第35話 忘れていた生活感覚
朝食を食べに一階リビングへ降りた。
ダイニングテーブルの上に、見慣れない文庫本が置かれていた。
「母さん、これは?」と尋ねると、母は答えた。
「今朝出ていく時に、お父さんが、登にと言って、置いて行ったの」
「俺に?」
文庫本にはわざわざ
どんなに主君が悪いことをしても、この主君のもとを去るわけにはいかない、ということをいわば自分の宿命として引き受け、あくまでこの場にいて主君に仕えなければいけないのだ、という帰結になる。そこから、どうしても主君を正しくしていかなければいけないという非常に強い能動的な態度に逆流していくわけです。(丸山真男「思想史の考え方について」)
うわ、ムズ。反射的に「なんで、親父はわざわざこんなものを?」と問いかけていた。
「登に読ませたらいいと思ったんじゃないかしら」
「これを?」
登は首をかしげた。
「よくわからないな」
文庫本をテーブルに置くと、母がトースト、目玉焼きをのせたプレートを持って来てくれた。
「登は、熊本のおじいさんに会ったことないでしょ」
「ない」
熊本のおじいさんとは、親父の父親だった。親父は熊本県八代の貧乏な農家の三男坊だった。
「熊本のおじいさんの家は、戦前までは裕福な地主だったのよ。でも戦争に負けて、GHQの農地改革で土地を取り上げられて、没落したの。それでも、おじいさんは地主としての誇りがあって、『家が貧しくなっても、頭が悪くてはいかん』とか言って、お父さんに色々と難しい本を買って、読ませたりしたの」
「ふーん」
「登に話したのは初めてだったかしら?」
「まあ、そうだと思う。熊本のおじいさん
「ところで、今日は家にいるの?」
「いるよ」
今日から夏休み、ずっと家にいれる。テレビをつけてみる。朝の報道番組が続いているが、現世とは異なり「#自衛隊がんばれ」「#日本がんばれ」という戦争向けのハッシュタグが浮いていない。台風が日本列島に接近しているようだが、大したことはなさそうだ。トーストをかじり、母の淹れてくれた紅茶で流し込む。
これが、平和か。
なにもない幸せ——随分忘れていた生活感覚。母が砂糖ポットを開けて、紅茶に砂糖を入れた。
「母さん……」
「なに?」
「悪い夢を見ていた」
「どんな?」母はスプーンで、ティーカップの中を掻きまわし始めた。
「母さんが死んで、親父とうまくいかなくて、戦争が起きて、拉致されて」
「酷い夢ね」母はティーカップに口をつけて、微笑んだ。
「親父はどうなんだろ」
「お父さん?」
「戦争には慣れてそう」
母は顔をしかめた。
「そんな人いない。イラク戦争に出た米軍の人に会ったとき、お父さんはそう教わったらしいわ」
「……ごめん」
結局、その日は一日中家にいた。母とくだらないワイドショーを見ながら、コーヒーを楽しみ、チョコレートをかじった。テレビを見ながら、母は熱心にスクワットをしていた。「運動不足になるわけにはいかないからね」としきりに言いながら。
「ハイ、登も」
「俺もかよ」
「ハイ、いいから、早く」
しかたなしに登もスクワットした。
「イチ、ニ、イチ、ニ」
元気だなぁ、と登は思った。
夕食時には親父が帰って来た。夕食は焼肉で、いつもは料理などしない親父が率先して肉をホットプレートで焼き始めた。登もキャベツのざく切りを、ホットプレートに放り込み始めた。
玄関チャイムが鳴った。
「はーい」母が答えた。
「登、十字台高校の女の子が。忘れ物を届けに来たって」
恵美か。
「俺が出るよ」
ドアを開けた。無防備にも。
登は、息を呑んだ。
「お迎えに上がりました」
高校の制服を着た
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます