第12話 景子(2) 真之と登②

母はうなずいいた。

「いつも、登ちゃんはどうしてるとか、こうしてるとか。最後に“登をよろしくお願いします”と言って終わる。本当は、今の奥さんに全てを任せたいんだろうけど、登ちゃんも頑固だから」

「どうして、こんなにウチと初瀬はせさんちは関係が深いの? 私が生まれる前からだよね」

「初瀬さんがまだえらくなくて、十字台の補給司令部付だった時、この団地の上の階に、1番目の奥さんと一緒に住んでたのよ。それで顔見知りになって」

 景子は目を丸くした。

「1番目の奥さん? でも、登は前の奥さんの子どもで……」

 母は言った。

「正確には、2番目の奥さんの子どもが、登ちゃん。今の奥さんは3番目。最初の奥さんとの間には子どもが出来なかった。そうしているうちに事故で亡くなって。2番目の奥さんを迎えて、やっと登ちゃんが生まれたと思ったら、登ちゃんが小学校6年の時に急死して。そして今の奥さんと再婚した。でも、3番目の奥さんは若すぎる。登ちゃんと10も離れてない。うまくいくわけないよ。真之さんも不幸な人よね」

 母は憐れんでいた。

「登ちゃんも頑固よね。今の奥さんを、“お母さん”と呼んだことがないらしいのよ」

「どうしてそんなこと知ってるの?」

「今の奥さんは、私が働いているスーパーで買い物するから、何度か立ち話したことがあるの。そのときに、こぼしてた」

「そうなんだ」

旦那だんなさんと歳の差がありすぎるから、色眼鏡で見られているけど、マジメな人よ」

 親子で似た者同士、と母はため息をついた。

「たぶん、イジられたこともあるから……」

「え?」

 景子には、何となく後ろめたさを感じていることがあった。

「中学の時、授業参観か、3者面談か、何かで今の奥さんのことがクラスにバレたことがあって。私は別のクラスに属していたから分からないけれど、男子に随分ずいぶんイジられたらしいの」

「酷い」

「それもあるんじゃないかな。登がうまく義母さんと付き合えないのは」

 母は、ため息をついた。

「こないだね……」

「何?」

母がぽつりぽつりと言い出し始めたことで、ロクなことはない。反射的に景子は身構えた。

「留加の女の子がいたのよ。白いお札を胸につけた」

 クラスの渋川恵美しぶかわえみの顔が浮かんだ。留加人であることから、胸に白いお札を付けさせられている。前は活発な子だったが、今ではうつむき加減で、人の陰に隠れるようになった。

恵美えみちゃん?」

「違う。恵美ちゃんは最近、お買い物になんか出て来てない」

 恵美、と思わず心の中でうめいた。正直言って、どうしてあげればいいのか分からなかった。優しく接するのも差別のような気がするし、かといって何もしないのも差別のような気がして、どうすればいいのか分からない。

「はじめて見る子だった。担当するレジのところに来たから声をかけたのよ」

「なんて?」

「留加も大変だけど、頑張ってね」

「いいのかな?」

「いいのよ。もともと同じ日本に住んでいるんだから。これが大柄な男だったらちょっと怖いけど、華奢な女の子。スパイなはずはない」

 母が声をひそめた。

「これは人に言っちゃいけないことのような気がするけれど、そしたらその子」

「留加の子?」

「景子ぐらいの年の、留加の子がね、『ありがとうございます。初瀬家はせけでお世話になってますから安心してください』と言って挨拶したのよ」

「え?」

 景子は一瞬、意味が分からなかった。「本当に初瀬家って言ったの?」

「うん。初瀬なんて苗字みょうじあまりないでしょ。わざわざ名前を出したのは、きっと自分が怪しい人間ではないことを証明するために言ったんでしょう」

 母の湯呑は空になっていたが、新しい麦茶を注ぐこともなかった。母はあさっての方向を向いた。考え事をするときのくせだった。

 しばらくして、母は顔を景子の方に向けた。

「登ちゃんが言い出すまで、自分で言うまで、このことをいてはダメよ」

「分かってるよ。それぐらい」

 景子はそのまま椅子を立って、自分の部屋に戻った。

 分かっているとは言ったが、全然わかってなかった。小学校6年生の冬、登の生母は急死した。くも膜下出血による突然死だった。だが、海外派遣中だった真之は、帰国できなかった。親戚も遠隔地にいたので、幼かった登のお世話を出来る家は、吾妻家あづまけだけだった。結局2週間ほど、登は吾妻あづま家に預けられた。家にある登専用のお茶碗も、お箸もそのときに、母があわてて買って来たものだ。

 この家で、登はずっと無口だった。年末が近づいていたが吾妻家は、登の為に年末年始のお祝いをやめた。母の発案だったが、父も景子も瞬時に同意した。

 葬式の時、最前列で座っている登の所に制服を着た国防隊将校が1人1人、「お父さんのお仕事でお世話になった者ですが……」と言って挨拶していくのを何度も見た。心底吐き気のする光景だった。大人の挨拶あいさつなんてキライ、と心の底から思った。

 登がどう思っていたのかは、よく分からない。どんな表情をしていたのかも、ぼんやりとした記憶の海に沈んでいる。ただ、母が用意したお仕着せの小さな背中が、目に焼き付いている。

 葬儀が終わり、父親が帰還して、新しい奥さんを迎えてからも、登はよく景子の家に来た。あんまりにも来るので、母が「新しいお母さんとももう少しうまくやってあげないと。お母さんも辛いと思うのよ」と声をかけたことがある。

それで、しばらく来なくなった。でも、また来た。

母はもう登のことをとがめなくなった。


どうしてるの、と一言聞くだけなのに。

その一言が、あまりにも重たい。

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