第3話

 都市伝説なんかじゃなかった。

 俺は今、確かに自分の意思で動いた。

 鞄の中という人間の目につかない閉鎖的な場所で、体勢を変えることに成功した。

 いい機会なので鞄の中を見て回ることにした。

 高価そうな財布に薄ピンクのハンカチ。

 高そうな財布はぺったんこで中身はさほど入っていないように見える。財布の中身より財布の方が高価だなんて変な話だと思う。

 壁にはポケットがついていて、真っ白いイヤホンが絡みついたボールペンが刺さっている。

 街路樹に巻きついているイルミネーションの電飾のようだった。しかしそれがこの鞄の中の暗闇を照らすことはないだろう。

 フェンスに絡んでいる蔦といったほうが相応しいかもしれない。

 この女性は表向きは上品で綺麗だけれど、他人の目につかないところは雑然としているようだ。

 彼女が温かいうちにお茶を飲み切って、すぐにゴミ箱に捨ててくれていれば、こんなこと知らずに済んだのに。

 買われる時「こんな綺麗な女性に買ってもらえるなんて」と大喜びしただけに落胆も大きい。

 まあ緑茶も残り僅か。別れも近い。

 俺はもう一度鞄の中をぐるりと見回した。


 彼女との別れはすぐにやってきた。

 チャックが開く音がして、一筋の光が鞄の中を照らした。

 俺の身体は硬直する。

 ファスナーの狭い隙間をこじ開けるように五本の指が侵入してきた。


 久しぶりに見た鞄の外の世界は、見たこともない風景だった。

 何かの乗り物の中。

 窓の外の景色が猛スピードで駆け抜けてゆくのが見える。

 7人がけの椅子が等間隔に向かい合うように並んでいて、座っている人も立っている人もスマホを操作している人ばかりだった。

 その場にいる全員が疲れ切った顔をしている。

 生きているのに顔が死んでいる。誰も言葉を発しないのも不気味だった。

 故郷のコンビニには二度と戻れない。

 直感がそう告げていた。

 戻ったところで何がしたいとかはないけれど、俺にとっては思い出深い場所なのだ。寂しさは拭いきれない。

 俺はどこへ連れて行かれるのだろう。どこのゴミ箱へと捨てられるのだろう。

 けれど。もういいんだ。

 ゴミ箱に入って閑かな終わりを迎える。そうなったら故郷だろうが、知らない土地だろうが変わりはない。

 彼女の右手が俺の身体を支えている。

 整えられたキラキラの爪も、毛先だけ内側にくるんと巻かれているサラサラの栗毛も見納めだ。

 久しぶりに触れた彼女の唇は少しカサカサしていた。乾きぎみでも柔らかい唇。

 最後の口づけは、あっさりとしたものだった。彼女は目を瞑ったまま一口で飲みきった。

 緑茶は全て彼女の体内に送った。

 俺の身体の奥底には、徒に増えていた泡が溜まっていたが、そんなことは気にしない。

「これでお別れだな」

 彼女の華奢な指がキャップを閉める。

 俺はぎゅっと視界を伏せた。

 彼女の手が離れるその時までこのままでいよう。こうしていれば死んだ顔をした人間たちを見なくて済む。

 俺の身体はかなり強張っていた。人間に見られているときの身体の固さとはまた違う。

 死ぬことが恐いのだ。

 死ぬって苦しいのだろうか。意識がなくなるってどんな感覚なのだろうか。

 死を目前にして落ち着いていられるほど、俺は経験を積んでいない。

 恐いのは「死」が未知のものだからだろうか。

 未知がこんなに恐ろしいなんて思わなかった。

 カフェラテくらい賢かったら、こんな時でも動揺せずにいられるのだろうか。

「どの道俺たちはゴミ箱へ行く。運命に身を委ねる以外選択肢はないんだ」

 そんなことを淡々と言いそうだ。

 俺たちは購入者を選べない。

 どんな人に買われるか。どんな捨てられ方をするか。自分の意思では変えられない。

 けれども、これでいいのだと思う。

 選択肢が増えたら増えたで、選ばなかった方の選択を羨んでしまう気がする。

 どんなに自信を持って選んだことでも、時間が経てば別の意思決定に興味が湧くようになるのはよくある話らしい。

 後悔も欲も選択の余地があるから生まれる。

 初めてペットボトルの身体に生まれてよかったと感じた。

 その時だった。

 コンッと俺の底の部分が床に触れた。

 恐る恐る目を開けると、辺りは少し暗く目の前には人間の足が並んでいた。

 不気味な光景にはっと息を飲んだ。

 目の前にあるブラウンのレースアップブーツは俺を購入した彼女のものだ。

「は?」

 俺は乗り物の座席の下にいる。置いていかれるのだ。

 状況を飲み込めた時には既に遅かった。

 いやこれは、前々から予想できていたとしても避けられない運命だった。だって俺たちは人間に見られているときは動けないのだから。

 乗り物がゆっくりと停まった。

 慌ただしく人間が動く。俺を買った彼女も席を立った。

「おい待て。置いて行くなよ」

 彼女のショートブーツは、乗り物と陸地の境界を乗り越え遠くへと離れていった。

 目の前には、また違う人間の足が現れた。

 人間たちの足の隙間から見えた人間の顔は、やはり魂の抜けたような顔をしている。

 こんなところに居続けるなんて嫌だ。

 誰か。誰か。俺をゴミ箱に捨ててくれ。

 俺の叫びは人間には聞こえない。

 俺が座席の下にいる俺と目が合った人間は何人もいた。

 しかし、その人間たちは揃いも揃って汚いものを見るような目で俺を見てきた。

「ふざけるなよ!」

 お前らの仲間が俺をここに置き去りにしたんだぞ。

 俺の怒りは誰にも届かなかった。

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