スイートメモリー
コヒナタ メイ
第1話
昼過ぎから降り始めた雨は、夜になっても止む気配がなかった。
7月初旬の夜7時、川島翔太と妻の麻美は自宅2階のバルコニーで、物干し竿に吊るしたテルテル坊主に向かい、祈りを捧げている、5才の娘の優と3才の息子の岳の姿を見ていた。優と岳が通う幼稚園は、明日ドッヂボール大会を園庭で開催する予定で、ドッヂボール大会を楽しみにしている二人は、明日を晴天にする必要があったのだ。
「テルテル坊主さん、お願いします。雨をやませてください。明日を晴れにしてください。」
一生懸命にお祈りをする優と岳の姿がとても愛らしく、翔太と麻美は笑顔で子供たちを見つめていた。
翌朝、優と岳の祈りが天に届いたのか、空は青く晴れわたっていた。翔太は慌ただしくスーツを着込み、食パンをコーヒーで流し込むと玄関へ向かった。幼稚園の制服姿の優と岳が目をこすりながら翔太を玄関まで送りに来た。
「パパ、バイバーイ。」
優と岳はゆっくり手を振った。翔太は子供たちに向かって笑顔で手を振ると玄関のドアを開け、さらに門扉を開けて一旦道路に出てから玄関の左脇にある駐車場に向かった。駐車場には川島家の愛車であるメイハツの“プレンティ”が置いてあった。プレンティは5ナンバーの7人乗りのワゴン車で、両側スライドドアと広い室内が特徴のメイハツのヒット作だった。そのプレンティの脇に翔太と麻美の自転車が縦に並んでいた。駐車場の幅は2メートルほどで、プレンティの横に自転車を置くと、人が通れるぎりぎりの幅だった。翔太の自転車が奥に、麻美の自転車が手前に並んでいて、翔太の自転車を出すためには、麻美の自転車を一旦車道に出す必要があった。翔太は職場まで自動車通勤だったが、この日は駅まで自転車で行くつもりだった。麻美はいつも子供たちを自転車の椅子に乗せて幼稚園まで連れて行っていたが、この日は幼稚園で開催されるドッヂボール大会に使う荷物を運ぶため、子供たちを車で送ると言っていた。麻美の自転車を車道に出して自分の自転車を出すのを面倒くさく思った翔太は、玄関のドアを開けて、
「お前の自転車使うから。」
と麻美に声をかけ、玄関の壁に吊るしてある麻美の自転車の鍵を取った。
「わかったー。」
麻美の声がキッチンの方から聞こえた。翔太は麻美の自転車にまたがり駅に向かって走り出した。
翔太は39歳、メイハツ自動車販売会社西東京店の営業部の主任だった。高校は工業高校で自動車整備士の免許を取得し、整備士としてメイハツ自動車販売会社に就職した。入社当時は整備士として勤務していた翔太だったが、気さくな性格とまじめさを所長に買われて営業職に回された。最初は自分には不向きだと思っていた営業職だったが、どんな客にも真剣に明るく応対していた翔太は客からの信頼を得ていき、ディーラー内でトップの営業成績を取るまでになった。翔太は10年前に同じディーラーの事務員だった5歳年下の麻美と結婚した。結婚五年目に長女の優が、七年目に長男の岳が生まれた。翔太達の家は東京都の郊外の高台にある一戸建て住宅で、昨年25年ローンを組んで購入したものだった。翔太の勤務するディーラーは家から車で五分ほどの場所にあり、翔太はいつも愛車プレンティで通勤していたが、この日は都内のホテルでディーラー向けの新車発表会があるため、翔太は駅まで自転車で行き、駅の駐輪場に自転車を置いて都内のホテルまで電車で向かうつもりだった。
翔太は自転車のペダルを漕ぎながら、発表される車について考えていた。翔太はメイハツの車が好きだった。今日発表される車は小型のSUVで、最近盛り上がっているSUV市場に投入されるものだということだった。発表される車の映像はすでに動画で見ているが、実車を見ながら開発者の説明を聞くと、客に車を紹介する際にわかりやすく説明することができる。発表会のことを考えると翔太は自転車のペダルを漕ぐ足に力が入った。翔太の家から駅までは1キロメートルほどの距離があり、家から500メートルほど走ると坂道があった。翔太は坂道を下り始めるとペダルを漕ぐのを止めて、惰力で自転車を走らせた。坂道の勾配は急で、百メートルほどの距離があった。近くにある高校の生徒たちは体育の授業でこの坂道を走るときに、坂の下から上まで登りきると顔面が蒼白となることから、この坂道を【蒼白坂】と呼んでいた。その蒼白坂を下った先には四車線道路との交差点があった。翔太はこの蒼白坂を自転車で下るとき、信号が青ならばスピードを緩めずに進み、信号が赤ならば停止線ギリギリで急ブレーキをかけて自転車を停車させた。坂を下るほど自転車のスピードは上がっていき、翔太が蒼白坂の半分を過ぎたあたりで自転車の時速は40キロメートルに達した。蒼白坂を下った先にある信号が黄色から赤に変わった。翔太は四車線道路の手前5メートルの場所で自転車の前後のブレーキを勢いよく握った。その時バチバチッと音がして前後輪のブレーキワイヤーが切れた。翔太は首筋から背中にかけて悪寒が走ったのを感じた。
「うわー、止まらねー。」
翔太は両足をペダルからはずして踏ん張ろうとしたが、自転車のスピードが出ていたことと、路面が濡れていたことが重なり足は路面を滑った。
「うわー!」
翔太はそのまま交差点に吸い込まれていった。
「ブアーッ!」
大きなクラクションが右側から聞こえてきた。右側を見た翔太の目に大型トラックが飛び込んできた。
翔太が目を覚ますと空が見えた。青く透き通る空だった。どうやら自分は寝ていたらしい。翔太は起き上がり辺りを見回すと、四方は青く澄んだ空間がどこまでも続いていた。
「生きてたんだ、びっくりしたぁ。夢だったんだ。」
翔太は呟いた。
「違います。」
頭上から声が聞こえてきた。低く落ち着いた声だった。
「違います。あなたは生きていません。死んだのです。」
声が続けて聞こえた。
「誰だ。今、しゃべったのは?」
翔太は叫んであたりを見回した。
「人は私を天使と呼びます。」
声が聞こえた。
「天使だって。」
翔太が言うと、声とは不釣り合いの小さな天使が現れた。背中には翼が生え、頭上には輪が浮いていて、手に弓矢を持った赤ん坊が宙を舞っていた。
「あんた、本当に天使なのか?」
翔太は訊いた。
「そうです。人は私のことを天使と呼びます。そういう存在です。私はあなたに、あなたが死んだことを知らせるために来ています。」
無表情な赤ん坊の天使は言った。
「ちょっと待てよ、俺はこうしてあんたと喋っているし、手だって足だってあるじゃないか。」
