第2話


 遠くの方から、楽し気な笛の音が聞こえる。


 身体は習慣によって動くことができる。繰り返される日々は止めどない川の流れのよう。濁流に耐え、振り落とされないよう必死になっているうちに、大事なものを置いてきてしまった気がする。それが沈んだ川底は、まだ澄んだ水を保っているのだろうか。

 いや、そもそも始めからそんなものなかったのかもしれない。掌を開けどもいつの間にか傷だらけで、この手を伸ばしても到底届かないだろう。


 毎朝見上げたのは、隣町に高く聳えるビルであった。

 毎晩見下ろしたのは、ビルの裏側に広がる生まれ育った町だった。

 短い橋を挟んだ向こう側のその町は、寂れネオンだけが生き残り、さながら時代に取り残されたエリア。再開発により乱立したビル群に囲まれ、日当たりもよろしくない。

 そこから出たいと思って生きてきた。酒と女とギャンブルの話ばかりする男と、それに媚びへつらうしか能がない女。周りの大人をこうはなるまいと冷めた目で眺め、まるでズルをするかのように必死に勉強した。

 その結果、仕事場はこのビル、魔術と音楽を専門に事業展開する企業だ。

 だけど、関係がない。大学も出ていない小娘に任される仕事はたかが知れている。捻出できなかった学費と、変えられなかった親の姿勢。残業だけは多く、削られる時間。

 ただ毎日擦り切れる、その胸の軋みだけが強くなる。


 ある日、同年代の若い女性が役員に囲まれながら会議室へ入っていくのを見かけた。質のよい服を着こなし、その大きな瞳はまるで人間の苦悩なんて見かけたことがないように輝いていた。後でそれが今年の重要事項が決まる会議で、彼女が今年入社する社長令嬢だと知った。


 心は現状を受け入れる為に、日々鈍く澱んでいく。このまま息を潜め、騙し騙し生きていくのか。騙しているのは自分自身? 渦巻く醜い感情に目も当てられない。

 朝が来て、起きて、あの橋を渡り、青空を容赦なく遮断するビルを見上げる。窓に映し出された青い空は奪われたものか。エレベーターは体を運ぶが、心は泥臭い路地の隅に転がっている。時々思い出したように、胸の奥底で子供の自分が泣き叫んでいる。こんなはずではなかった。呼吸がずっと浅い。深く息を吸おうとすると肺が痛む。だけどもう、涙は出ない。我慢も苦労も報われず、終わるその時まで。


 不意にまた、笛の音が聞こえた。咄嗟に暗くなった窓の外を見るが、どこから流れているのかわからない。その音色は、何故だか動かなくなった心を揺さぶった。熱い何かが溢れそうになる。


 もう一度、窓の外を凝視した。すると、真っ黒の空を切り裂くように、黄色い小さな鳥が飛んできた。語りかけるようなカナリアの鳴き声が、頭の中に直接響く。


『君は間違ってない』

『そんなになるまでやってきてえらいよ』

『何にもわかっちゃいないやつらの為に生きることなんてない』


 気づけば足はビルの屋上へと向かっていた。

 直接その音色を聞きたいと思ったのかもしれない。

 夜風が吹き付ける。他のビル群の明かりも安っぽいネオンも見えない。


 漆黒の闇を背景に、眩しいほど黄色いカナリアが手すりにとまり首を傾げている。もう鳴かないの? だって君が来てくれたから。



 カナリア小さな翼翻し飛ぶ空の先へ。



 暗い階段を降りた先、囚われたその場所はいつかの花街。表だけはきらびやかな偽りの街。他人の汗。下卑た笑い声。自分の身体なのに何一つ自分のものではない。

鉄格子のはめられた小さな窓。その窓によって切り取られた青空に、黄色い鳥が飛んでいる。

 毒が咲き始めた身体は、もう売ることもできない。街の果てにある小さなお寺に埋められるのだろう。お地蔵さんが笑っている。目の前まで来ている。それを遮って、カナリアが鳴いた。どうやって入ってきたのだろう。私をどこかへ連れていって。



 山を越え川を渡り上空まで飛んで落ちるように森へ。



 工場の煙がもくもくと山間の空気を犯している。整列し淡々と繰り返される作業は昼夜続き、足の感覚は酷く鈍って頭も朦朧としている。何よりも工場内の澱みきった空気によって呼吸がつらい。肺を病んでも故郷に帰して貰えるわけではない。もとより故郷に帰りたいわけでもない。娘をここへ売った親とそれによって助かった兄弟なんぞの顔は見たくもない。ただ一人、花街に売られた唯一の友人のことが気がかりだった。

 ある日、短い電報が届いた。友人の訃報。たった数文字の。

 身体は存外強く環境に耐え、その代わりこのいつ終ると知れない日々を魂に刻み付けた。煙って見えない空から、鳥の鳴き声が微かに聞こえた気がして、眩暈に襲われる。



 飛び立ち迂回して、地面へ降りる。



 ずっと歌っていたい。

 物心ついた時から、体の奥に流れるリズムを出したくて出したくてしょうがなかった。それは否応なしに存在するもので、季節が流れ時間がちくたくと刻まれることと同義、自分の中では当たり前のことだ。

 だけど世の中には口ずさんではいけない場所や時間が多すぎる。音楽の授業では歌うのに、他の教科では歌ってはいけない。そんな当たり前のことがやるせなくて受け入れがたい。年を取るごと歌えない世界は増えていく。一種の絶望。

 人生のルートとやらにいつの間にか乗っていると気づいて数年、わざわざそこから降りようとは思わなかった。恵まれている部類なのだろう。進学や習い事も、家族がらみの人付き合いも、適度にこなして難なく生きる。ただそこに自分の意思や選択は一切ない。躓く暇もない。

 それでも生活はそれなりに楽しかったし、友人とカラオケに行ったりして、何にも配慮せず歌えた日なんかとてもいい気分だった。友人が何気なく渡してきたオーデションのチラシなどを見ると、暗い気持ちにならないことはないけども。想定外の挑戦をする権利は、ない。

 ある日、内定の決まっている父親の会社の会議に呼ばれた。周りの大人が当たり前のように接してくる、社長の一部として。

 会議は問題なく進行した。新たにグループ会社となる企業の若い社長に、握手を求められる。どうやら次にこなす案件が見え隠れしていた。縁談のちに婚約結婚といったところだろう。貴族の時代かよと思いつつも、その分厚い手を握った。

 その瞬間、悪寒と鳥肌が止まらなかった。

 一体、誰の人生なのか。

 かつてない激しさで、体中に歌が鳴り響いている。暴力的なリズムのそれは外に出たくてしょうがないと言っている。

 その旋律全てを飲み込み、正しく微笑んだ。


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