第8話 都営団地の夕暮れ
学校が終わってから、
「こんにちは、お
「あら、登ちゃん」
「お邪魔してもいいですか?」
突然の訪問だったが、おばさん(景子の母)は、驚かなかった。
「いいけれど。景子は、部活でいないわよ」
「知ってます」
「ならいいけど」
おばさんは、台所で夕食の準備に忙しい様子だった。登は、リビングに座った。おばさんは、豚肉をパックから取り出している。
「お父さん、忙しいの? 統合幕僚長だもんね」
「ええ、まあ」
「このあたり、国防隊の施設が多いでしょ。だから最近、軍の車が多くなったわよね」
「ええ」
「学校の隣でしょ、補給司令部は……。最近忙しそうね」おばさんが聞いた。
「最近、
「そうなの。でも、きっと忙しいわ。お父さんもずっと勤めてらして……。隊員さんの必要なモノは全部、調達しないといけないですものね」
十字台補給司令部が、事変発生と共に忙しくなったのは周知の事実だ。作戦行動に必要な物資、弾薬、糧食は、
施設科出身の親父もここには縁が深い。コネで出世する前は、「十字台補給司令部の番人」と
今日、あの家には帰りたくなかった。若い義母の存在のために、自分がどんな酷い目に
登は
人は、下品な方向にしか想像力を働かせない。戦争の勝者と敗者、男の主人と女の
「登ちゃん」
あ、はい。
台所で作業していたおばさんが顔を出した。ほとんど上の空で、おばさんの言ったことが分からなかった。
「え?」
「とんかつ、今日の夕食はとんかつだけど、いい?」
「あ……。ええ、とんかつ大好きです」
「なら、よかった」
おばさんが、顔をひっこめた。他にすることもないので、登も台所の方に行って、おばさんの下ごしらえをじっと観察した。豚肉が、水で溶いた小麦粉をつけられている。
「おばさん、卵使わないんですか?」
「使わない方がいいの。そっちの方がからっと上がるから」
おばさんは、豚肉をパン粉の上で丁寧に転がした。正直言って、とんかつの衣のことなんかどうでもよかった。ただその裏に〈ちゃんとした日常〉があると分れば、それで良かった。
「登ちゃんは、部活とかやらないの?」
手を動かしながら、おばさんが聞いてくる。パン粉にまみれた手が、働いている人間の
登には、とても魅力的に見えた。
「……帰宅部です。特に興味ないです」
「そうなんだ。景子が、肉ばっかり欲しがるから」
アーチェリー部所属の景子は、実は結構筋肉質だ。そのため肉料理を好む。手を止めないで、おばさんが言った。
「登ちゃん、お
「
「そう」
嘘だった。とにかく面倒だった。
赤みが強い、夏特有の夕日がベランダに差し始めていた。クラックの入った団地の壁にオレンジの光が
「今日は晴れたけど、また明日から雨が続くんだって」
「そうらしいですね」
テレビは消してあったが、付ける必要があるとは思わなかった。
「大変ですよね。洗濯が出来ないと」
「そうなの。部屋干しだと生臭くなるから大変。景子が部活で使うジャージとかタオルとか洗濯しないといけないのに……」
「今度、台風が来ますよね」
「そう。もう台風5号でしょ。多すぎる」
鍵の開く音がして、「ただいま~」という声がした。少し間があって「あ、登。来てたんだ」という声がした。玄関に登の靴があることに、目ざとく気づいたらしい。
リビングに入って来た景子に、登は手を申し訳程度に軽く手を挙げた。景子はちらりと登の方を見てから、テレビのリモコンを入れた。
「お母さん、お風呂、先入る」
「わかった」
テレビでは、天気予報が流れ始めていた。おばさんの言う通り、台風が来そうだ。
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