翔太は自分の手と足を見た。手には時計もしているし、服は出かけた時のスーツを着ていた。
「あなたは死んでいて、この世の中にもう存在していません。ただ、あなたの魂だけがこの空を漂っているのです。」
天使は表情を変えずに言った。
「うっそだろー。そんなこと信じられるわけないよ。」
翔太は笑った。
「信じないのは勝手ですが、あなたの魂は人の時間で四日後には消滅してしまいます。」
天使は言った。
「消滅って、消えて無くなっちゃうってこと。」
翔太は訊いた。
「そうです。消えて無くなります。あなたが魂だけの存在である証拠に、我々は今、地上から10,000メートルの高さにいます。」
相変わらず、表情を変えずに天使が言った。翔太が下を見ると確かに足元に雲があるように見えた。
「本当に俺は・・・。」
翔太が言いかけた時、天使の後方で何かがキラリと光った。よく見るとそれは徐々に大きくなっていった。翔太が
「なんだあれは?」
と言った瞬間、巨大な旅客機が天使の後ろに見えた。翔太は(危ない、ぶつかる!)と思ったが、旅客機は轟音と共に天使と翔太をすり抜けて行った。
「うゎー、死ぬかと思った。」
翔太は呟いて、へたりこんだ。
「死にません。あなたはもう死んでいますから。」
天使は言った。
「信じていただけますね。私のことを。」
天使の問いかけに、翔太はゆっくりとうなずいた。
しばらく翔太はうなだれていたが、やがて、宙を舞っている天使に訊いた。
「なあ、天使さん、俺が死んだのはわかったんだけど、どうして俺の身体は元のままなんだ?」
「あなたの身体は元のままではありません。あなたが想像した姿に見えているのです。私の姿もあなたの想像によって、このように見えているのです。」
赤ん坊の天使が手を広げて言った。
「今の俺の身体も天使さんの身体も、俺の想像の産物ってことか。じゃあ、俺が想像すればあんたはどんな姿にもなるってことか?」
翔太は目をつぶって、麻美の姿を想像した。麻美が翔太の前に現れた。
「麻美!」
翔太は叫んだ。
「私はあなたの奥様ではありません。」
翔太は次に、優の姿を想像してみた。優が翔太の前に現れた。
「優!」
翔太は叫んだ。
「私は娘さんではありません。」
天使は言った。翔太は岳の姿を想像してみた。岳が翔太の前に現れた。
「岳!岳!」
叫びながら翔太は泣いた。大きな声で。しかし、その声が空に響くことはなかった。
翔太は大きな声で泣き続けていた。天使は翔太が泣き終わるのを待っていた。やがて翔太は泣くのをやめて、目を閉じた。翔太はテレビのクイズ番組【チャレンジ25】の田島清二を想像した。天使は田島清二の格好で無表情に立っていた。翔太は
「その姿が、あんたの声に一番しっくりくると思う。」
と言った。そして、
「それで・・・、俺はこのまま四日後に消えてしまうのか?」
と天使に訊いた。
「はい、死んだ日から五日後に魂は消えてしまいます。あなたが亡くなったのは昨日ですので、今日を入れて四日後に消えます。ただですね、あなたの魂が消えてしまう前に一つだけ願いを叶えることができます。」
天使は言った。
「え、そういうものなの、人って死ぬと?」
翔太は訊いた。
「いいえ、特別です。特別にあなたの願いを一つ叶えることができます。」
天使は答えた。
「なんで、俺だけ特別なの、そうか、俺生きてるときにいいことしたからな。」
翔太は言った。
「違います。本当はあなたが死ぬはずではなかったからです。」
天使は言った。翔太は自分が麻美の自転車に乗って事故にあったことを思い出した。
「まさか?」
翔太は呟いた。
「そうです。本当は奥様とお子様がお亡くなりになるはずでした。」
天使は言った。翔太は自転車で麻美と子供たちがダンプカーにはねられることを想像して、両手で目を覆った。
「こういうケースでは、亡くなった方へ願い事を一つ叶えて差し上げることになっています。」
天使は言った。
「そうなんだ。願い事を聞いてもらうって言っても、もう俺死んでるからな・・・。そうだ、俺を生き返らせてくれ。」
翔太は言った。
「それは無理です。」
天使は言った。
「そうか、そうだよな。」
翔太はそう言うと少し考え込み、
「少し時間をくれないか?考えたいんだ。」
と言った。
「結構です。ただし、あと四日間であなたの魂は消えてしまうことを忘れないでください。あなたが消えるまでに願い事を決めなければ、願い事を叶えることができなくなります。それと、どこかへ行きたいと思ったときは行きたいところを想像してください。どこへでも行くことができます。私に会いたくなったら、私を呼んでください。どこへでも参ります。」
天使は言った。
「わかった。」
翔太が言うと、天使は消えて行った。
「どうしようかな。」
空の上を飛びながら翔太は呟いた。
「願いを叶えるって言っても、俺死んでるしなー。」
天使への願い事が決まらない翔太は、家族の姿を見たくなったので地上に降りることにした。
翔太は自分が住んでいた川島家の前にいた。
「すげー、これならどこにでも瞬間移動できるな。」
翔太は瞬間移動できる自分に感動した。
翔太は家の中に入ろうと門扉のノブを握ったが、握ることはできず、そのまま通り抜け、忌中札が貼られている玄関ドアも通り抜けて家の中に入った。家の中は何も変わっていなかった。玄関には麻美と子供たちの靴以外に男女の大人用の靴が揃えられていた。麻美の実の父親の福本宏と母親の和代が来ているようだった。宏は、他市の市役所に勤務する地方公務員で、三日ほど忌引き休暇を取っていた。和代は専業主婦だった。宏と和代は、川島家から10キロメートルほど離れた自宅に住み、川島家までメイハツの四ドアセダン車“カーザ”で来ていた。
左奥のリビングから子供たちの騒ぐ声が聞こえた。翔太がリビングに入ると、宏と優と岳が遊んでいた。リビングの壁に掛けられた時計の針は一時を指していた。
「待て待て、こら待てー。」
節分の時に優が幼稚園で作った鬼の面を宏がかぶって、優と岳を追いかけまわしていた。子供たちは「キャー」と言いながら逃げていた。無邪気に遊ぶ子供たちを翔太は抱きしめたくなった。翔太が子供たちに近づくと、岳が翔太の方を見て、翔太に向けて指を指し、
「あ、パパだ、パパがいるよ。」
と言った。優は岳が指す指の先を見て、
「本当だ、パパだ。パパが来たよ。」
