一曲目「闇姫様奇譚」5話
「じゃあビィーアさん、今夜はゆうちゃんと一緒にここで休んで。ゆうちゃん、後でトイレとか水回りの使い方を教えてあげてね」
亜乃さんと俺はビィーアを店の隣の空きテナントに案内した。この部屋は以前、エステサロンだったそうで、簡素だがシャワールームが設置してあるのだ。今はがらんとして何もない部屋だが、時おり俺や亜乃さんが泊まることもあるので、折り畳みマットレスと枕、毛布を置いてある。いわば、シャワーも浴びられる仮眠室みたいなものだ。
「これはお水。こっちはお茶の入ったポットと、これがおやつ。小腹が空いたら食べて。明日の朝にはご飯用意しておくから、今日はもう休みなさい。何だかんだで疲れたでしょ?」
「何から何まで、面目ない」
「気にしないで。そもそもアタシが原因なんだから。まずは休んで、明日から考えましょう。ああ、それから間違ってもここから外に出ようとは思わないこと。無用なトラブルに巻き込まれたら大変だからね。何よりその姿じゃ目立つわ」
「……うむ」
「じゃあね。ゆうちゃん、何かあったらラインして」
「オッケー」
亜乃さんはドアを閉めると、部屋を出ていった。
マットレス一枚じゃ、背中が痛いかと思ったが、ビィーアは満足そうに寝転んだ。
「この寝床は柔らかい、実に良い心持ちだ。野営と違って野犬や夜盗がおらぬのも安心できる。ところで、裕介殿」
「そ、そんな呼び方しなくっても……ゆうでいいよ」
いきなりそう呼ばれ、ちょっとドギマギした。
「では、ゆう殿。貴公と亜乃殿はどういう関係なのだ?」
「彼女は俺の親父の一番下の妹。つまり俺の叔母に当たるんだ。とはいえ、親父が長男で、末っ子の彼女とは一回り…えーっと、十歳以上も離れているものだからね。俺と年が近いから、まぁ姉みたいなもんかな?」
「なるほど。それにしても、ずいぶんと気前がよく、剛毅な方だ。いきなりこんな男がやってきたというのに、臆することもないとは只者ではないな」
「あー、そうだよねえ。確かに常人の枠じゃ計り知れないところあるんだよなぁ、あの人」
「そうなのか?」
ビィーアが少しだけホッとしたような顔を見せた。そりゃそうだ、あんな人間がそうゴロゴロしていたら、ビィーアでなくても疲れるよ。
これは親父や、亜乃さんの親――つまり俺の祖父母たちから聞いた話だが。
幼いころの亜乃さんは、今でいう発達障害みたいなところがあったらしい。とにかく落ち着きがなくて、いつも何かを探してウロウロしているような子どもだったそうだ。あと、寝ぼけて叫び出すこともしばしばだったという。
「夜驚症っていうのかな、真夜中に飛び起きて泣き叫ぶんだよ。母さんも父さんもその度に懸命にあやしてさ。夜中に病院に駆け込んだこともしばしばだったんだ」とは親父の弁。
ところが五歳くらいになると、それはぴったりと収まったという。そして、そこから亜乃さんは急激に変わっていったそうだ。
「実をいうと、その頃まではちょっと言葉もおぼつかなくて、言っちゃなんだが知恵遅れなんじゃないかって周囲も心配していたらしい。それが、急に絵本とかバンバン読み始めて、見る見るうちに言葉も達者になってきたんだってさ」
何かのスイッチが入ったかのように、亜乃さんの読み書き能力はぐんぐんと伸びて、小学校に上がるころには絵本どころか、大人が読むような世界文学全集を読み漁るほどまでにレベルアップ。アルファベットや、大人でも難しい漢字も読めるようになっていったそうだ。当然だが学校の成績も半端なく急上昇。中学、高校でも常にトップの成績を誇り、大学もいわゆる日本の最高学府に難なく入学。そして大学二年生の時、ネットベンチャービジネスで起業。わずかな資金で始めたにも関わらず、その会社は見る間に急成長を遂げた。ところが亜乃さん、大学卒業を目前にして、いともあっさりとその会社を売却してしまった。親父たちもはっきりとは言わないが、これだけで億単位の金を儲けたらしい。
さらに大学卒業後は、そのお金で世界各国を放浪。七年間もの間、さまざまな国を回って帰ってきた。
帰国後の亜乃さんの行動もこれまた意外なものだった。無職ではあったが、残っていたお金をあれこれ資産運用して、いきなり小さな中古の雑居ビルを一棟、それも現金一括で購入してしまった。なので、今俺が働いている店の入っている雑居ビルは、ひと棟丸ごと亜乃さんの所有するものだ。
そして、これまたいきなり「異世界風のコンセプトカフェをやる」と宣言。何もせずにぼーっとしていた俺は、気が付けば彼女に雇われることとなったのだ。
「……ふむ。すまないが、ゆう殿の話を全て分かったわけではない。だが、それを差し置いても、あの人が並外れた女傑であることには変わりなかろう」
話を聞き終えたビィーアは、そう言った。おそらく、俺の話は彼に理解できないことも多かったんだろう。彼の住む世界と、俺たちが住むこの世界とでは、常識も異なる。
王侯貴族でもない平民が当たり前のように学校に通い、読み書きができる世界。
ましてや、女が学校で学んだり、一人で諸国を放浪したり商売をするなんて、ありえないとでも思っているんだろう。
「なに、私の国にも未亡人となりながらも夫の遺した店を切り盛りして繁盛させて、夫以上に店を大きくさせた女の豪商がいる。それから、戦で遠征中の夫に成り代わって城を守り、時には敵襲にもひるむどころか自ら武器を手に奮戦した女傑だっている。どの国にも、そういう女人がいるものだ」
さすが、諸国を回っているだけあって理解がある。これがゴリゴリに「女なんかに何ができる!」とか大暴れする奴じゃなくて、本当に良かった。
安心したら眠くなってきた。俺はゴロンとマットレスに横たわった。
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