第3話
少年がしゃがんで、道の端にある浅い溝をじっと覗いている。
苔むす溝にはきのこが生えていた。だいたいの人間は、食用でないきのこの名称など知らないだろう。というかあんまり興味もないと思う。
彼の頭の中には、彼の意志とは関係なくきのこの名称や情報、毒性などのデータが提示されていた。
「何見てるの?」
若い女性が隣に来た。
不思議そうに少年を見て、そして彼の目線を辿るように溝のきのこを見つける。
「きのこ?」
「そうだよ、お姉さん。何でこんなところに生えてるのかなと思って」
「それはわからないけど……自由研究か何か?」
「まぁ、そんなもの」
少年はその青く透き通った目で、女性を見上げた。瞬時に脳内に広がる情報が彼女を特定し、カチと周りには聞こえない微細な電子音とともに撮影を始める。二三言話す間に、彼女の表情、仕草、動悸、発音、あらゆるデータを収集した。
「最近誘拐事件が起きてるみたいだから、あんまり暗くなるまで寄り道したらだめだよ」
女性は最後にそう言って、その場を去っていった。
少年――海野は、勝手に忙しい脳内を放置しながら、女性に小さく手を振った。
きのこの名称など、どうでもいい。彼女の情報だって、僕が知りたいわけじゃない。
海野は頭の中で絶えず勝手に思考しようとするAIシステムに悪態をつきながら、帰り道をぽつぽつと歩いた。
冷たい風が吹いている。それを感じる身体。寒さに縮こまる皮膚の感覚。木枯らしの音を拾う耳。落葉した枝木のシルエットとその向こうの寒空を見つめる瞳。
自由に動かせる手足。
全ての感覚を物理的で現実的なものとして手に入れたかわりに、頭に鎮座する機械の頭脳。
しかも製造元は警察だ。毎日事件の情報やら何やらを見せられてたまったものではない。これでは土産屋の棚の隅で身動きできないまま、かけられた呪いに苦しんでいた時から変わったのかどうか怪しいというものだ。
同じぐらいの背丈の子ども達が、無邪気に笑い合いながら走り、海野とすれ違っていった。
みんなと同じように、声に出して話せることは嬉しい。昔みたいに、目を開けずとも世界を見ていた頃も懐かしい。波の音、皺だらけの優しい手。人間の、手。呪いをかけたのも、人間の手。
だけど、僕は人間を恨まない。何故なら僕に呪いをかけたのも人間だけど、それを解いて助けてくれたのも人間だからだ。
そして、そもそも僕を創ってくれたのも。
海野は目を閉じて耳を澄ました。遠く心地よいさざ波が聞こえる。塩気を含んだ風。しわしわの優しい手が、僕の頭を撫でる。そして彼は微笑んで、水平線をともに見た。その記憶があれば、僕はずっと僕でいられる。
ふと顔を上げると、街路樹に白いビニール袋がぶら下がっているのが見えた。
風に吹かれ飛んできて引っ掛かったのか、誰かが登ってぶら下げたのか。後者の確率は少ないでしょう。本当に? わざわざ、大した意味もなく、労力をかけて。人間は時折、そういった不可解な行動を取る。何百年眺めていても変わらない。
連続誘拐事件。薄っぺらい動機ならいくらでも予想できる。それが真実かどうかなんて、犯人にすらわからないのかもしれない。
だからどうか、一日中僕の頭の中で捜査するのはやめてほしい。
海野はため息を吐きながら、主人であるペルラのところへ戻った。そびえる高圧的なデザインのビルは、対魔術警察のイギリス本部。
〇
冬の曇り空から西日がこぼれている。休日の微睡からようやく抜け出した瀬戸口は、あくびをしながら近所のスーパーに向かっていた。部屋着に分厚いコートを羽織っている。その隣にはきららが不機嫌な表情で歩いていた。
「何、ふてくされてんの?」
きららは俯き口を尖らせて、着ているワンピースを指で摘んで呟く。
「目的地と服装が一致していないと思います」
「着れたらいいじゃん」
少し前に上司からおさがりで貰った服を出して、出かけると伝えた時のきららの喜んだ顔に嫌な予感はしていた。
ただでさえ睡眠を必要としないその頭脳は暇を持て余していただろう。優秀な人工知能は一体どうやってこの緩んだ休日の午後からどんな面白い冒険でも始まると予想したのか。今からどんなパーティに? ちょっと夢見心地過ぎるのではないか。瀬戸口の性格、行動パターンを嫌というほど理解しているはず。彼の生活圏内にそんなこじゃれたサプライズは起きないと。
食料を買い出しに行くだけだと言った時の、きららの落胆を絵に描いたような表情。そんな複雑な呆れ笑いできるんだな、と感心した。それから行く道でずっとねちねち文句を言われている。
「まず選択肢が少なすぎます。クローゼットは空いてるんだから」
「そんな言うなら自分で買ってくればいいだろ、それか注文すれば」
瀬戸口がそう言ってきららの頭を指差す。
「私は瀬戸口に選んでほしい」
「女の子の服なんてわからん」
きららの姿を上から下まで一瞥し、ため息を吐いた。瀬戸口の交友関係の中に少女はいないし、道行く小学生などの格好も、彼女の中身を思えば少し幼稚すぎる気もする。おしゃれさを突き詰めれば、自分がまるでそういうものを愛でる趣味の人間みたいで寒気がする。当たり障りのない服装は検討もつかない。