と言った。(え、優と岳には俺が見えるのか?)嬉しくなった翔太はさらに子供たちに近づこうとしたが、急に子供たちの姿は小さくなっていった。(あれ、なんで?)気付くと翔太は家の前にいた。後ろを振り向くと天使がいた。
「幼い子は、時に、あなたのような状態の方を見ることができます。」
天使は言った。
「俺みたいな状態って、幽霊ってことか?」
翔太は訊いた。
「人間界ではそういう言い方をしています。」
天使はそっけなく言った。
「いいじゃないか、子供たちと遊んでも、俺はあの子たちの親だぞ。」
翔太はムッとして言った。
「あなたはもう親ではありません。死んでますから。もし、あなたが子供たちと遊んでいるところを、あなたを見ることができない大人たちが見たらどう思うでしょう?子供たちのことを心配して、病院へ連れて行くかもしれません。」
天使が言った、天使に親じゃないと言われて翔太はショックを受けた。
「俺はもう親じゃないんだ。」
翔太は呟いた。
「壁などに隠れればお子様たちから見られなくなります。」
天使は言った。
「わかったよ、子供たちには近づかないよ。」
翔太はそう言って、家の中に入った。翔太の家は一階が客間とリビングとキッチンで、二階の東側に寝室、西側に子供部屋、寝室と子供部屋を挟んだ真ん中に衣裳部屋があった。子供部屋は優と岳の兼用で、将来子供たちが大きくなったら衣裳部屋も子供部屋にするつもりだった。翔太は二階の寝室に行った。麻美と和代がいた。麻美は寝室にある電話機の受話器を握り、誰かと話をしているようだった。和代はバルコニーに出てタバコをふかしていた。
「はい…。はい…。わかりました。よろしくお願いします。」
麻美はそう言って受話器を電話機に置いた。
「なんだって?」
和代はバルコニーから麻美に訊いた。口の周りがタバコの白い煙に包まれた。
「葬儀屋さん、二時に来て葬儀の打ち合わせするって。」
麻美は受話器に手を置いたまま言った。
「あ、そう、じゃあそれまでに遺影に使う写真準備しなくっちゃね。」
和代はタバコの先をバルコニーの壁に擦り付けて火を消すと、吸殻を携帯灰皿にしまい、バルコニーから部屋の中に入ってきた。うつむいている麻美に向かって和代は少し苛立ちながら言った。
「あんた、いつまでもクヨクヨしてるんじゃないよ。クヨクヨしたって翔太さんは戻ってこないんだからさ。」
「わかってるけど、そんなことわかってるけど。」
麻美は我慢できずに、両手で顔を覆って泣き出した。和代は困った顔で麻美を見た。麻美の泣き声を聞いて一階から優と岳が上がってきた。翔太は子供たちに見つかってはまずいと思い、バルコニーに出た。寝室に入ると優が和代に向かって怒りながら言った。
「ばあばちゃんだめでしょ。ママを泣かしたら。」
岳は泣いている母親の傍らに行き、もらい泣きをして、泣き出してしまった。麻美は泣きながら岳を抱きしめた。宏が難しい顔で寝室に入ってきた。
「さあさあ、優ちゃんたち、じいじとアイス買いに行こう。」
優は宏の誘いにすぐにのった。
「優ちゃんイチゴアイスがいい。」
岳は泣き止んで、
「僕も行く。アイス食べる。」
と言って、麻美から離れ宏の元へと走った。宏は子供たちを連れて外に出て行った。麻美は泣きながら、昨日の朝のことを思い出していた。
麻美は翔太が出かけた後、すぐにプレンティに子供たちを乗せて幼稚園に向けて走っていた。幼稚園に到着したとき、麻美のスマートフォンに警察から電話がかかってきた。警察は翔太が交通事故にあい、市内の救急病院に搬送されたことを伝えた。麻美が救急病院に駆けつけると、そのまま病室へ案内された。病室の寝台に翔太が横たわっていた。医師は麻美に翔太は自転車を運転中にダンプカーにはねられ、ほぼ即死の状態で病院に運び込まれた、こちらでは手の施しようがなかったと麻美に伝えた。麻美は翔太の死を受け入れることができず、翔太の遺体を前にしてただ呆然と立ち尽くしていた。遺体は病院に紹介してもらった葬儀屋に預かってもらうことになり、その葬儀屋で通夜や葬儀を行うことを決め、葬儀屋の担当者と連絡先を交換して帰宅したのだった。
「あんた、これからどうするんだよ。住宅ローンは団体保険でチャラになるけど、貯金はあんのかい?翔太さんは生命保険に入っているの?これから子供二人育て行けるの?」
和代が麻美に向かって訊いた。和代は無神経な性格で、時と場所を選ばずに言いたいことを言う人だった。
(そうだ、俺、こないだ生命保険解約してたんだ。)翔太は思った。翔太は先日、自分が契約している生命保険会社が経営危機であることをどこかの週刊誌の記事で知り、契約している生命保険を解約した。そして、別の生命保険会社で新たに契約しなければと思っていたところだった。
「天使さん、天使さん。」
天使が翔太の前に現れた。
「なあ、天使さん。俺死ぬ前に生命保険解約してたんだ。例の、願い事さ、残された家族にお金あげて欲しいんだけど。」
翔太は天使に向かって訊いた。
「無理です。人間界の金を動かすことはできません。」
天使は無表情に言った。
「なんで、銀行の数字をちょっといじるだけじゃん。」
翔太は天使に頼んだ。
「無理ですよ。」
天使はきっぱりと言った。
「だめか。」
翔太は、家族のために金を残せなかったことを後悔した。優と岳が成長して中学、高校、大学へと通うだろう。子供たちが成長するのに一体どれだけお金が必要なのだろうか?年頃になれば、他にもお金が必要になることもあるだろう。
「言いたくないけど、葬儀の費用はあたしたちが持つけど、これからどうするか考えないといけないよ。言っちゃ悪いけど翔太さん、家族のこと何にも考えていなかったじゃない。」
和代は大声で翔太を馬鹿にするように言った。
「わかってるわよ。あたしが、働きに出て二人を育てるから。」
麻美は決意した目で言った。
「そんな甘いもんじゃないよ、女手一人で育てるなんて。テレビドラマとかで格好良くやってるけど。」
和代は麻美を馬鹿にしたような目で言った。
「お母さん、専業主婦でしょ。何がわかるって言うのよ。」
麻美は和代を睨んで言った。プライドが傷つけられた和代も、麻美を睨んだ。
「ただいまー。」
宏の声が聞こえてきた。麻美は和代をよけて部屋を出て階段を下りた。宏と優と岳がアイスを持って玄関ホールに立っていた。
「お帰りなさい。じいじにアイス買ってもらった?」
麻美は優に向かって訊いた。
「うん、じいじにイチゴアイス買ってもらった。」
優が棒付きアイスの袋を持ち上げて麻美に見せた。岳も優の真似をした。
「さ、アイス溶けないうちに食べなさい。」
