第5話
※
日曜日になると、珍しくその日は一日フリーだった。空を見れば、心をくすぐる蒼穹はお前にはふさわしくなかったとでもいうように立ち消え、一面灰色の雲に覆われていた。もうすぐ梅雨に入って、何もかもが閉ざされてしまうような気がした。私は朝の時報のまま、時計女のそばに昼前までいて、街を眺めた。生温い空気の中に、不安げな風が吹いていた。ゼロでもイチでもない世界だった。そんな中で時計女はみじろぎせずに、じっと体育座りで座っていた。彼女はもしかしたら街中のあちこちから伸ばされた見えない電線で、がんじがらめに繋がれているのかもしれない。だから動けないんだ。そして、今日なんかはいつもより不純な電気が多く行き交っているから、その一身で街の負担を過剰に背負わされているのだろう。不憫に思い、時計女の背中をさすってあげると、彼女はくすぐったそうに「ククク」と鳴いた。
部屋に戻ると、着信履歴があった。河島百合だった。掛け直すと、二回目のリダイヤルで彼女は出た。第一声から彼女は呂律が回っておらず、明らかに口調が前回会った時とは違っていた。
「なあにい、ケラちゃん」
「どうしたの百合。あなたが掛けてきたんじゃない」
「ああ……、ねえ、あたし、修人と寝たのよ、知ってる?」
「へえ、よかったね」
「はあ? なにが?」
そうか、矢森は河島と付き合ってるのか。これでひと段落だなと思っていると、彼女が受話器の向こうで不満を噴出させた。会話の糸が見えてこない。
「なにがって?」
「なにがよかったのかって訊いてんのよ!」河島は金切り声にも近い声で怒鳴った。私は勢いにたじろぎ、一瞬、間をおいて正直に答えた。
「だから、矢森と見事付き合ってるってことでしょう? 前に百合からは彼が好きだって聞いてたからこうして祝ってるんだよ、なんかおかしい?」
「なんかおかしいですって? 笑っちゃうわね! まったくおかしいわ!」
「ねえ、落ち着いてよ百合。あなたが何を言いたいのか私にはよく分からないんだけど」
「なんで分かってくれないの! だから、あたしは修人と寝てるのよ」
「だからあのあと付き合えたんでしょう?」
私が宥めすかそうとしたが、彼女は逆上した。
「なに言ってんの? 違うわ、あなたと会う前からずっとよ。もう何十回と寝てるわ。それなのになんで矢森はまだあんたみたいな水の女と付き合ってるのよ! あんたなんか心も身体もグシャグシャに汚れてるのに、信じらんない! お前らなんか死んじゃえ!」
「ねえ、それってどういう……」
彼女は一方的にまくしたてると通話を切ったため、私の疑問は打ち上げられた魚のように床に落ちて、無様に小さく跳ねている。
午後に雨が降ってきた。まだ湿気はそんなになく、春の雰囲気も残っている軽やかな雨だ。これからはそうそうないのかもしれない。
窓辺で、本を読み、雨でくすぶる外界を見ていると、河島百合という人物のことを思い出した。中学校に入ると疎遠になったのだが、それは自然な流れではなかった。私は彼女が苦手で、それでわざと離れたのだ。昔、河島百合と似顔絵の授業でペアを組んだ。木材や粘土の匂いの立ち込める図工室だ。丁度季節も梅雨に入るか否かのこれくらいの時期だったのかもしれない。彼女とは悪い関係ではなかった、むしろいい関係だったと思う。だから私は彼女とペアを組み、そして互いの似顔絵を描いた。
こないだは髪を下ろしていたが、その頃河島は髪をツーサイドアップにして、リボンをあしらったかわいい髪ゴムをつけていた。大人しかったため、クラス内で中心的な存在ではまったくなかったものの、小柄なのもあって男子の一定層からは支持を受けてた。だから私もなんとなく好感を抱き、彼女とペアを組んだのだろう。
