氷山の旗 ~君の地獄はどこから?~

柚峰

第1話

 不自然なほど赤紫色に染まっていた空が、刻一刻と闇に落ちる頃。夜に追いつかれまいと帰路を急いでいた足を、瀬戸口は曲がり角で止めた。

坂道に曲がり入っていく一台のタクシーを横目で捉える。両側に街灯が並び、その奥はざわめく黒い森と、左へカーブする車道しかない。森に囲まれているのは歴史のある教会で、その門は夕方には閉まる。観光客の散った今、そこには誰もいない。誰も来ない。いつもは。


 待ちわびていたように、風がその道を吹き抜けていく。タクシーは森の手前で止まり、一人を降ろして、再びエンジンをかけ走り去っていった。

見覚えのある麗しい黒髪が歓迎の秋風に揺らされる。こちらに振り返り、艶やかな唇が弧を描いて微笑む。そして空を見上げ、落ちそうな大きい満月に接吻したように見えた。


『こんな夜にどこへ?』

『あなたのところ』

『俺はここだよ』


 囁く口元を目に焼き付ける。瞬きするのも恐ろしい。彼女にまつわる全ては、ふとした瞬間に消え去る。あまりにも不確かな存在。甘い痺れが記憶とともに全身を蹂躙し、支配してくる。自分の身体を普段どれだけ知らないで生きているか、思い知らされる。

今、立っている場所から続く坂道の勾配、街灯の丸く白いぼんやりとした光、後ろに広がる闇に沈んだ森、夜空と満月。

いつも見ているはずの何でもない帰り道が、彼女の影が現れただけで甘美な湿度を持つ。完全で強固な魔術。いきなり世界が開けたような感覚。胸が締め付けられる。


 いてもたってもいられなくて、息が苦しくて、つい手を伸ばしてしまった。彼女はいつだってその手を取ってくれる。掴んで引き上げようと。そのたびに足元から崩れ落ちていく。俺が落ちるから、君は手を離すしかない。いつも、そう。君を探す為の言葉がまだ見つからない。



「また別れたって?」

 同僚が呆れ顔で笑いながら話しかけてくる。喫煙所はクリーンだが狭く、そっくりそのまま肩身の狭い喫煙者の立場を表している。煙草一本分を人質に逃げ場がない。瀬戸口は苦笑して、最低限の愛想を使い果たした。

「端的に言うとそうだな。どこから聞いてくるのかいつも不思議でならないんだけど」

「このラボ内で有名だから、君の長続きしない愛は。今回は君の相棒が休憩室でぼやいてたよ」

 瀬戸口は大きくため息を吐いて頭を抱えた。


 相棒と言われた人は人ではなくAIで、名前をきららという。最近可憐な少女の体を手に入れたのをいいことに、ラボ内を自由にうろうろしているようだ。

 AIが休憩室に何の用だというのか。休みたいならさっさとパソコン内のメインシステムにでも戻ればいいわけで、そうしないのは休憩室をコミュニケーションルームだと勘違いしているからだ。

瀬戸口が話したこともない同僚達に喋りかけ、あろうことかこちらの近況など赤裸々筒抜けに話題提供しているようなのだ。一体誰の許可を得ているというのか。この近代社会においてセキュリティも何もあったものではない。歩く情報漏洩だ。

おかげで面白がって絡んでくる同僚がどれだけ増えたかわからない。ここに入社して以来、半ばわざと話しかけにくいキャラクターでやってきて、面倒なやりとりを避けてきたというのに。

今や冷徹な女上司すらすれ違いざまにきららの服を褒めたり、してもいない恋愛相談へのアドバイスをしてくる。この前なんて娘のお下がりだけどと言って、上等そうなワンピースを貰った。きららは大喜びしていた。あまり衣装を新調しない瀬戸口に不満を募らせていたところだったので、尚更嬉しかったのだろう。


