一曲目「闇姫様奇譚」11話

 彼は唐突に戻ってきた。

 それはあのライブの夜から、およそ一カ月後。店じまいをして俺は掃除を、亜乃さんはレジの売上金を計算していたときだった。

 空気が動いたような、そんなささやかな気配を感じた。

 「あ……? ゆうちゃん、もしかして……彼、来たかも」

 亜乃さんも何かを感じたらしい。

 次の瞬間、例のシジルを描いたステージがぼうっと光ったかと思うと、そこから飛び出すかのように転がり出てきたのがビィーアだった。

 「ビィーアさん!」

 「こ、ここは……! そうか、また来ることができたのか! ……助かった」

 いきなり、ものすごい形相で飛び出してきた彼は、周囲を見回すと大きく安堵のため息をついた。

 「ちょっと、アンタ! どうしたのさ、そのオデコ?」

 亜乃さんの驚いた声に、俺もビィーアの額に目をやる。

 「なに、大したことは……」

 「いいから、そこに座って! 消毒するから!」

 亜乃さんが有無を言わせず彼を椅子に座らせた。ビィーアの額には傷があり、そこから血がだらだらと滴っていたのだから。

 

 「……よし、絆創膏貼って……これで大丈夫。うん、皮一枚ってとこだったね。良かったぁ。いくら何でも脳天カチ割られていたら、アタシらでは何もできないもん」

 「かたじけない。貴公らには救われてばかりだ」

 幸いなことに、ビィーアの傷は数センチの小さいもので、救急箱の中身で何とか手当てできるレベルだった。

 「……で、お久しぶりです。ビィーアさん」

 「よく戻ってこれたわね。っていうか、そもそも元の世界に戻って、そしてまたこっちにやってきたということでいいのかな?」

 「それに、どうしてそんな怪我したんすか?」

 「まさか、歌が下手で領主様にお仕置されたとか?」

 「ま、待ってくれ! 矢継ぎ早に聞かれても困る。まずは順を追って説明させてくれ」

 

 あの夜、俺たちの前で歌ったビィーアは、亜乃さんの読み通り元の世界に戻れたそうだ。

 「気が付けば、祭壇の前で座っていて、夢から覚めたようだった。何しろ、祈る前に灯した小さい蝋燭が、半分も溶けていなかったのだからな」

 こちらでは数日過ごしたはずだったが、時の流れが異なるのだろうか。

 「夢だったのかと、そのまま屋敷に戻ってな。だが、ここで歌った歌はしっかりと覚えていた……」

 屋敷に戻ったビィーアは、さっそくその晩の宴席で歌を披露した。俺たちと一緒に作った、あの歌だ。

 「領主様は目頭を押さえていらっしゃったし、奥方様もお嬢様たちも、手巾を目に押し当てていらした。その夜の宴席には客人も多数おられてな。まぁ評判は悪くなかった」

 その翌日、ビィーアは屋敷を後にした。領主からはかなりの褒美と、次の領地に行きやすくなるための紹介状をもらっていたという。

 「往来を抜け、人けのない小道を歩いていた時だった。いきなり何者かが襲ってきたのだ」

 「……追い剥ぎ?」

 「いや、明らかに私自身を狙っていたようだ。私は用心のため、偽の財布を持っている。革袋の中に、古い鎖を入れてあってな。持ち重りはあるし、じゃらじゃらいうから大金が入っているように見えるのだ。追い剥ぎや盗賊らが襲ってきたときは、それを放り投げる。奴らが偽財布に目を取られているうちに逃げ延びるという算段だ」

 「ふーん、アンタを襲った連中は、それには目もくれなかったようだねぇ」

 「亜乃殿の言う通りだ。奴らの目的は金ではなかった」

 反撃したものの多勢に無勢。額を切り付けられ、近くの林に逃げ込んだビィーアが見つけたのが……。

 「大きな木の根元に洞があった。その洞から光が漏れていた。そして……光の中に、また、あのシジルを見つけたのだ」

 追手は背後に迫りつつあった。躊躇する猶予もなく、ビィーアはその光の中に飛び込んだというわけだ。

 「ふーん。そりゃ命拾いしたねぇ」

 「うむ、また貴公らに助けられた。何と礼を言えばいいのか……」

 どうやら亜乃さんが作ったシジルは、彼が窮地に陥ると現れるようだ。そして、そのシジルが扉となって、この世界にやってくるのだ。

 ……が、一つ疑問がある。

 「亜乃さん、どうしてビィーアさんは、命を狙われたんだろう?」

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