第33話 少女の指先

 翌日、母に見送られて学校に行った。

 

 現世と同じく、学校は都立十字台高校。

 現世と同じく、北校舎2階の2年2組。

 現世と同じく、榎木えのき皆藤かいとう豪太ごうた渋川恵美しぶかわえみ稲葉美香いなばみか玉木詩織たまきしおりがいた。だが留加人であるはずの恵美の胸には、何もついていない。それどころか現世では恵美をいじめていたはずの稲葉と仲良く話している。


 登は、豪太に聞いた。

「豪太、景子けいこは?」

 豪太はきょとんとしていた。「誰のこと?」

吾妻あづまだよ」

「吾妻? そんな子いないよ。どうした?」

「他のクラスにはいるだろう?」

「いないよ、吾妻なんて人」

「そうか……」

 登は、とにかく教室内を見回した。壁に貼られた「誠実 協力 熱意」の色褪いろあせた学級スローガン、ほこりが溜まった吊り下げ式の蛍光灯などの内装は、現世と同じ。しかし、やはり何か落ち着かない。

 豪太が、うきうきとしていた。

「それより、登、どうする? 明日からついに夏休みだけど」

 夏休みか……。そういえばもうそんな時期か。戦争とか、爆撃とか、校舎破壊とかで、すっかり忘れていたな。

「登、聞いてる?」

「ああ」

 生返事をした。

「変なの……」

 豪太はどっかへ行ってしまった。

 夏休み、……。どこか現実離れしてるな。

 そう呟いて、登は苦笑した。

 現実じゃねえんだ、ここは。死んだ母さんと親父のいる変な世界。夢なんだ。ここは。しかし、出来損できそこないの夢だ。

 豪太の言う通り、学期末最終日で高校は早く終わった。なぜか登の体は強張こわばった。戦争が始まったのは3月の期末テスト最終日。あの日もこんな風に半日で終わった。今にミサイル攻撃の緊急速報が、スマホから鳴るのではないか。

自分でも気づかぬうちに、戦争というものが、身体の髄にまで浸み込んでいた。登はズボンのポケットに手を突っ込んだまま、目の前の地面を思いっきり蹴り飛ばした。

 校門を出てしばらくして、後ろから追いついてくる足音。登は立ち止まった。

「登! 待ってよ」

 渋川恵美だった。登はただじっと見つめていた。恵美は膝に両手をあてて、しばらく肩で息をしていたが、呼吸を整えると「今日、一緒に帰るって約束したじゃん、ヒドイよ。まったくもう」と甘い声を出した。

 同年代の女子からそんな声音こわねで話しかけられたのは、初めてだった。青空が、青いということの美しさを、改めて自覚した——たとえるなら、そんな気分。

「ごめん」

 登は、自然に手を伸ばしていた。恵美が、すかさずその手をキャッチした。改めて見ると白いほっそりとした指先で、強く握りしめたら折れてしまいそうだ。登は恵美の手を揉むように、軽く握ったり、開いたりを繰り返した。

 線の細い指の骨、滑らかな肌の感覚がジーンと脳内に響いてくる。

「なに? どうしたの?」

「いや。綺麗な手だよね」

「なに、気持ち悪いなぁ~ ハハハ……」

 恵美は急に手を離すと、さきに突っ走って行った。そして、すぐにくるりと振り返った。登が小走りで追いつこうとすると、恵美がまた走り出した。登はそれを追って、走った。中央公園のところまで来て、恵美が立ち止まった。

「楽しい……」

「疲れた……」

「まいったか!」

 ハハハハとそこで、恵美がまた笑った。

「悪い夢を見ていた気がする」

「悪い夢?」

 声が耳に甘く響いた。すべてを洗い流すような思いで、「戦争の夢」と答えた。

「戦争?」

「日本と留加が戦争する夢」

「嫌な夢……」

「夢で良かった」

「ねえ、どっかで遊ぼうよ」

「どこで?」

「スポッチャ」そう言って、恵美が登の袖を引っ張った。

 登は恵美と一緒に、そのままスポッチャへ行った。無邪気に、何も考えずに遊んだ。すべてが初体験であった。現世では何かとひねくれていたから、素直に何かに熱中するということがあまりなかった。


 ボールがガーターに入った時に、少女がどれほど悔しがるのか。

 ストライクを出した時に、少女がどれほど喜ぶのか。

 遊び疲れて眠たげな時、少女がどれほど不機嫌なのか。

 別れる時に、少女がどれほど寂しがるのか。


新鮮な驚きが、あちこちにあった。


 


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