「すべてはあなたを守るためです」


 瀬戸口がきららの言動に苦言を呈すると、彼女は決まってそう言った。

 思い返せば、インストールした時から様子がおかしかったのだ。流行りのAIシステムだと言って、当時付き合っていた彼女にプレゼントされたのだが、どう設定してもどう学習させても今の性格設定に辿り着く。

瀬戸口に対してはおせっかいで心配性のくせして、自身の言動は強引で大胆だ。仕事で支障が出たことはないが、もっと機械的思慮というか、慎重さがあってもいいと思う。

 少女の体を気に入って使っているが、同じ売り場に並んでいた貫禄のある年配の召使やマッチョなボディーガードマンの方が似合うのではと瀬戸口は思い出したように時々茶化した。きららは口を尖らせて、可愛くないといやです。それならふわふわの方がまし、と色褪せたぬいぐるみを指差した。

それは瀬戸口が幼少期お気に入りだったぬいぐるみで、クマのような曖昧な動物の形をしている。今や改造されAIシステムが乗れるようになっていて、きららは今でも気まぐれかそちらに乗り、瀬戸口のコートのポケットに潜り込んだりしていた。


 インストールしたばかりの頃は、何度もリセットした。しかし何度消してもしつこいほどに現れる。これを贈った彼女は、その後すぐに別れた。憐れむような悲しそうな表情だけが、記憶にこびりついている。

「あなたはペットを飼ったらいいと思うな」

「嫌だよ。あんなの全部人間のエゴだ。彼らは本来自由だったはずだ。人間の作る社会にだけ生存権を与えられ、弱者故に向けられる愛ばかり与えられる。強者の自覚なき傲慢さに辟易するね。対等だったら同じように愛せたか? それなら最初から感情のないAIの方がいくらましだか」

 そんな会話と、日に日に沈む彼女の諦めたような表情が思い出される。

「名前、あなたがつけてあげてね」

 そう言ったのが彼女の最後の言葉ではなかったか。

 そして目の前でソファに寝転がり、ご機嫌な顔をしてスマホで何か見ていると思ったらけらけら笑い出したきららを見て、瀬戸口は眉間に皺を寄せ呟いた。

「感情のない……?」

「何か言いましたか? 見てくださいこれ、めちゃくちゃ面白いですよ」

 つっこむのにも疲れてきたのか慣れてきたのか、まずシステム内で見れるものをわざわざスマホで見ること、面白いという感情、それを人に共有しようという気持ち、何由来? 

「全ては俺を守るためだもんな……」 

「何言ってるんですか? あっほらこれが笑える! ねぇちゃんと見てました!?」


 一番問題なのは、今の瀬戸口にきららを消すなんてことが考えられず、むしろ何重にもリセット機能にロックをかけたり、ぬいぐるみや少女の体のメンテナンスすら怠らないことだろう。


 前回、ある調査に協力した時の衝撃も忘れられない。それは事件云々よりも、己の感情に対する動揺でもあった。きららはいつも言っていた言葉通りに、瀬戸口を庇って銃弾に倒れた。修復可能な、取り換えられる仮の機械仕掛けの人形だ。そもそもきらら自体がただのシステムに過ぎない。

なのに、傷つき破壊された体とノイズで掠れた言葉を目の当たりにしたら、自分が酷く焦り、悲しみに胸を抉られるような気持ちになっていることに気づいた。その安否が確認できるまで、眠ることもままならなかった。


 事件後、瀬戸口はきららの体を直しながら防弾仕様にした。もちろんぬいぐるみの方もだ。

 これでは贈り主の思う壺ではないかと解せない気持ちになった。きららがどれだけ人間らしく振舞い人格を作っても、そこに誰かがいるわけではないはずと冷静にもなる。

だけど、わからない。その小さい体を嬉しそうに動かして世界を歩いている姿、陽光に透ける緑の葉を見上げる瞳の輝きなどを見ると、永遠にそうやって存在していてほしいと、願ってしまう。


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