第17話 景子(6) 留加めぐみの声

 なに、今の。

 耳に奥で、歌声が聞こえた。

 それとほぼ同時に、景子けいこはめまいを感じた。

 店舗から流出するクーラーの冷気と熱風が混ざり合い、時化しけのようになっている空間。空気が熱と冷気によって分離した境界面。全身の血が固まったような酸欠。商店街の舗装ほそうされた地面が、やけにはっきり見えた。

 そう思っているうちに、頭が真っ白になって、視界がかない。

 座り込んでいると、「大丈夫ですか」という声が聞こえた。その落ち着いた声が、白い闇をふっと晴らした。そして聴覚が、再起動した。蝉の声、店から流れる音楽、流しっぱなしのテレビの音声。すべてが、妙に鮮やかに聞こえた。

 思わず耳の付け根のあたりを、景子はんだ。

 妙に固くなっていた。


「はい、なんとか」


 耳元をマッサージしながら、相手を見つめた。景子と同じ年頃の少女。グレーのパーカーの胸には白い札が下がっていた。景子は、思わず、身を引こうとした。だが次の瞬間、とても恥ずかしかった。

「ごめんなさい」

 いつの間にか、大人たちと同じような動き方をしていたことに、景子は動揺していた。だが、少女は逆にほほ笑んだ。

「あなた、いい人ですね」

「何が?」

「いい人ですね。それだけです」

 午後5時。学校は終わって、仮校舎からの慣れない通学ルートを通って、家に帰る途中。

 さっき聞こえた歌の通り、夕暮れはまだ遠い。


「私の歌が聞こえた」

 景子は、改めて相手の顔を見つめた。色白の細面。やや吊り上がった目尻。ポニーテールに結った髪。

 景子は深呼吸した。

「今の、あなたが歌ってたの」

「はい」

「なんで、あんな歌を?」

 熱風がいでいた。

 微かに笑った口元から、八重歯やえばが、ほの見えていた。

「青空が、にくたらしくなりませんか?」

「別に」

「助けてくれて、ありがとう。吾妻景子あづまけいこさん」

 そう呼ばれた。だが、少女の口は閉じていた。

「なんで、私の名前を?」

 少女はお辞儀して、その場を後にした。

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