授業も終わりの頃になり、描いた似顔絵を互いに見せ合うことになった。彼女は休み時間に落書き帳にアニメのキャラを描いてることもあって、デッサンの線がこなれていて、写実的とは言い難いものの、決して出来は悪くなかった。私はといえば、ダメだった。私が描いた彼女の顔貌にはおおよそ褒める部分というものが存在しなかった。筆に触ったこともない素人が写実的にやろうとして、そもそもピントがずれてることに気づかない失敗例そのものだった。それに私はスケッチにあまり興味がなく、これまで巧くしようとしてきたこともなかった。だから失敗するのも当たり前だ、なんて気持ちで彼女にその用紙を渡すと、それまで楽しげだった彼女はちょっと紙に目を向けると驚くほどに無表情になって、その絵をビリビリと引き裂いたのである。先生は慌てて飛んできて、彼女を叱ったのだが、彼女自身は不思議そうな顔をした。
「なんで? あたし悪くないじゃない。悪いのは、ケラちゃんだよ。誰だって自分の絵を適当に描かれたら嫌じゃない?」
そんなことを言うのだった。私は弁明することもできず、俯いて涙を零した気がする。当時の私にとって、それは耐えがたいショックであり、それから彼女からは距離を取るようになったのだった。河島は自分の気に入らないことに対してある種の容赦のなさをそなえている。それを思うと、矢森を店舗までけしかけたのは河島だったというのも自然な流れだったようだ。
「要は前からヒスだったわけだ」
一人で納得すると、本をパタンと閉じて、私はコーヒーを啜った。
「今でも好きになれないかい? 思い返すのも嫌?」
壁際でヒンズースクワットをやっていたダンボール男が訊ねる。
「好きにはなれないけど、私に構わないで生きててくれたらいいんだ。ああいうタイプは。それに今更、昔のことなんてどうでもいいよ」私は笑った。「そんなことより」
「うん?」彼はスクワットをやめて立ち上がった。
「もうすぐ梅雨だね。私って梅雨が冬と同じくらい苦手なんだ。雲が立ち込めてどこへも行けない気分になるから」
彼も窓辺に来て、千の糸みたいな雨の降る景色を見た。街路樹が濡れそぼって緑葉から滴を落としている。
「大丈夫だよ」ダンボール男は息を吐いた。「曇ってるけど、心配することじゃない。春はいったん閉じられるかもしれないが、舞い上がった塵が土に固められて、もっと陽気な季節が来る。梅雨は梅雨でいいものだよ。雨だって心に欠かせないものだ」
「時計女って雨の日はどうしてるの?」
「雨のときだって彼女は屋上にいるさ。彼女は自然そのものなんだから」
「じゃあ、あなたは時計女のこと好き?」
「そりゃあ好きだよ。時計女を嫌うなんてことは、自分を嫌いになるのと同じことだ。考えられもしないことだよ」
その夜、私は二人にメールを送った。迷いもあったし煩わしくも思えたが、立ち止まったところでそれは問題を先延ばしにしているに過ぎない。私の問題は私が答えを与えていく必要がある。それによって何かが終わってしまうなら終わりを見届けて、始まりを待てばいいだけのことだ。
「誰かとどれだけ性交したって、心の綺麗さとは関わりがないどころか、幸せのかたちともまったく関係がない。なぜならそれは幸せの付随物に過ぎないのだから。自分を騙すことの醜さは他人からすれば明らかなのだから、君たちちゃんとしないとだめだよ」
文面を書く前は意気込んでいたものの、いざやってみるとなかなかどう言ったものか分からないので、短くそれだけ書いて、二人に一斉送信した。送ってしまうと、心が晴れやかになって、携帯の電源を落とすと私はすぐに眠りに落ちた。
※
まだ辺りの暗い五時半に起きると、ダンボール男はいつもと変わらず、立ったまま腕を組んでいた。私に気がつくと、目玉焼きとベーコンを焼いてトーストに乗せて出してくれた。
「ねえ、未来のことって考える?」
「考えたりはしないな」
「どうして?」