麻美は優と岳をリビングへ連れて行った。宏と和代もリビングの中に入った。
麻美は、翔太の遺影に使う写真を選ぶために、翔太が撮影された写真の入ったアルバムと画像データが入ったノートPCをリビングテーブルの上に置いた。翔太は駐車場側の窓から、家の中を見ていた。
約束の時間の十分前にやってきた葬儀屋は、家族に深々と頭を下げた。麻美はリビングのソファに葬儀屋を座らせ、翔太の写真が入ったアルバムや画像について説明した。宏が子供たちを子供部屋に連れて行った。子供たちがいなくなったところを見計らって翔太はリビングに入った。麻美と和代と葬儀屋で一緒に翔太の写真を見ながら、通夜と葬儀に使う遺影について相談した。結局、遺影は職場で名札に付けている写真を選んだ。三年前に翔太が主任になるときに新たに撮影したものだった。翔太が真剣な面持ちで正面を見ている。他の写真はふざけている顔ばかりで、葬儀屋さんから遺影に使うのはふさわしくないと言われた。その後通夜と葬儀の日程、費用などについて打ち合わせをして、葬儀屋は帰っていった。宏は子供たちを子供部屋に残して、リビングに入ってきた。
「あたしたちの親戚には、翔太さんの通夜と葬儀の日程伝えとくから、あんたは翔太さんの親戚に連絡しといてくれよ。」
和代が麻美に確認した。
「昨日、隆おじさんに連絡したら、京都の親戚全員に連絡してくれるって言ってくれた。」
翔太の両親は三年前に自動車事故ですでに他界していた。両親の実家は京都あり、翔太の父の兄の隆が住んでいた。
「あー疲れた。お父さん、帰りましょうよ。」
和代は言った。
「じゃあ、お父さんたち行くから、明日、昼ぐらいに来るよ。」
宏と和代は車に乗って自宅へ帰って行った。
宏と和代が帰った後、麻美はアルバムの中でふざけている翔太の姿を見つめていた。 翔太は人を笑わせることが好きだった。麻美は時に自分を犠牲にしても人に気を遣う翔太が好きだった。翔太はアルバムと並び、中の写真と同じ顔で麻美を見ていたが、麻美には見えなかった。
二階から子供たちが降りてきた。翔太は子供たちから逃げるように外へ出た。麻美はいつものように、子供たちと夕食を食べ、歯を磨き、風呂に入り、寝室へ行った。いつもと違うことは翔太がいないことだけだった。麻美が寝室に布団を並べると子供たちは布団の上に横になり、すぐに眠ってしまった。麻美も岳の横に並んで横たわりすぐに眠ってしまった。翔太はいつものように優の横に横たわった。翔太には死ぬ前と同じ光景が見えた。
「お子様たちが起きたら大変ですよ。」
天使が翔太の横に現れて、ささやいた。
「わかってるよ。」
翔太は起き上がると、家から出て行った。魂だけになると眠ることはない。ただ、ひたすら時間だけがすぎていくのだ。翔太は夜の街を浮遊したが、面白くないので、日本を縦断しようと決め、北海道へ向かった。
翌日、翔太は北海道から沖縄まで、ゆっくりと日本を縦断した。初めて見る風景に感動したが、物も買えない、食べ物も食べられない旅行はテレビの画面を見ているようで味気なかった。
その夜、翔太は川島家の近所の葬儀場で行われている自分の通夜を見に行った。親戚や職場の同僚、近所の人などが通夜に訪れた。残された家族を不憫に思ってか、麻美のママ友が泣いていた。弔問している職場の同僚の中に金井を見つけた。いつもおちゃらけているやつだが、神妙な顔をしている。(金井は宝くじで百万円くらい儲けたって言ってたな。)翔太は以前、金井が宝くじが当選して自慢した時のことを思い出した。(そうだよ、宝くじ当たった金井が羨ましくて俺も宝くじ買ったんだった。)翔太は自分が買ったロトくじのことを思い出した。(ロトくじ当たらなかったなー。ん、待てよ、まだ抽選していないのがあるはず。)翔太はロトくじを十回分継続して買っていたので、抽選日が来ていないロトくじを持っていたことを思い出した。翔太は買ったロトくじを通勤用のバッグの内側にあるポケットに入れていた。翔太はすぐに川島家に戻り、通勤用バッグを探した。いつも翔太がバッグを置いていた衣裳部屋に行くと、タンスの上に通勤用のバッグを見つけた。事故の時に車に踏まれなかったのか、バッグは原型をとどめていた。
「天使さん、天使さん。」
翔太は天使を呼んだ。
「なんでしょうか?」
天使も寝ないのだろうか、すぐに翔太の前に現れた。
「ロトくじの当選番号を、好きな数字にすることはできる?」
翔太は訊いた。
「できます。」
天使は言った。
「やったー、俺が持っているロトくじの番号を当たりにしてほしいんだ。」
翔太が言った。
「“あなたが持っていた”が正しいですけど。」
天使が言った。
「そうだけど、俺が前に買ったロトくじがバッグの中に入っているんだ。その番号を当たりにしてくれ。」
翔太は早口でまくし立てた。
「承知しました。番号はわかりますか?」
天使は訊いた。
「もちろん。1、2、5、10、16、31の六つ。」
翔太は答えた。翔太はロトくじの番号は自分を含む、家族の誕生日の数字を組み合わせて選んでいた。
「かしこまりました。抽選日は?」
天使はまた訊いた。
「たしか、明日だと思う。」
翔太は言った。
「では、明日のロトくじの抽選で先ほどの番号を当選番号にします。」
そう言って天使は消えた。
「やったー。」
翔太は思わず声を出した。安心した翔太は世界の国々を周ろうと決め、行ってみたかったところに片っ端から行った。エジプトのピラミッド、スペインのサグラダファミリア教会、オーストラリアのエアーズロック、実物は写真とは違い、迫力があったが、やはり何もできないのはむなしかった。
翌日は翔太の葬儀だった。葬儀は近親者のみで行い、翔太の遺体は火葬場で焼かれた。翔太は自分の身体が焼かれていく姿を見て、自分がもう【この世の物】ではないことを実感した。子供たちは自分の父親が死んでしまったという実感が無いようで、はしゃぎながら火葬場を走りまわっていた。
夕方、翔太は東京都内の宝くじドリーム館にいた。ロトくじの抽選番号が本当に自分の持っている券と同じになるかを確かめるためだった。会場には観客席があったが、客はまばらで、各々がスマートフォンを操作していた。正面のステージ中央に本数字抽せん機と書かれたプラスチック製の装置が置かれていた。
翔太は周りを見渡したが、天使の姿はなかった。
「天使さん、天使さん。」
翔太が天使を呼んだが、天使は現れなかった。
(ちょっと、天使!いつもはすぐ出てくるのに、なんで今現れない?)
