいないのだ。

「コーヒーを飲みきったスーツの男は、少しだけ俺に水を注いだ。

 そして、徐にたばことライターを取り出した。俺を傍らに煙草を吸い出したんだ」

「まさか」

 ブラックは不愉快極まりない顔をしている。

「ああ。俺は灰皿代わりとなった。煙草の灰が体内に落とされて、短くなった吸い殻がねじ込まれた。

 2本目、3本目と体内に煙草が投入された。

 どんなにやめろと叫んでも人間には通じない。

 通じないのをいいことに悪びれる様子もなく、次々と煙草を吸ったんだ。

 その時思ったんだ。

 人間とはなんて凶悪な生き物なのだろう。と」

 俺は知らずのうちに震えていた。

 人間への恐怖ではない。一刻も早く何か仕返しをしてやりたいという欲望だ。

 圧倒的に俺たちよりも立場が上で自分勝手な人間たちに恨み返しをしたい。

「結局その男は俺をゴミ箱に入れることすらしなかった。

 ああいう奴でも人間界では問題なく受け入れられているのであれば、この世界で穏やかに死ぬことは絶望的だ。

 終わる機会を奪われた俺は何を生きがいにすればいいのだろう。

 そもそも俺は何のために生まれてきたのだろう。

 人間の欲求を満たすため?その役目を終えた後は?