「そんなの考えることじゃないからだよ。なぜ呼吸するかっていったら呼吸をするからだ。なぜ未来が来るかっていったら未来が来るからだ。ケラ美、君は海に放り出されたらどうする?」
彼は煙草を吸って、その煙が部屋を横切る。私は少し逡巡して答えた。
「身体の余分な力を抜く……」
「そう」彼は灰皿の角で叩いて、煙草の灰を落とした。「一番いけないのは、溺れそうだからってジタバタと足掻くことだ。そうしてしまえばどんどんことは悪い方に向かってしまう。大事なのは自分の流れに身を委ねることだよ」
私はパンを食べ終えると、手で粉を払って、煙草に火を点けた。ダンボール男ももう一本煙草を吸った。二人で吸う煙草はおいしく、慣れた沈黙は贅沢そのもののように感じた。私はぼんやりと、過善症について考えていた。もしかしたらそれは個人的な病理ではなく、生まれつきどの人にも与えられる課題のようなものかもしれない。それをどう処理していくか、どう付き合ってくるかが問題で、その過程そのものが人生と呼ばれるのではないか。そんなことを思った。
「それじゃあ、私、屋上に行ってくる」時計を確かめてから私は言った。
「そう。時計女によろしく」
「うん……、じゃあね」
玄関から出ると、雨の甘い匂いが鼻腔をついた。雨は昨夜には上がり、雲も空を覆い尽くすほどではなかった。今日はおそらく晴れるだろう。
屋上に上ると、街は昨日よりもひらけて見えた。闇は大気中の光りに溶かされ、今はその気配だけが残っている。遠くまで見遥かすと、家々の様々なアンテナが手を上げ、今日という日を待っているのが見えた。山の嶺は青く連なり、厳粛な雰囲気をもって街を守っている。空気の粒は静かにふるえている。
黒いセーラー服の時計女は三角座りのまま、顔を上げて薄眼を開いて街の様子を眺めていた。私は横で煙草を吸った。こうしているのも何回目だろう。今や、こうするのが自然な習慣となっている。不自然さや不器用さが剥ぎ取られた私の行為だ。清々しい空気に身を晒して、私は今日も生きている。
煙は生まれ、そして消える。
ひときわ眩しい光りが私の網膜を刺激する。太陽が昇ってきたのだ。さあ、始まりだ、と私は思った。うまくやらなければ。
時計女がそわそわしだした。小刻みに喉を震わせているのが分かる。彼女がどちらに向かって立つか、どのタイミングで叫びを上げるか、私は既に把握していた。時計女が膝に力を入れたところで、私はその前に躍り出た。屋上に段差はなく、端に立ったことで壁を吹き上げる風が背中を掠めていく。一歩遅れて立ち上がった時計女は、街を背に視界を塞ぐ私をじっと睨んだ。初めて時計女を真っ正面から見た気がする。黒く深い瞳だ。その中に太陽の光りがちらついてる。私は口元を歪めて、嘲笑するように言った。
「ねえ、あんた正面から見ると意外と若くないのね」
時計女は激昂したのか、両の手で勢いよく私を突き飛ばした。身体がぐらりと後ろに揺れて、支えるもののないままに、重心が移動し、視界が逆さになっていく。それは恐ろしく遅い現象だった。建物の壁の横を、私は落下していく。パシャリパシャリとまばたきするごとに写真が生まれる。間近にあった屋上が、少し離れ、次の瞬間には遠くにあった。風はずっと唸り、耳元で何かを叫んでいる。涙を流すと、雫は私を離れ、宙に浮いた。地面が近いことが分かる。アスファルトにもうすぐ叩きつけられるだろう。恐怖はいつでも遅れてくる。衝撃よりも大事な思いが私の中には広がっていた。それは世界そのものだった。そして新しい景色。還るべきところ。私は衝撃の直前、落下の最期に目を閉じた。
時計女の発した言葉が遅れて脳裡に蘇る。
「世界に意味を与えるのはいつだって自分よ、何言ってるの」
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