第29話 邦城瀬帆/小礼

 そこも夜だった。

 そっと目を開けると、駐輪された自転車、街灯、樹木が視界に入った。ぐるりとあたりを見回すと、広い公園の中だと分かった。自転車の駐禁場所を説明する標識には、「十字台中央公園」と書かれていた。

 日本最北端の留加県から一瞬のうちに、登は東京十字台区にワープした。狐につままれたような思いで、登は樹木の影に呼びかけた。

小礼これい、どこにいる? 小礼、小礼!」

 最後は、不安で声が上ずった。

「あなたが、初瀬登くん?」

 後ろで声がした。

「あなたが?」初見の人間に対するもの言いが、気にかかった。振り返ると三十代半ばの巫女が、帳面ちょうめんを開いていた。

 登はたずねた。

「あんたは?」

 相手は登をちらりと見て、また帳面に視線を落とした。そして、ぶっきらぼうに「邦城くにしろ 瀬帆せほ」と答えた。

「小礼の姉か?」

 いや、違う。こいつは……。

 街灯の光におぼろげに浮かぶ顔。それを見て、登は身がすくんだ。名前は違うが、間違いなく相手は小礼だった。あどけなかった10代の少女の顔が、輪郭もハッキリ引き締まった大人の顔になっている。

「お前と小礼は、まさか……?」

「そう。同一人物」

 瀬帆は、あっさりと肯定した。

「地上の世界に出る時は小礼。そしてこの世界をつかさどる時は瀬帆。私たち二重人格なの。だから、こうして地上の出来事は、小礼がたくしたこの帳面を見るしかないの。逆も同じ」

 そういえば、と登は思い出した。地上で、小礼がやたらと帳面を見ていた。あれは帳面に記された瀬帆の伝言を読んでいたのか、と納得した。

 瀬帆はしばらく帳面を読んでいたが、やがて閉じた。

「小礼の伝言は承知したわ。じゃあ、1週間。あなたをこの世界の住人として遇します。元の世界にも、ちゃんと戻れるから、安心してね」

「どこへ行くんだ」

「あなたの家。地上の世界と同じ。十字台区じゅうじだいく南ヶ原みなみがはら3丁目4番地9号。初瀬真之、孝子たかこの一人息子」

「母さんは、生きてるのか?」

「こっちの世界では、長生きする」

「俺は、どうするんだ? こっちの世界にも俺がいるんじゃないのか?」

「それはない。世界とはよくできている。矛盾を自動的に補正する。あなたは、この世界のあなたに自動的に接続され、初瀬登は一人しか存在しなくなる」

「どういうこと……」

 その意味はすぐに分かった。よそ行きの恰好かっこうをした母の姿、中学校の入学式で同席する母の姿、授業参観に来た母の姿、高校受験成功を祝う母の姿。

 本来ならあり得ないはずの記憶が、自然に脳内へ蓄積されていく。

「小学校の時に死んだ母さんの記憶が……中学、高校時代の記憶も……」

「そう。この世界であなたの母上は死んでいない。この世界の初瀬登は、母と共に生きて来た。その記憶が今、あなたにも共有されている。そして、ここは外の世界と同じ八月。だけど留加事変は発生していない」

「どういうこと?」

「戦争はわずかな誤解や誤差によって起きる。戦争を引き起こすモーメントとなった誤差が、この世界では生じなかった。それだけのこと。あなたのお母さんの生存も、死を招くモーメントや誤差がなかったから、生まれた現象。登場人物の自動接続はあるけれど、世界そのものは、まったく同じということにはならない」

 要するに、世界というのはキャラクターを一体化させることは可能だが、世界の設定そのものを完全に、現世と異世界で一体化させることは出来ない。

 登はとにかく、そう理解した。

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