第10話
ピアノが可哀想だと思った。
こんな風に演奏してしまったこと、自意識をぶつけてしまった罪悪感。
だけど私が息を吸って吐くには音が必要で、それすらも緩やかに奪われていく現状を何とかしなければと、焦れば焦るほど空回りしていった。
薄暗い観客席には見知った人達。魂の断末魔にも関わらず、穏やかな微笑みで拍手している。その有無を言わせない笑顔。
何も、何もわかっていない。誰一人として伝わっていない。解釈を履き違え、御託を並べる聴衆の口元が、脳裏に浮かぶ。
音と自分の間に、誰もいない。
深い絶望。
ふと、一人の少年に目がいった。隅の客席に座り、心配そうな目でこちらを見ている。
君はわかってくれたの?
と、黄色い翼が視界を遮った。もう手放してしまえばいい、と耳元で誰かが囁く。
○
ここは病院だろうか、それとも教会だろうか。
どの部屋からも、廊下を挟んで中央の中庭が眺められる。雨上がりに陽光が降り注ぎ、露が滴る草花がきらきらとして、濡れた土の匂いが部屋にまで流れてくる。中庭をぐるりと囲む廊下は細く、無機質な白い壁が続いている。
どの部屋にも、自分と同じ羽織を着た人達がいた。どちらかというと若者が多いようだけど老若男女いて、様々な人種の人間がいる。皆共通しているのは、感情を忘れたような顔をしていること。動きも鈍く、眠るように起きている。至るところで虚ろな目がさ迷っている。
この羽織を着ていると、むき出しにささくれていた心が強制的に鎮められていくようだった。以前飲んだ精神安定剤と似ている。感情が無駄に動かないように抑えられ、思考を緩ませ頭がぼんやりとする。すでに感情や思考が慢性的に自らを傷つけてしまう場合、それは有効なのだろう。
癒されているわけではない。何かが解決したわけではない。私は、私が。
頭の片隅に追いやられた自我が、時折顔を出して抵抗する。だけどもう、疲れた。項垂れる身体は一つも反応しない。
ずっと羽織を着ていると、最終的に身体は動くことを完全に停止するようだ。呼吸も、鼓動も。そして微笑を残して、つるりと人形のように固まると、マントの男がここからどこかへと持っていく。もう何人もそうやっていなくなった。
ここに私達を連れてきたマントの男は、帰りたければいつでもそれを脱いで、帰ればいいと言った。全員切符までもらっている。だけど自ら帰った人間を見たことがない。元いたところへ帰る?元にすっかり戻る?
それを絶望と呼ばない人間は、そもそもここにいない。
ある日廊下を歩いていたら、一羽の青い小鳥が地面に落ちていた。羽を小さく震わせ、くちばしを開けてはいるものの空気がすり抜ける音しかしない。
思わず駆け寄り、拾い上げた。マントの男が連れている鳥だろうと持っていくと、冷たい瞳で返される。
「その子はもう飛べないし、囀ずれない。中庭にでも捨てておきなさい」
抑えられているはずの心が、何故だか酷く痛かった。
部屋に戻り、ベッドの上に座る。青い小鳥をタオルで包み、カップに水を汲んで近づけたら、弱々しい動きで飲んだ。
「生きているのに……」
水を少し飲んだ小鳥は、窓外の光を見上げてくちばしを開けた。また空気だけが流れる。
知らないうちに歌っていた。いつぶりだろう。喉はメロディを忘れず、肺は待っていたかのように膨らみ震えた、身体が全身で喜んでいるのがわかった。
ピィと、か細い声が聞こえてはっと下を見る。小鳥が鳴いている。先ほどより少し元気になったようで、羽は艶を取り戻し、小さな瞳は輝きをこちらに向けている。
「あなた、治癒能力持っているんじゃ……」
「誰ですか?」
「勝手に入ってごめんなさい、綺麗な歌声が聞こえたものだからつい」
声をかけられて振り返ったら、部屋の入口に同じ羽織を着た女性が驚いた顔をして立っていた。
彼女はソフィア・ファウラーと名乗った。どうやら奇遇な事に、父の会社の社員であるらしい。向こうもこちらが社長の娘だと気づいたようだ。
