第34話 深夜の「映画」
登はまだ起きていた。
部屋の照明は消して、ベッドにもぐりこんでいたが、どうにも眠れない。夕方に別れた恵美の手の感触が、まだ生々しく残っていた。少し手を握り合っただけ。でも逆にその小さなことが、大きな威力を持っていた。悶々とした思いで、登は
鼻息が荒くなった。
我慢できなくなって、ついに跳ね起きた。
心の奥底に押し込められていた性的な欲望が、むくむくと起き上がり始めている。真っ暗な自分の部屋の中で、スクリーンに映しだされた映像のように、つややかな黒髪、振り返った横顔、しなやかに動く
性的なことを素直に受け入れられる自分が、そこにいた。
素直に、そのことを喜んでいいんだ。誰かの目を気にすることもなく。
好きな女の子を選んでいいんだ。誰かの冷やかしを恐れることなく。
自然と笑みがこみあげて来た。恵美が、隣でゆっくり寝息を立てているような気がした。それを感じられただけで、もう満足だった。
喉が渇いたので、1階のキッチンへと降りて行った。母もまだ起きていた。耳にイヤフォンをして、動画配信サービスで外国映画を見ている。リビングで、母は男女が抱擁する瞬間に、軽く涙を流している。
邪魔にならないように、登はそっとキッチンへ行き、冷蔵庫にあったミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、コップに水を満たした。
母さんは、あんな表情をするんだ。小学校六年生に死に別れて、もう何年も経っていた。母の繊細な表情は、風で砂が吹き飛ぶように、記憶からも消えてしまっていた。
登は、コップの中の水を一気に飲み干し、そっとシンクにコップを置いた。
幸いにも、母はずっと映画に夢中だった。
登は安心して、2階の自分の部屋へと戻っていくことが出来た。
異世界に来てから、登の脳内でも、映画が再生され始めていた。タイトルは『この世界で生きていた登の記憶』”。本来は自分のものではないそれが、現世から来た登と共有されている。それが何かの刺激によって浮かんだり、また記憶の底に沈んだりする。
今日は、恵美との握手が、”映写機のスイッチ”だった。海馬のスクリーンに、“登の映画”が上映され始めた。
プロローグは1年前。異世界で生きている登が、そっと恵美に告白した。このストレートな滑り出しに、登は意表を衝かれた。現世ではもっと内気で、ひねくれて、世の中のすべてを冷笑しているだけの惨めな自分が、女の子相手に体を張ったことが。
“スクリーン”の中で恵美は、にこりと笑った。
「不器用ね」
「何もとりえがない僕だけど、好きだ」“記憶”の中で、登はそうまくしたてていた。
「好きだよ。そういうところ」
恵美は、ゆっくりと後ろに手を組むと、どこか遠い景色を眺めていた。
「人って才能が大切だって、よく言われるよね。でも本当は、誰かを傷つけないということが一番大切。登は、その当たり前をちゃんと当たり前にしてるから、好き」
恵美は続けた。
「人間が、能力や、社会の貢献度でしか認めてもらえないような世の中はイヤ。ただマジメで優しいだけの人が、幸せになるだけでいいのに」
恵美はすぐに我に返ったように「ヤバイ、なんか偉そうに言いすぎ。何やってんだわたし」と呟いた。
「いや。その通りだと思う」
「ホント?」
そこで初めて、恵美は登の手を握り締めた。“映画”の中で登は、そのまま彼女を抱き寄せた。
“映画”はそこでendを迎えた。
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