「……別に成人男性の服もわかっているとは言いがたいですが」
きららが横目でちらりと瀬戸口を見て呟いた。
「あっ今喧嘩売ったな! 尚更だろ、それこそ頭の中に正確にかわいいコーディネイトなんで山ほど導き出せるだろうに。色彩とかバランスとかさぁ」
「そりゃそうです。流行の予想も数年先ぐらいならできますよ。でも、私は最初にあなたが選んでくれたあのワンピースが一番好き」
それはあの事件で、だめになった服でもあった。
「はぁ、わかった。それでこれは着たくないってこと?」
「これはこれで着たいけど、近所のスーパーで着るものではないでしょう」
「じゃあどこだよ」
「社交界とか?」
「これ以上社交しないでくれ」
そんな話を言い合っているうちに、見慣れたスーパーに着いた。そのいかにも日常を代表するような、チラシの貼られた透明な自動ドア。
瀬戸口が近づくのを一瞬躊躇ったのは、視界の端にごつくて主張の激しいバイクを見たからだ。駐輪場における存在感がやばい。対魔術警察のマークが目にこびりついて、頭の中で警鐘を鳴らしている。開けてはいけない。何かが始まってしまう。
「瀬戸口?」
一歩先を歩いたきららによって、扉は開いてしまった。
「なんでもない」
赤いトマト、葉の多い白菜、大袋入りの冷凍ソーセージ、パスタの束、牛肉、と適当に買い物かごに放り込んでいく。きららが本物の子どものように、両手にお菓子を持ってくる。かごに入れる。何の異変にも気づかないふりをして、いつもの日常の空気を保つように、慎重にかつ大股で歩く。
レジ近くまで来て、瀬戸口は買い忘れを思い出した。きのこだ。牛肉には舞茸が必要だ。売り場へ戻る。そしてその行動に後悔した。
「あら、久しぶり」
野菜売り場に似つかない重装備の警官、ぺルラと目が合ってしまった。何やら店長と話しているようだった。彼女は瀬戸口を見て、視線をきららにうつして、微笑んで話しかけてくる。
「お久しぶりです」
「かわいい服ね。何かの帰り?」
「いえ。ここが今日の目的です」
瀬戸口が咳払いして、会話に割り込む。
「きらら、仕事を邪魔してはいけない」
「もう終わったところよ。その髪凄いわね」
前にも増して馴れ馴れしい、それには何かしらの理由がある可能性が高い。瀬戸口はもう警察絡みで巻き込まれるのはこりごりだった。
「ちょっとした気分転換だよ」
そう言って、最近紫色に染めた髪に思わず触れる。最近職場でなめられてる気がすると危惧して、美容院に行ったところだ。
日本なら明るい茶色や金髪でもイメチェンした気になれるが、異国の地ではナチュラルに派手な髪色の人間が多いので、そんな色ではわざわざ染めた気がしない。紫だ、と思い至ったわけだが、目の前のまごうことなき金髪のぺルラに言及されると居心地が悪い。
「へぇ。そういう時もあるでしょうね」
無難に流されても癪だった。
「それより、ここで事件でもあったのか? 物騒なのはごめんだ。まさか君が万引きの補導なんてしないだろうし」
「何故?」
「そんな小さな案件で、わざわざ君が動かないだろ」
「仕事に小さいも大きいもないと思うけど」
ペルラは少し俯き、持っていた資料に視線を落としながらそう言った。
「まぁ、鼠取りといったところね」
そうして意味ありげに、こちらを射抜くように瞳だけで見上げる。瀬戸口はその視線をかわして、話題を変えた。
「ふーん。そうだ、海野は元気か?」
そこからペルラの海野に対する数ヶ月分の愚痴を聞くことになり、瀬戸口は辟易した。警察AIのシステムは異常なく動いている。ただそれを出力するのに海野の自我が強すぎるだの何だの、ようはいちいち泣いてしまったりして要領を得ないらしい。
「いっそ愛玩用にすれば?」
瀬戸口はさも他人事な口調で相槌を打った。
「そんな趣味はないわ」
呆れたように放ったペルラの言葉に、瀬戸口の隣で黙っていたきららが一人はっとした表情をして宣誓するように発言する。
「私は瀬戸口を守るためにここにいます」
「それはわかってる。ごめんね、長話して。そうだお詫びといってはなんだけど、ちょうどいいものあげる」
ペルラがそう言って取り出したのは、二枚のチケットだった。
「ピアノリサイタル?」
「知り合いにもらったの。多分その服を着ていくのにぴったりの場所だと思う」
きららはぱぁっと嬉しそうな表情になり、瀬戸口がチケットを突き返すより早くお礼を言った。
「ありがとうございます!」
「ちょっと勝手に」
「是非楽しんでね」
にこやかにそう言うと、ペルラは立ち去っていった。瀬戸口はチケットを恐る恐る見る。来週末の日時と会場のホテル名、ピアニストの名前が印字されている。
「きらら、ただより恐いものはないぞ」
「何がですか? コンサート初めてです!」
企みの予想を凌駕する好奇心により、きららの瞳はきらきらと輝いていた。
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