「一応治療音楽が専門だったので……」
「そんな力あるのかな、喉が潤ったからだと思うけど」
小鳥は手のひらの中で、ひょこひょこと歩いて、時折頬を擦り付けるようにした。指で頭を撫でる。
「……そもそも、なんであなたがこんなところに? 一番いてはいけない人でしょう」
「私の何がわかるっていうの?」
ソフィアの言葉を聞いて、サッと頭に血が上った。それに反応するように、羽織がずしりと重くなった気がする。
彼女は気まずそうに口ごもっている。
「ええと、事情はわからないけど、歌えなくなっていいんですか?」
「そもそも生きるために歌っていたのだから……何故そんなこと聞くの?」
「私がまた歌声を聞きたいと思っただけです」
それから一週間、ソフィアは毎日部屋を訪れて歌を聞かせろとせがんだ。聞き手がいるというのは良くも悪くも張り合いにはなる。どんどん好きだったメロディを思い出し、反応を見てアレンジを加えたりした。
小鳥は段々と具合が良くなり、今日は何と部屋の中で飛ぶことが出来た。嬉しそうに二人の頭上をピィピィと飛び回る姿を見て、目頭が熱くなる。
毎日話すうちに打ち解けて、お互いの日常のことも少しずつ喋った。ソフィアはそのたびに、ここにいてはいけないと言う。
「何故だか自分でもわからないのです。初対面とは思えない、けれど思い出せない。ただ、あなたには生きて欲しいと」
「生きたくない人が言える言葉じゃない」
「まぁそれはそうですね、勝手だとは思っています。人は他人のことならとやかく言えるんですよ。こんなやり方で命を擲たなくても、他のやり方があるんじゃないかって、今はあなた……そう、今は自由なのだから」
ソフィアは話しながら何かを思い出したかのように、目を見開いた。
「歌えるなら、歌わなきゃ」
私達は建物の外へ出た。ここに連れてこられて以来、初めてだ。足が柔らかい土を踏む感触。風が流れて羽織をはためかせた。
建物は小高い丘の上にあり、周りを草花が囲んでいる。丘を下った先には様々な建物が見える。違和感を覚えて、気づいた。その建造物は皆どこか人工的で、さらに奥に見えるのはメリーゴーランドや観覧車。
誰もいない遊園地。その中央に私達はいた。
「あれが、駅舎?」
私は向こうに見える駅舎らしい建物を見つけて、切符を出した。
「そうみたい。モノレールだけど」
夢うつつな精神に呼応するような風景を、しばらくぼんやりと眺める。
「一緒に降りよう」
私はソフィアに手を差し出したが、彼女は微笑み、首を横に振った。
「私は到底これを脱げそうにないわ」
私は俯き、自分の羽織を脱ごうとする。手が震え、汗が滲む。現実的感覚が重力のようにのし掛かり、麻痺の解かれた神経が世界に晒される。きっと戻っても、世界は私以外の何も変わってはいない。あるのはきっかけだけ。
「どうか耐えて、あなたは繰り返さないで」
羽織を脱ぎ捨てて、別れを告げて、歩き始める。あの青い鳥が頭上を軽やかに飛んでいく。まるで先に行くよと言わんばかりに駅舎を目指して。どこまでも広がる青い空に目眩がする。
振り返ると、丘の上でソフィアが大きく手を振っていた。私も振り返す。そして前にもこんな場面があったと思い出した。
穏やかな朝日に照らされた友人との別れ。田畑に囲まれた貧しい村。同日、私は花街へ売られ、彼女は工場へ奉公に出た。ある時代のよくある口減らし。川辺に並んで、歌を口ずさんでいた幼い日々の微かな幸福。彼女はよく手紙をくれた。私はどんどんそれを返せない身体になっていった。毒に蝕まれ、柵のついた小さな窓から空を見ていた。黄色い鳥が横切り飛んでいく。世界を許すな。そう囀ずりながら。
その一連の記憶が走馬灯のように一気に流れ込んできて、丸出しになった心が締め付けられたが、私は振り返らずに進む。あんな思いは、役回りは、もう充分だ。私は歌うために生きる。
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