翔太が心配していると、抽選が始まった。係の人がたくさんの球を透明なプラスチック製の容器に流し入れた。容器の中で、これでもかというくらい球が混ざり合った。
(抽選始まっちゃったよ。)
抽せん機を見ると、球が高速に回転し、トレイから落ちる直前の段階に来ていた。
(やばい、もう球が落ちてくるじゃん。)
翔太があたりを見回すと、天使は抽せん機の前に現れた。翔太はほっとして天使の近くに行った。天使は無表情に本数字抽せん機を見ていた。最初のボールがトレイから落ちた。1だった。翔太はほっとして、天使を見たが、天使は相変わらず無表情だった。続いて、2、5、10、16、31の数字の球が落ちた。翔太は思わずガッツポーズして言った。
「やったー、当たったー。すごい、やるじゃん天使さん!」
翔太に話しかけられた天使は、
「あなたの望みは叶えました。では、失礼します。」
そう言って消えてしまった。翔太は住んでいた家に行った。
衣裳部屋に入った翔太は
「これで、みんなに金を残せるな。」
と呟いてバッグを見ていたが、
「待てよ、このくじのことを麻美に言ってなかったぞ。」
翔太は会社の帰りに、帰り道にあるスーパーマーケットに寄って、晩酌用のビールとツマミを買うことがあり、その時に宝くじの販売ブースでロトくじを買っていたのだ。翔太はロトくじが当たったら、住宅ローンを完済して、自分の給料では手が出ないメイハツの最高級スポーツカーGGRを買おうと決めていた。翔太は麻美にロトくじを買っていることを伝えていなかった。
「しまったー。どうやって麻美にロトくじのことを教えよう。」
翔太は天使を呼んだ。
「天使さん。天使さん。」
天使はすぐに現れた。
「何でしょうか?もうすでにあなたの願い事を叶えて差し上げましたが・・・。」
天使は言った。
「麻美に俺が当選したロトくじ持っていることを伝えてほしい。」
翔太は頼んだ。
「無理です。願い事は一つだけと言いました。」
天使はそっけなく言った。
「固いこと言うなよ、当たりくじが見つからなかったら意味ないじゃないか。」
翔太はムッとして言った。
「用件はそれだけですか?失礼します。」
天使は消えた。
「あ、ちょっと待てよー。」
翔太が言っても、天使は現れなかった。
「もういいよ、自分で麻美に教えてやる。」
翔太は、リビングの中に入った。翔太の遺骨がテレビ台の横に置いてあった。宏と和代が喪服のままでテレビを見ていた。麻美はキッチンで洗い物をしていた。翔太は麻美のいるキッチンへ行った。麻美はシンクの前に立ち、茶碗を洗っていた。翔太は麻美のそばに行くと、麻美に向かって話をした。
「なあ、麻美よく聞いてくれ、俺の通勤用バッグの中に当たりくじが入っている。」
翔太は麻美の肩に手をかけたが、麻美は翔太に全く気付くことなく、リビングでテレビを見ている和代に声をかけた。
「お母さんあたし買い物行ってくる。子供たちお願い。」
和代は麻美に向かって
「缶酎ハイ買ってきて、缶酎ハイ。」
と言った。麻美は家から出ると、家から歩いて二分の距離にあるスーパーマーケットまで歩いた。翔太は麻美の傍でずっと麻美に言い続けた。
「なあ、麻美わからないのか俺が、俺だよ翔太だよ。通勤用バッグの中のロトくじ当たってるんだって。」
麻美には霊感がまったく無いらしく、翔太の幽霊に気付くことはなかった。前方から犬を連れた老人がこちらに向かって歩いてきた。麻美とすれ違う時、老人の連れた犬が翔太に気付いて牙を剥いて老人の持つリードを引っ張りながら吠えた。麻美は自分が吠えられたと思い、犬から遠ざかるように道路の反対側の端を歩いた。老人は犬を叱りつけ、バツが悪そうに麻美に会釈して犬を引きずって去っていった。
(どうやら、麻美に言ってもダメみたいだ。)
翔太は麻美に伝えるのをあきらめ、今度は子供部屋の中に入った。優と岳がテレビアニメの大人気キャラクター「モグラのモーグ」の遊具を使って遊んでいた。遊具は【モグラのモーグのお話遊び】でA4サイズのパネルに“あ”から“ん”まで並んだ五十音のスイッチにアニメのキャラクターの絵が描かれているものだった。例えばモーグが描かれたスイッチを押すと“も”と発音するのだ。岳が壁際に浮いている翔太に気付いた。
「あ、パパだ。」
優が振り向いて翔太を見ると
「本当だパパだ。」
優と岳は翔太に近づいた。翔太は唇に人差し指を当てて
「しーっ、静かにしないとみんなが来ちゃうよ。」
と言ったが、優と岳には翔太の声は聞こえなかった。優は翔太のように唇に人差し指を当てて、首をかしげて
「なあに、どうしたのパパ、モグラのモーグで遊びたいの?」
と翔太に訊いた。
(そうか、俺の声は子供たちに聞こえないんだ。そうだ、このおもちゃを使ってロトくじのことを伝えることができるかも知れない。)翔太は【モグラのモーグのお話遊び】のところに行き、遊具の上側に座って、子供たちを手招きした。優が遊具を挟んで正面に座り、岳が遊具の左横に座った。
「じゃあ、パパも一緒に遊ぼ。」
翔太を見ながら優が言った。
「一緒に遊ぼ。」
岳も翔太を見ながら言った。
翔太は頷くと、スイッチを指さした。
「なあに、これを押すの?」
優が訊いた。翔太が頷くと優がスイッチを押した。
“し”と発音した。翔太は小さく手を叩いた。
「これでいいの?」
と優は訊いた。翔太は大きく頷くと、“よ・う・た・の・ば・つ・ぐ・に・た・か・ら・く・じ”と次々に指さして言った。“ば”は“は”に、“じ”は“し”に濁点をつけて押した。優は翔太の言う通りにスイッチを押していった。そして
“しようたのばつぐにたからくじ”と発音することに成功した。
翔太は優の頭を撫でたが、頭の上を翔太の手がかすめただけだった。
「僕もやるー。」
岳が言った。優と交代して岳が遊具を挟んで翔太の前に座った。翔太が指さしたスイッチを岳も押して言った。岳も
“しようたのばつぐにたからくじ”を発音させることに成功した。
