第8話 都営団地の夕暮れ

学校が終わってから、のぼるは再び都営団地に足を向けた。

「こんにちは、お邪魔じゃまします」

「あら、登ちゃん」

「お邪魔してもいいですか?」

突然の訪問だったが、おばさん(景子の母)は、驚かなかった。

「いいけれど。景子は、部活でいないわよ」

「知ってます」

「ならいいけど」

 おばさんは、台所で夕食の準備に忙しい様子だった。登は、リビングに座った。おばさんは、豚肉をパックから取り出している。

「お父さん、忙しいの? 統合幕僚長だもんね」

「ええ、まあ」

「このあたり、国防隊の施設が多いでしょ。だから最近、軍の車が多くなったわよね」

「ええ」

十字台区じゅうじだいくは、明治時代から軍の兵站施設があるため、「軍都ぐんと」として知られていた。現在も国防隊十字台駐屯地、国防隊十字台補給司令部が立地する。

「学校の隣でしょ、補給司令部は……。最近忙しそうね」おばさんが聞いた。

「最近、機密保全きみつほぜんのために、高い塀で目隠しされました。だから中の様子は、よく分かりません」

「そうなの。でも、きっと忙しいわ。お父さんもずっと勤めてらして……。隊員さんの必要なモノは全部、調達しないといけないですものね」


 十字台補給司令部が、事変発生と共に忙しくなったのは周知の事実だ。作戦行動に必要な物資、弾薬、糧食は、十字台ここに一度集められてから、前線へさばかれていったからである。

施設科出身の親父もここには縁が深い。コネで出世する前は、「十字台補給司令部の番人」と揶揄やゆされるほど、長く十字台補給司令部に勤務していた。在任期間があまりにも長かったため、今の家を買ったのである。


 今日、あの家には帰りたくなかった。若い義母の存在のために、自分がどんな酷い目にってきたか。しかも、今は自分と同じ年齢の少女がいる。


 登は呪詛じゅそのような言葉を、心の中で呟き続けている。

人は、下品な方向にしか想像力を働かせない。戦争の勝者と敗者、男の主人と女の召使めしつかい。この状況では、誰もが性的な関係(それも強姦ごうかん)を連想する。特に女の話に興味津々きょうみしんしんな男子高校生は、「ヤッたのか? オイ~」と詮索せんさくするに決まってる。あのクソ親父め。息子の立場というものを理解していないのか?

 次第しだいにイラつきが、貧乏ゆすりとなって、床を鳴らし始めていた。

「登ちゃん」

あ、はい。

 台所で作業していたおばさんが顔を出した。ほとんど上の空で、おばさんの言ったことが分からなかった。

「え?」

「とんかつ、今日の夕食はとんかつだけど、いい?」

「あ……。ええ、とんかつ大好きです」

「なら、よかった」

 おばさんが、顔をひっこめた。他にすることもないので、登も台所の方に行って、おばさんの下ごしらえをじっと観察した。豚肉が、水で溶いた小麦粉をつけられている。

「おばさん、卵使わないんですか?」

「使わない方がいいの。そっちの方がからっと上がるから」

 おばさんは、豚肉をパン粉の上で丁寧に転がした。正直言って、とんかつの衣のことなんかどうでもよかった。ただその裏に〈ちゃんとした日常〉があると分れば、それで良かった。 

「登ちゃんは、部活とかやらないの?」

 手を動かしながら、おばさんが聞いてくる。パン粉にまみれた手が、働いている人間の堅実けんじつさに裏打ちされている。

 登には、とても魅力的に見えた。

「……帰宅部です。特に興味ないです」

「そうなんだ。景子が、肉ばっかり欲しがるから」

アーチェリー部所属の景子は、実は結構筋肉質だ。そのため肉料理を好む。手を止めないで、おばさんが言った。

「登ちゃん、お義母かあさんには連絡してあるの?」

義母ははには、一応……」

「そう」

 嘘だった。とにかく面倒だった。

赤みが強い、夏特有の夕日がベランダに差し始めていた。クラックの入った団地の壁にオレンジの光がみ込んでいく。

「今日は晴れたけど、また明日から雨が続くんだって」

「そうらしいですね」

テレビは消してあったが、付ける必要があるとは思わなかった。

「大変ですよね。洗濯が出来ないと」

「そうなの。部屋干しだと生臭くなるから大変。景子が部活で使うジャージとかタオルとか洗濯しないといけないのに……」

「今度、台風が来ますよね」

「そう。もう台風5号でしょ。多すぎる」

鍵の開く音がして、「ただいま~」という声がした。少し間があって「あ、登。来てたんだ」という声がした。玄関に登の靴があることに、目ざとく気づいたらしい。

 リビングに入って来た景子に、登は手を申し訳程度に軽く手を挙げた。景子はちらりと登の方を見てから、テレビのリモコンを入れた。

「お母さん、お風呂、先入る」

「わかった」

 テレビでは、天気予報が流れ始めていた。おばさんの言う通り、台風が来そうだ。

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