 考えても無駄だと分かっていても考えずにはいられなかった。

 思考が泥沼にはまり考えるのが億劫になりはじめた時、初めて見た空が心に刺さったことを思い出した。

 これからはこれを活力源にしていこう。そう決意を固めたんだ。

 それから俺は人間を避けて隠れながら、この場所を見つけ出した」

 俺は「なるほど」とブラックの顔を見た。

 ブラックは捨てられることを早々に諦めた。けれども、乗り物に乗っていた人間たちよりもよっぽどいきいきとしている。

 それはきっと、ブラックが空を眺めることを心から楽しみ、全身で味わっているから。やりたいことを誰にも邪魔されずにできているから。

 しかし、人間のしたことは決して許せることではない。

 良心的な人間もきっと存在すると、人間を信じたがっていた自分を恥じた。

 さて、どうすれば人間に一矢報いることができるだろうか。

「そういえば、ここはどこなの?」

 ブラックの顔は、いつの間にか冷めた顔つきに戻っていた。

「ここは駅のホームの下。ホームとは電車という人間が使う乗り物の乗降場のことだ」

 俺がここに来るまでに乗ってきた乗り物は、電車という名前だったのか。

 ブラックが自分の過去を話し終わっても、俺は彼の隣に留まった。

「まだ何かあるのか?」

 ブラックはうんざりしているのを隠そうともしない。

 俺は思い切って打ち明けてみることにした。

「あのさ」

「何だ」

「俺、人間に仕返しがしたい」

 沈黙が流れた。

 空に浮かんでいる星が賑やかだから、かろうじてこの場に居続けることができる。

 長く静かな間だった。

「どうしてだ?」

「だって腹立たしいじゃないか。俺は電車の座席の下に置き去りにされた。周りの人間は見て見ぬ振り。

 拾われたかと思えば玩具として何回も何回も投げられた」

 今まで自分の身に降りかかったことを一つずつ思い起こしていると、体の中心が自然と熱くなった。

「あまりにも人間が自分勝手すぎる。少しは痛い目を見てもいいはずだろ」

 ブラックは肯定も否定もしない。

「人間を少し困らせるだけでもいいんだ。何か方法はないかな?」

「そんなことをして何の得がある?」

 ブラックの低い声で俺の体温はゆっくりと下がっていった。

「何か人間にしてやらないと気が済まないんだ」

「己の欲のために他に迷惑をかける。お前がやろうとしていることは人間となんら変わらないと思うが」

 その言葉に俺はむっとした。

「ブラックだって悔しいでしょ?仕返ししたいと思わないの?」

「仕返しをするよりも空を見ている方がよっぽど有意義だ。

 そもそも人間と俺らは対等ではない。

 俺たちは人間によって人間のために作られたんだ。人間に見られていれば動けないし、武器を持つこともできない。

 そんな俺たちに人間を追い詰めるほどの力はない」

 ブラックはどうにもできない力関係を受け入れている。

 彼は極力人間に関わらないで生きていくことが穏やかに生きる唯一の道だと信じている。先々を冷静に見通していて、経験と知識を元に前向きに生きようとしている。

 カフェラテが似たような雰囲気だったことを思い出した。

 人間について鋭い切り口で批判するレモネード節を思い出した。

 見ただけで温まりそうなほうじ茶のラベルを思い出した。

 ああ、あいつらも理不尽な扱いを受けたのだろうか。

 そうに違いない。

 俺たちを丁重に扱ってくれる人間なんていないのだ。

「ブラック。俺はどうしても諦められないよ」

 ブラックの辟易した顔を見るのは何度目だろうか。

「なんでもいいんだ。小さいことでも。頼む、教えてくれ」

 引き下がらない俺の懇願を溜め息が断ち切った。

「分かった。分かったから、今から言うことを聞いたら、もう俺のことはそっとしておいてくれないか」

 強く頷くとブラックは咳払いをして続けた。

「さっきも言った通り俺たちは人間を直接的に傷つけることはできない。だが、困らせることくらいならできる。

 ただ最初に言っておく。

 計画を完璧に遂行できたとしても、人間に与える影響は一時的なものに過ぎない。

 そして、お前は身体的苦痛を味わうことになる」

 痛み。そんなものこの期に及んで気にしていられない。

 俺だけじゃない。人間に苦しめられた仲間の気が少しでも晴れるのならば、それでいいんだ。

「覚悟はできてる」

 ブラックは険しい顔のまま「そうか」と俯いた。

「電車を止める方法がある」

「電車ってこの線路を走るあの乗り物?」

 目の前の線路を電車が通った。

 身体の芯に響くような音が轟き、踏ん張っていないと吹き飛ばされそうなほどの風が巻き起こった。

「ああ。通勤や通学にも、遊びに出掛けるのにも、人間の多くは電車を使う。

 これを暫くの間止めることができれば、多くの人間を困らせることができるだろう」

 あの電車に弾き飛ばされる自分の姿を想像したら身が竦んだ。

「そんなこと...できるの?」

「線路には分岐器と呼ばれる部分がある。電車の進路を変えることができる機械だ。

 そこに異物が挟まれば、当然取り除く必要が出てくる。安全が確認されるまで電車は走らないはずだ」

 俺は「その方法ならば」と考えた。

 その異物は人間の手によって取り除かれる。

 つまり俺が異物になれば自然とゴミ箱にも入れられるってわけだ。

 人間を困らせられるだけではなくて、俺もゴミ箱へ行ける。まさに一石二鳥の作戦じゃないか。

「俺、やるよ」

 自然と力強い声が出た。

「好きにすればいい。さっき電車が走って行った方向に分岐器はあるだろう」

 ブラックはそう言って電車の後ろ姿を見送っている。

 早速分岐器へ向かおうとする俺は「なあ。一つだけ言っておきたいんだが」と呼び止められた。

「何?」

 ふうと一息置いた後で、低い声が響いた。

「お前がやりたいことをやれ。お前はもう自由なのだから。

 たとえお前が仕返しを遂行しなかったとしても、誰もお前を責めない」

 ブラックはチャンスをくれている。

 復讐をやめるという選択肢もある、と。重たそうな口調で俺の身を案ずる言葉をくれたのだ。

「ありがとう。でも、やるよ」

「そうか。成功を祈っているよ」

 平坦な返事をしたブラックは夜空を見上げた。

 それを確認した俺は、分岐器を目指して動き始めた。

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