翔太は岳の頭も撫でた。翔太は本当に子供たちと遊んでいるような気持ちになった。それから翔太が三回優に練習させると翔太が指をささなくても優は“しようたのばつぐにたからくじ”を押すことができるようになった。翔太が笑いながら優の頭を撫でていると、階段を上ってくる足音がした。壁の時計を見ると夜の八時を回っていた。翔太はとっさにバルコニーへ逃げた。優と岳がバルコニーに出て行く翔太を追いかけた。麻美が子供部屋に入ってきた。後から宏と和代も入ってきた。
「優ちゃん、岳ちゃんもう寝るわよ。」
優と岳が麻美のところに走ってきて、
「ママ、パパがいたよ。パパが。」
優が言った。
「パパがいた。」
岳も言った。
「まあ、うそでしょ。パパは死んじゃったのよ。」
麻美が言った。
「だって、いたんだもん。」
優が言った。
「あら、やだ、翔太さんの幽霊見たんじゃないの優ちゃんは?」
和代が言った。麻美は不安げな表情で優と岳を見た。
「パパとね、いっしょに【モグラのモーグ】で遊んだの。見ててね。」
優が【モグラのモーグお話遊び】の前に座り
“しようたのばつぐにたからくじ”を押そうとした。麻美、宏、和代は優の周りに座って優を見ていた。翔太は子供たちに見つからないようにバルコニーから頭だけを出して子供部屋の中の様子を見ていた。優は
“し・よ・う・た・の・ば・つ・ぐ・に・た”
まで順調に押すことができた。麻美は発音された言葉をつなげていった。
「しようたのばつぐにた」
しかし、優は次で迷ってしまった。
「えーっと、えーっと。わかんなくなっちゃった。」
優は次の字を悩んでもう一度“た”を押した。翔太はバルコニーから
「違う、優、次の字は“か”だ。」
と叫んだ。
「しようたのばつぐにたた…。」
麻美が言うと、
「パパは翔太のバッグにたたりって言ったの、優ちゃん?」
と和代が優に訊いた。宏と麻美が驚いて優を見た。
「うーんわかんない。優わかんなくなっちゃった。」
優は言った。麻美は
「もう遅いから寝ましょ、優ちゃんも、岳ちゃんも下に行って歯磨きするわよ。」
と言って子供たちを連れて行った。宏と和代も麻美と子供たちに続いて階下へ降りて行った。
「まずいなー。せっかくいいところまでいったのに。」
翔太は呟き、宏と和代の後を追った。
宏と和代は一階のリビングに戻り、ソファに座った。翔太は駐車場側の窓から中の様子を伺った。和代は缶酎ハイを飲みながら、
「おっそろしいな、翔太さんのバッグに祟りがあるなんてよ。バッグを神社で供養してもらわなきゃいけないね。」
と言った。宏は
「でも、おかしいな、翔太君が自分のバッグに祟りをかけたりするだろうか?」
と首をひねった。
「お父さん、違うんだよ。あのバッグに祟りがあったから、翔太さんがトラックにはねられたんだよ。だって、考えても見なさいよ。翔太さんが乗っていた自転車のブレーキは両方とも切れたんだっていうじゃない。何かに祟られてるとしか考えられないでしょ。翔太さんは優ちゃんを通して、あのバッグは祟られてるから早く神社で供養してもらって処分しろって、わざわざあの世から伝えに来たんだよ。それしか考えられないね。あんな祟られたバッグを持ってたら、他のみんなも祟られちまうよ。」
和代は大きな声で言った。
「違いますよ、お義母さん。バッグに祟りなんてないんだって。」
翔太は宏と和代に向かって叫んだが、二人が翔太の叫び声を聞くことはなかった。(まずい。このままではせっかくの当選券が紙くずになってしまう。)翔太は頭を抱えた。
麻美がリビングの扉を開けると、歯磨きを終えたパジャマ姿の優と岳が中に入ってきた。宏と和代に向けて
「じいじ、ばあば、お休みなさい。」
二人は声をそろえて言うと、二階の寝室へ上がっていった。麻美が
「じゃあ、子供たち寝かしつけるから。」
と言った。
「じゃあ、私たちは帰るよ。」
宏はそう言うとソファから立ち上がり、ほろ酔い気分の和代を引っ張って玄関から出て行った。麻美は玄関まで宏と和代を送ると、二階の寝室へ上がっていった。翔太は麻美について行った。すでに優と岳は自分たちが寝る定位置に横たわって眠っていた。麻美はその日一日の疲れを感じながら、岳の横に横たわり寝てしまった。翔太は麻美と優と岳の寝顔を見つめながら、バッグの中にあるロトくじを知らせるすべを考えていた。
「あと二日で俺は消えてしまう。消える前に当たりくじのことを麻美に知らせなきゃ。」
翔太は呟いて、空へ飛んで行った。
翌朝、麻美は優と岳を幼稚園へ送る準備をしていた。麻美は、この日から子供たちを通園させることにしたのだった。翔太は駐車場側の窓から家の中を見ていた。子供たちは眠い目をこすりながら幼稚園の制服を着こむと麻美と共に家を出て、駐車場の車の方に歩いてきた。外は小雨が降っていたが、傘をさすほどではなかった。翔太は今度は家の中に入り、車の真横で、家の中から子供たちを見た。車の後席に乗り込んだ子供たちに麻美がシートベルトを装着しているとき、優が翔太を見つけた。
「あ、パパだ。ほら、パパがいるよ。」
「本当だ、パパだ。パパー。」
岳は首を前に出して翔太を見て手を振った。翔太も子供たちに向けて手を振った。
麻美は振り向いて家の中を探したが、翔太を見つけることはできなかった。
「ほら、ドア閉めるわよ。お手々はお腹の上に置いて。」
麻美は後席のスライドドアを閉め、助手席から車に乗り込むと車を走らせた。翔太は麻美たちを見送った後、二階の衣裳部屋へ行き、ロトくじの入ったバッグを見ていた。
「俺は明日消えてしまう。早く麻美にロトくじのことを教えなければ・・・。」
翔太はバッグを持ち上げようとしたが、掴もうとする手は空を切った。翔太はなんとかバッグの中のロトくじを出そうと試みた。
三十分後、ドアが開く音がして、和代が家の中に入ってきた。和代は麻美から家の合鍵を預かっているので勝手に川島家に出入りすることができるのだ。和代は一人で川島家にカーザで来たのだった。翔太は一階に降りた。和代はリビングに入るとソファに腰かけた。翔太は和代と対面する場所に浮いていた。和代は勝手にキッチンに行き、茶を入れるとリビングのソファに座って茶をすすり、リビングを見回していた。そして、突然立ち上がり、客間へ行ってタンスの引き出しを開けていった。和代の動きを見て、翔太は(やばい、お母さんバッグを捨てる気だ。)と思った。翔太は和代の前に立ちふさがり、「止めてください、お義母さん!」と言ったが、翔太に和代の行動を止めることはできなかった。和代は客間のタンス、押入れの中を物色していった。一通り一階を探り終えた和代は、両手を腰に当てて一息つくと、
