第30話 はまった鍵
登は、そのまま街へ出た。変に心がはやった。歩いているのに、ずっと止まっているような感覚。こんな感じになるのは久しぶりだ。
大通りに出て、路面電車に乗った。車軸の揺れる音とモーター音が響く旧型電車の中。
スマホをいじっている帰宅中のサラリーマン、十字台高校の制服を着た女子高生、老婆、杖を突いたおじいさん。目の前で展開されているのは、自分の知っている世界そのものであった。
『次は
電車が
乗降客がいなかったので、電車は停留所を通過。十字台地区はここで終点、ここから坂を下りて、台地の下に広がる
『次は南ヶ原、南ヶ原です。……
登は自分の耳を疑った。路面電車の車内CM放送が、昨日のものとまったく違っていた。昨日、つまり現世にいたときのCMは「国防献金のご相談は国防隊十字台駐屯地まで」というものだけだった。
戦争は、起きてないんだ。
その事実に、頭の中がぐらぐらと揺れた。
停留所で降りる。
家はすぐだ。見慣れた二階建ての家、「初瀬」と書かれたプレート、自分の家なのに思わずインターフォンを押しそうになった。鍵を取り出して、挿した。ぴったりはまって、ドアが開いた。
家の内部はまったく同じだった。他人の家に忍び込むような形で、息をひそめた。
「登、帰って来たの?」
出てきたのは母だった。
あんまりに久しぶりだったので、母だと気が付かなかった。ほっそりとした顔立ち、涼しげな目元が変わっていない。
「母さん」
「遅かったわね」
「ああ」
「どうしたの、この首のところ……」
母の指がそっと首に触れた。そこは拉致された時に、スタンガンを押し付けられ、赤くなっていた。
「ああ、ちょっと
母はそう、と特に怪しむこともなく「ごはん出来てるから、すぐに着替えていらっしゃい」と言って、リビングへと戻って行った。
もう一度、登は首筋に触れた。母の指先の感覚がはっきりと残っている。日常的に洗い物をしているせいで、肌荒れして固くなった指先。初瀬孝子という一人の人間が、確かにそこにいる。
登は、涙をぼろぼろとこぼしそうになるのを我慢して、自分のものではない自分の部屋に上がった。
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