第30話 はまった鍵

 登は、そのまま街へ出た。変に心がはやった。歩いているのに、ずっと止まっているような感覚。こんな感じになるのは久しぶりだ。

 大通りに出て、路面電車に乗った。車軸の揺れる音とモーター音が響く旧型電車の中。

 スマホをいじっている帰宅中のサラリーマン、十字台高校の制服を着た女子高生、老婆、杖を突いたおじいさん。目の前で展開されているのは、自分の知っている世界そのものであった。


『次は桜深山さくらみやまです。お降りの方はブザーでお知らせください』


 電車が桜深山さくらみやまに達した。名前の通り、ソメイヨシノが多数植えられた桜の名所だ。この世界に来てから“生まれた記憶”では、高校一年の入学直後の春に母と共に、お花見に来ている。

 乗降客がいなかったので、電車は停留所を通過。十字台地区はここで終点、ここから坂を下りて、台地の下に広がる南ヶ原みなみがはらへと線路は伸びていく。登は進行方向に目を注いだ。


『次は南ヶ原、南ヶ原です。……泌尿器ひにょうきのお悩みについては会田あいだクリニック。南ヶ原駅から徒歩7分です。降り口は後ろドアです。前から降りることはできませんので、車内の中ほどにお進みください』


 登は自分の耳を疑った。路面電車の車内CM放送が、昨日のものとまったく違っていた。昨日、つまり現世にいたときのCMは「国防献金のご相談は国防隊十字台駐屯地まで」というものだけだった。

 戦争は、起きてないんだ。

 その事実に、頭の中がぐらぐらと揺れた。

 停留所で降りる。

 家はすぐだ。見慣れた二階建ての家、「初瀬」と書かれたプレート、自分の家なのに思わずインターフォンを押しそうになった。鍵を取り出して、挿した。ぴったりはまって、ドアが開いた。

 家の内部はまったく同じだった。他人の家に忍び込むような形で、息をひそめた。

「登、帰って来たの?」

 出てきたのは母だった。

 あんまりに久しぶりだったので、母だと気が付かなかった。ほっそりとした顔立ち、涼しげな目元が変わっていない。

「母さん」

「遅かったわね」

「ああ」

「どうしたの、この首のところ……」

 母の指がそっと首に触れた。そこは拉致された時に、スタンガンを押し付けられ、赤くなっていた。

「ああ、ちょっとむしっただけ」

 母はそう、と特に怪しむこともなく「ごはん出来てるから、すぐに着替えていらっしゃい」と言って、リビングへと戻って行った。

 もう一度、登は首筋に触れた。母の指先の感覚がはっきりと残っている。日常的に洗い物をしているせいで、肌荒れして固くなった指先。初瀬孝子という一人の人間が、確かにそこにいる。

 登は、涙をぼろぼろとこぼしそうになるのを我慢して、自分のものではない自分の部屋に上がった。

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