「ここには無いようだね。」
とつぶやいて、二階へ上がっていった。翔太のバッグは二階の衣裳部屋に置いてあった。翔太は和代を追いかけた。
和代は東側の寝室に入って物色を始めた。寝室にはクローゼットがあり、布団や衣装ケースなどが置いてあった。和代は翔太のバッグがどんなものかはわからなかったが、とりあえず男物のバッグを探した。寝室の物色が終わった後、和代は真ん中の衣裳部屋に入った。
「まずいよ、バッグ捨てられちゃうよ。」
翔太は叫んだ。和代は衣裳部屋でタンスの引き出しを開けて物色を始めた。
ドアが開いて、幼稚園から戻ってきた麻美が玄関から入ってきた。
「お母さん、来てるの?」
一階から麻美の声がした。翔太は一階に降りて行き、麻美に向かって
「麻美、大変なんだ。お母さんが俺のバッグを捨てようとしている。」
と言った。勿論麻美には翔太の声は聞こえなかった。麻美は二階へ上がってきて、衣裳部屋で和代を見つけた。
「お母さん何やってるのよ。」
ついに翔太のバッグを見つけた和代は、手に持ったバッグを振りながら。
「翔太さんのバッグこれだろ。祟りがあるから神社で供養してもらって焼いてもらうんだよ。」
と言った。
「何言ってるの、お母さん。翔太さんの遺品あたし捨てる気ないから。勝手なことしないでよ。」
麻美は怒鳴った。
「そんなこと言ったって、昨夜優ちゃんが翔太さんのバッグに祟りがあるって言ってたじゃない。」
和代は言った。
「祟りなんてないわよ。翔太さんのバッグに祟りなんてあるわけないじゃない!もう帰ってよ。」
麻美は翔太のバッグを抱きしめて言った。和代は
「あたしは、あんたのためを思って言ってるんだよ。」
と、もそもそと言いながら家から出て行った。
(まいったなー、このままじゃ、お義母さんにバッグ捨てられちゃうよ。)
翔太は思った。
「天使さん、天使さん。」
翔太が言うと傍に天使がいた。
「何でしょうか?」
天使が訊いた。
「俺、明日消えちゃうんだよね。」
翔太が訊いた。
「はい、消えます。消えるのが怖いとかそういうことですか?」
天使が訊き返した。
「いや、怖くはないんだ。ただ、家族の姿を見れなくなるのと、せっかく当たった宝くじを麻美に教えられないのが残念なんだ。」
翔太は言った。
「奥様が眠っているときに、夢の世界に入り込んで話をすることはできますよ。」
天使は当たり前のように言った。
「え、そうなの?そういうものなの?」
翔太は訊いた。
「できますよ。夢の中に入りたいって思うだけです。」
天使は言った。
「なんだよ、早く言ってよ。じゃあ、今晩麻美の夢の中に行ってみよう。」
翔太が言い終わるときには天使はいなくなっていた。
その夜、翔太が寝室に行くと、麻美は優と岳に並んで横になって寝ていた。壁から優、岳、麻美の順番に並んでいた。翔太は麻美の近くに行き、(麻美の夢の中に入りたい)と思った。次の瞬間、翔太は麻美の夢の中に入った。夢の中は家族で良く行く公園で、時刻は夜だった。麻美と優と岳の三人は浴衣姿でしゃがんで手持ち花火で遊んでいた。麻美は夏の日にみんなで花火をしている夢を見ているようだ。翔太が近づくと、麻美は翔太に向かって微笑んだ。隣にしゃがんだ翔太に、麻美は火のついていない手持ち花火を袋から出して渡した。翔太は受け取った花火に火をつけた。手持ち花火は鮮やかな光を放って火を噴射した。勢いよく火が出たことに驚いた翔太を見て麻美が笑った。その光景はまるで本当に家族で花火をしているようだった。翔太は麻美に向かって話しかけた。
「なあ麻美、俺のバッグに入っているロトくじが一等の当選をしている。早く取り出してほしいんだ。」
「あなたのバッグにそのロトくじが入っているの?」
麻美は訊き返した。
「そうだ、バッグの…。」
翔太が言おうとしたとき、巨大な足が空から降ってきた。翔太は驚いて麻美の夢の中から飛び出た。寝相の悪い岳の足が麻美の頭に当たったのだった。麻美は一瞬目を覚ましたが、すぐに目を閉じて眠りに落ちた。翔太はこれで大丈夫と思い、空高く昇って行った。
翌朝8時、空から翔太は川島家に向かった。空は曇っていた。翔太はキッチンへ入った。麻美はキッチンで朝食の準備をしていた。(麻美は昨夜の夢を覚えているだろうか。今日で自分は消えて無くなってしまう。和代は俺のバッグを供養すると言って捨ててしまうだろう。その前に麻美がバッグの中のくじを見つけてくれればいいんだが。)翔太はそう思うと、言い知れない焦りを感じた。リビングを覗くと、幼稚園が休みの子供たちは朝早くから起きてパジャマ姿でテレビ番組を見ていた。麻美が朝食をダイニングテーブルの上に並べていると、玄関のインターホンが何度も鳴った。麻美がインターホンの親機に出ようとすると、玄関のドアが開き、和代が見知らぬ年配の女性を連れて中に入ってきた。麻美と翔太は玄関ホールに行き、和代を出迎えた。
「おはよう、麻美。やっぱり翔太さんのバッグ祟られてるかもしれないって。この人、うちの裏に住んでる村越さん。霊感が強いんだよ。昨日、村越さんに相談したら、翔太さんのバッグ怪しいから見てくれるって言ってくれたの。」
和代は大きな声でまくしたてた。村越は黒いセーターを着た痩せた女性で、個性的な眼鏡をかけ、手には数珠を持っていた。
「おはようございます。」
麻美は村越に向かって挨拶した。村越は焦点の合わない目で麻美を一瞥した。
「ふむふむ、やっぱりいるわね。このお宅には、霊がいますわよ、奥様。」
村越は玄関で靴を履いたまま家の中を見回して言った。翔太は麻美の後ろにいたのだったが、村越は翔太に気付いていないようで、村越の視線は翔太を捕えていなかった。
「ちょっと、あのバッグ村越さんに見てもらうから。さ、行きましょ村越さん。」
和代はそう言って村越と共に家に上がった。
「ちょっと、お母さん。」
