第三話

 406号室を紹介してくれた担当者曰く、自社で記録している限り、あの部屋での死亡者は無く、準ずるような事件・事故等もその周辺地域も合わせて起きていないとのことだった。


「――確かに、最近は特に早いペースで借主の入れ替わる事実はございますが、我々はその原因をマンションの構造上の問題だと捉えております。正直申しますと、リノベーションして内装は小綺麗になったとはいえ、築年数は三十超えていますからね。不便さと相まって、お客様を繋ぎ止めるには弱いかと存じております。そもそも、事情は人それぞれですから」


 何度もしつこく訊いたせいか、不動産仲介業者としてお客に話すには不味いような事も教えてくれた。


 以前、同じ部屋を借りていた入居者からおかしな事が起きたなど、苦情が寄せられた事もなければ、406号室にまつわる噂話や怪談話なども一切聞いたことが無い。以前なら短期間だけ自社の社員や出稼ぎの外国人などを住まわせ、所謂、事故物件ロンダリングを施し心理的瑕疵を隠蔽、新しい入居者に対して告知義務を守らない業者も多くいたかも知れないが、スマートフォン、業者評価サイト、SNSの普及など、今や誰でも簡単に評価を下せる時代においては最早通用しない。目先の利益よりも風評被害などのデメリットの方が格段に大きく、下手すれば企業が潰れてしまう――。


 念の為、前借主のその後の所在や動向も訊ねてみたが、そこは全国展開している大手企業なだけあって、守秘義務により教えて貰えなかった。


 普通、これだけ話を聞けば安心するはずなのだが、私は到底、納得出来る筈もなかった。


 何も問題が無いのであれば、私のこの左足の鈍痛は一体どう説明するというのか。


 不動産会社を出て、私は自宅マンションとその近辺の住民に聞き込みを行うことにしたが、どれも期待していた答えは貰えず、苛立ちだけが募っていった。


 左足の爪先をやや引き摺り、マンションの入り口を出た所で、野球帽を被った小学生低学年ぐらいの男の子に声を掛けられた。


「あー、また足引き摺ってる!」


 なんだこの、大きな声で失礼な奴だなと思ったが、すぐにおかしな点に気付いた。


「ねぇ、ぼく。『また』ってどういう意味かな?」

「んとね、前も見た事あったよ。僕もこのマンションに住んでるんだけどね。その時もお兄さん、辛そうに右足を気にして歩いてた!」


 右足――私とは反対だ。


 心臓の音が響き、耳が熱くなる。気持ちが逸るのがわかった。あれこれと矢継ぎ早に問い質したいが、子供を萎縮させてしまい、話が終わってしまえば元も子もない。一旦、開いた口と瞼を閉じ、ひと呼吸おいた。自分の心に落ち着けと言い聞かせながら、再度、男の子を見やる。


「それはいつ頃のことかな? 最近?」

「うん、この前の冬だよ。マンションで遊んでた時に一番上の端っこから出てきた」


 そこで、先に置いて行かれていた、男の子の母親が小走りで合流した。


「すみません、この子が失礼なこと言いませんでしたか?」

「いえいえ、こちらこそお子さんに色々お聞きしておりまして」


 私はチャンスとばかりにと、母親に子供から聞いた男の事を訊ねた。


「その人でしたら、406号室にお住まいでした。いつ、退去なされたかまではわかりませんが。この子言うとおり、私も最後にお見かけした時に、右足を痛そうに擦ってましたね」


 年齢は服装と見た目から学生ではないか。身長は高く痩せ気味で、積極的に近所付き合いをするタイプでは無かったが、挨拶はきちんとする好青年だった。


「――それが、お姿が見えなくる一月前辺りからでしょうか。徐々に元気が無くなっていって。最後の方には暗く項垂れて、こちらからしても挨拶すら返って来なくなりました。入居したての時は、あんなに安くて広いって、嬉しそうにはしゃいでいたのに……」


 入居日は去年の10月中頃だったのではなかったかと、教えてくれた。なんでも、真下に住んでいる方だから生活音等で迷惑を掛けるかもしれないと、わざわざこの親子が住む306号室まで引越しの挨拶に来たそうだ。そして見かけなくなったのは12月中旬以降。息子が足を引き摺る男を目撃したのがそれよりも後らしいので、退去の時期は年末だろうか。


 会釈を交わして、二人はマンションの中へ入っていった。


 偶然にも有力な情報を得た私は、疑念に対し益々確信を得ていた。間違いない。不動産会社はああ言っていたが、406号室に何かあるのだ。

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