麻美は止めようとしたが、和代は麻美に構わず、村越を連れて二階へ上がった。和代は迷わず、衣裳部屋に行って翔太のバッグを手に取った。麻美が和代と村越の後から衣裳部屋に入った。翔太が後に続いた。
「これよ、このバッグ。どう、村越さん、見てちょうだい。」
和代が翔太のバッグを村越に渡した。和代からバッグを受け取った村越はバッグを様々な角度で見て、
「ふむふむ。なるほど、このバッグは祟られているようですわ、奥様。」
と言って和代を見た。
「奥様、何か最近変わったことはありませんでしたか?」
村越が麻美に訊いた。麻美は昨夜の夢を思い出した。
「そういえば、昨夜、主人の夢を見ました。」
麻美は言った。
「それで、ご主人は何か言っていませんでしたか?」
村越は焦点の合わない目で麻美を見た。麻美は首をかしげて昨日の夢を思い出して
「たしか翔太さん“バッグの中にろとくじらが一頭いる”とか言っていたような…。」
と言った。
「それだわ。ろとくじらの霊がこのバッグに取り憑いているのよ。ご主人はそれを知らせに夢の中に出て来たのだわ。ご主人の不幸も恐らくこのバッグが原因だわ。」
村越は自信たっぷりに言った。
「うそだろ、ろとくじらってなんだよ!そんな動物いないだろ!」
翔太は叫びながら村越の眼前に降りて、両手を大きく回したが、村越は翔太に気付くことがなかった。
(この人に霊能力なんかないよ。霊能者だったら、目の前にいる俺のこと気付くだろ。優だって岳だって俺のことわかるのに。)翔太は思った。
「ほら、やっぱりそうだ。このバッグは祟られてるんだよ。さっさと神社で供養してもらいましょ。いいわね麻美。」
和代は得意げに言った。麻美は力なくうなずいた。麻美は霊能力のある村越の言うことを信じるしかなかった。和代は翔太のバッグを持った村越と衣裳部屋を出て、階下に降りて行った。
「何やってるんだよ、麻美、あのおばちゃんは霊能力なんてないよ。あのバッグをお義母さんに渡しちゃだめだよ。」
翔太は必死に麻美に向かって叫んだが、麻美に翔太の声は届かなかった。諦めた翔太は和代を追って必死にバッグを取ろうとしたが、無駄な努力だった。麻美は一階に降りて、キッチンに向かった。
突然、エプロンのポケットの中に入っている麻美のスマートフォンがメールの受信音を発した。麻美がスマートフォンを開けるとショートメールが届いていた。メールの内容を確認すると、
“翔太のバッグの中に1等のロトくじが入っている”
と書かれていた。麻美はスマートフォンを手に持ったまま、急いで和代を追った。和代と村越はすでに家から出て、路上に駐車したカーザに乗り込むところだった。翔太は必死に村越からバッグを取り返そうと無駄な努力を続けていた。麻美は村越のところに行って、バッグを取り上げた。
「何やってるんだよ、麻美。そのバッグは祟られてるんだよ。」
和代は大きな声で言った。麻美はバッグの中に手を入れ、内ポケットに入っているロトくじを見つけた。スマートフォンで宝くじのサイトを検索して、手に持ったロトくじの当選番号を確認した。
「1億円、1億円よ、このくじ。翔太さんはこのくじのことを私たちに伝えに来たんだわ。」
麻美が言った。翔太は何度もうなずいた。和代と村越はお互いの顔を見あった。
玄関からパジャマ姿の優と岳が出てきた。
「ママー、お腹すいたよ。」
麻美は優と岳に駆け寄り、
「ごめんなさい。今用意するわね。」
と言った。岳が門の前にいる翔太に気付いた。
「あ、パパだ。パパがいるよ。」
岳は翔太に向かって手を振った。
「本当だ、パパだ。」
優も手を振った。
「あなた、あなたなの?」
麻美が振り向いて、優と岳が見ている方向を見ると一瞬だけ空中を浮遊する翔太が見えた気がした。ロトくじを無事に麻美に渡すことができた翔太はほっとして笑った。
「パパが笑ってる。」
優が言った。
「本当だ、パパが笑ってるよ。」
岳も笑った。
「あなた、ありがとう。」
麻美は翔太を見た方向に向けて言った。和代と村越は麻美たちを見ていた。
「あんた、幽霊見えないの?孫たちが翔太さんがいるって言ってるんだけど。」
和代は村越に訊いた。村越は焦点の合わない目で何も言わず、和代を見つめた。
翔太は子供たちに手を振りながら空へ昇って行った。
「パパ、バイバーイ。」
優と岳が口をそろえて言い、手を振った。麻美も優と岳が手を振る方向に手を振った。
翔太は雲の上に戻り、横たわった。だんだん意識が遠のいていくような感じがしてきた。翔太は天使を呼んだ。天使はすぐに現れ、
「何でしょう。」
と訊いた。
「麻美にロトくじのこと知らせたのあんただろ?」
翔太は天使に訊いた。
「どうでしょう?」
天使はとぼけた。二人は笑った。翔太は天使の笑顔を初めて見た。
「なあ、子供たちはちゃんと育ってくれるだろうか?」
翔太は訊いた。
「大丈夫です。優ちゃんも、岳君も立派な大人になりますよ。」
天使は答えた。
「本当に?」
翔太は訊いた。
「嘘は言いません。私は天使ですよ。」
天使は笑った。翔太も笑った。
「いろいろありがとう。」
翔太は言った。
「そろそろ時間です。」
天使は静かに言った。
「さよなら。」
翔太がそう言って目を閉じると、翔太が今まで経験した様々な映像が見えた。小学生のころ、海でおぼれそうになったところを父に助けてもらった時のこと。中学生の時に好きな女の子の家の前を自転車で何度も往復した時のこと。高校生の時に友人の自動車の屋根の上に乗って山道を走った時のこと。麻美との初めてのデート。優が生まれた時のこと。岳が生まれた時のこと。家族で行った夏祭り、動物園、遊園地、翔太の記憶を映した映像は翔太の魂の中に次から次へと浮かんでは消えて行った。
最後に手を振る麻美と優と岳の映像が流れ、その三人の背後が光りはじめた。光はどんどん大きくなっていき、目もくらむほどのまぶしい光になった。翔太の魂は強い光に焼かれるように薄れていき、やがて消えていった。
空の色は抜けるように青く、どこまでも続いていた。
了
スイートメモリー コヒナタ メイ @lowvelocity
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